東京・本郷――。約150年前に現在の東京大学が創立して以来、日本の教育の中心地として発展。夏目漱石や森鴎外、樋口一葉などの名だたる文豪たちが愛した地でもある。
そんな古き良き山手の佇まいが残る、長屋の一角で昼間から営業しているのが、オープン一周年を迎えたノンアルコールカクテル専門の完全予約制バー「澱々 -oriori-」だ。
ドリンク作家のemmyさんが、まるでお茶を点てるように一杯ずつていねいにカクテルを提供するバーとして評判になっている。
近年は、あえてお酒を飲まないソバーキュリアスと呼ばれる人も増えていると聞く。従来のバーのスタイルとは違った同店の魅力をはじめ、新しいコンセプトをいかにブランディングしたのか、話を伺った。
まるでアフターヌーンティーを楽しむ感覚。バーだけど昼間からオープン。
店内に入ると、まるで京料理屋に来たような、落ち着いた和の設えと重厚感のあるカウンターが目につく。
カウンターに立つのが、店主であり、ドリンク作家のemmyさんだ。11時と13時からの完全予約二部制で、ノンアルコールドリンク4種と、チェイサーにアルコールかティー、茶碗蒸しやあんみつなどのお茶菓子で構成された1万5,400円のコースを提供する。
「店名を『澱々』にしたのは、液体に沈む澱から来ています。いろんな要素が折り重なる様子をイメージして決めました。バーテンダーを名乗って活動していた時期もありましたが、どうもしっくりこないし、通常のバーやカクテルの印象から視線をずらしたかったんです」
これまで監修やポップアップなどを通じ、ノンアルコールカクテルの楽しみ方を広める活動をしてきたemmyさんだが、次第に資材や冷蔵庫などを置くスペースが必要になり、一念発起。せっかくスペースを持つならば、自身が提供するカクテルの世界観をプレゼンテーションできる場にしたいと考え、アトリエ兼スペースとして店をオープンした。
元はアパレル企業で働いていたというemmyさん。転職の合間に面接に行った飲食店で、 人手が足りないからと系列店に誘われたのが、バー業界に入ったきっかけだと語る。
「老舗のバーで働いた後、ライフステージの変化により今後の活動を本気で考えるようになりました。シングルマザーでもあるので、できること、できないことがクリアに見えてきたんです。私が働いていたバーは職人気質な男性社会で、そもそも夜の仕事ですから、これは続けて行けないなと思っていました。
当時はまだ女性のバーテンダーは少なかったですし、一生続けられる仕事なのか、不安もありました。そういう意味でも、退路を断つ覚悟で今の営業スタイルに行き着いたかたちです」
お酒を飲む人も飲まない人も楽しめるコンセプト
「ノンアルコールカクテルが主体ですが、飲める人にはチェイサーとしてお酒を提供していて、飲める人も飲めない人も楽しめるバーにしたいと考えました。コロナ禍を機に、ノンアルコールの提供が広がりましたが、私が始めたのはコロナ前で、とくに流行っていたわけではありません。
ただ、ほかにやっている人がいなかったので、差別化できるとは考えました。ほかのバーテンダーが考えつくことをやってもしょうがないという思いはありましたね」
日本ではとくに、お酒を飲む人、飲まない人が分断されがちだが、多様性というキーワードが今の時代感に沿ったコンセプトだと言える。
客層は30〜50代の食への感度の高い女性客が多く、飲む人、飲まない人が半々で、アフターヌーンティーを楽しむような感覚で来店する。また、16時から20 時までは常連向けに、予約紹介制で1杯からオーダーできるアルコール提供ありのバー営業もしている。
創造性と独創性に富んだノンアルコールカクテルが提供されると評判の同店。それこそが一番の求心力となっていて、上質な一杯を味わえるぜいたくな時間を楽しめる空間を提供したいと語るemmyさん。
カウンター内には蒸留機があって、カクテルを作る一工程を切り取ると、さながらラボラトリーのようだ。さまざまな旬の果実や樹木や花などから抽出されたエッセンスが作られ、芳醇な香りとともにカクテルが味わえる。
無限に広がるノンアルコールカクテルの魅力をコースで発信
デザート専門店とのコラボレーションでは、エディブルフラワーの『バラ』をテーマに数ある種類のバラのそれぞれの香りや味を抽出し、他食材と組み合わせで特徴を活かしたドリンクを作成。デザートとのペアリングコースイベントを行った。
林業家との共同プロジェクトでは『森の入り口』をコンセプトに、間伐採されたヒノキやスギ、土などを使い、林業との関係や山と営みの流れをイメージしたドリンクを作成しアートブックと共に提供。
ノンアルコールだからこそ、作り上げていくほどに組み合わせが無限にあって、表現性が高くて面白い。その世界観をもっとも表現できる手法として、現在の季節によって変化するコースが出来上がったという。
「従来のカクテルみたいにレシピが決まっていないので、自分で一から作り上げる楽しさがあります。作る過程も時間がかかるので、その価値を体感してもらうにはどうすればいいかな?と逆算して考えた結果、ゆっくり楽しんでもらえるコースでの提供に行き着きました」
住宅地とオフィスが混在する本郷の立地を生かし、コースでゆっくりとバリエーションを楽しめる設定を売りに、今後は接待での集客も目指したいと語る。
また、「ドリンク作家」と「バーの経営者」の2つの肩書きを使い分けて仕事しているのが印象的だった。
「資金調達が大変ではありましたが、ハード面を整えることはそこまで苦ではなかったんです。問題はそこからで、当たり前なのですが、なにしろ初めての開業で、自分で集客や告知をしなければならないことに直面しました。自分にとってこの店がどんな立ち位置にあるのか、伝え方は結構考えましたね」
また、バー営業だけでなく、2階で着付け教室や作家の作品の展示などのさまざまなワークショップをはじめ、飲食店とのコラボレーションも手掛ける同店。
相手が飲食店関係者であれば、「ノンアルコールのバーをやっている」と説明し、アーティスト相手には、「ドリンク作家 をやっている」と説明するというが、その意図は?
「たとえば飲食店関係者に『ドリンク作家』と言い切ってしまうと、どうしても味の部分が見えづらくなるし、味や質に疑問が湧いてくるので、言い方を変えるようにしています」
経営する上で、予約のサイクルを着実に回すこと、テイクアウトを始めること、監修仕事を増やしていくなど、やりきれていない課題はまだまだあるというが、最後に店を起点に発信していきたいことについて聞いた。
「フードにはすでにクリエイティブな観点のコンセプトのものが幅広く揃う中で、そういった視点で見られるドリンクはまだまだ少ないと思うんです。活動を通じ、表現力の幅広い飲み物の価値を高めていきたいですね。そんな思いもあって、今後は、シェフとのコラボレーションや、食だけではなくさまざまな業種の方と関わりたいと考えています。文化に関心があるため、各地に訪れ、その土地の歴史や文脈、食材に向き合い、ドリンクを通して可能性や魅力を伝えていきたいという思いも強くあります。どんな方にでも飲んでいただけるノンアルコールカクテルの強みを生かし、いつか海外にも出店できたらいいですね」
これまでのバー業態にはなかった新しい顧客の開拓を続ける「澱々-oriori-」。
お酒を飲めない人も含め、新しい付加価値が多様な時代にフィットし、さまざまなコラボレーションが生まれそうだ。今後の同店の進化に注目したい。
バー ノンアルコールカクテル専門店「澱々 -oriori-」
https://www.instagram.com/oriori_kikuzaka/
東京都文京区本郷4-30-5