BUSINESS | 2024/01/14

能登半島地震のSNSバトルにうんざりな人に
知ってほしい「政治的主張と事実を分ける」
考え方

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(45)

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(Photo by Shutterstock/写真はイメージ)

能登半島地震で被災されている方へのお見舞いを申し上げ、一日も早い生活の再建を祈っています。

今回記事では、高校生だった頃に阪神淡路大震災で被災し、家の近所がワンブロック丸焼けになったりした私の経験から、こういう災害の時に情報が錯綜し、その混乱が政治利用されて余計に混乱に拍車がかかってしまうような現象について、私たちがどう対処していけばいいのか?について考える記事を書きます。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。

1:「道一本向こう側」で全然状況が違うのが災害現場

あなたがもし大きな災害に被災した経験がある人ならば合意してくれると思うのですが、災害というのは非常に「不平等」なもので、ほんの道一本隔てた場所で全然違う被災状況ということが十分ありえる現象です。

私が高校生の時に被災した阪神淡路大震災では、かつて通っていた公立小学校の近辺にある木造住宅密集地が完全に焼け野原になってしまいましたが、ほんの道一本隔てた私の実家があったエリアはほぼ無事でした。

それどころか、数日中に電気は復旧し、少なくとも自分の家族の生活について言えば、給水車に並んだりカセットコンロを使ったりする不便はあれどかなり“日常”生活を送ることができました。

避難所になっている小学校に何度かボランティアに行きましたが、そこに避難している同級生と自分との境遇の違いがとにかくショックだったことをよく覚えています。丸焼けになったエリアには小学校時代よく遊びに行っていた友人の家がいくつもあり、ものすごく見晴らしがよくなってしまったそのエリアを通るたびに、彼らはどうなったのか心が痛かったです。

直下型地震である阪神淡路大震災はこういう「道一本でぜんぜん違う」が非常に鮮明な災害でしたが、これほどではないにせよ、多くの大災害はこのように「被災度」が場所によって全然違います。

土地勘のない他地域の人から見れば、あるいはその「渦中」にいる人から見ても、

「どこも同じように悲惨な被害なのだろう」

「どこも同じようにある程度軽微な被害なのだろう」

…と自分の見えている「点」の現象から類推してしまいそうになりますが、しかし実際には「ある地域」は本当に悲惨な被害にあっており、そして「ほんのちょっと隣の地域」ではほとんど無傷と言っていいような状況であることが珍しくありません。

「被災地からの情報」が錯綜してしまうのには、そもそもこの「現実の被害がいかに容赦なく“まだら”であるか」という前提がなかなか体感的に理解しづらいからなのだと思います。

要するに、災害に対して適切な支援を行っていくには、いわゆる「現地情報の解像度を上げていく」ことがどうしても必要になってくるんですね。

「一緒くた」になっている情報を細かく分析し、「現時点でのA地域でのこの問題に関してはこう、現時点でのB地域でのこの問題はこう」というようにどんどん解像度を上げていくことによってのみ、適切な支援が可能になる。

2:ボランティアは必要?不要?能登半島の道は渋滞している?

今回の地震に関するボランティア関連情報は、公益財団法人石川県県民ボランティアセンターが運営するサイト(https://prefvc-ishikawa.jimdofree.com)が発信している

例を挙げます。

震災発生以来、ボランティアは必要なのか必要でないのか、あるいは能登半島の道は渋滞して交通が麻痺しているのかいないのか、という話についてSNSでは大激論になっています。

しかしこれは、「解像度が低すぎる」議論をしているがゆえに、パズルのピースにすぎないものを皆が必死に「全部」だと言い張って全否定しあっている現象ではないでしょうか。

「道の渋滞度」に関しても、能登半島の南側エリアと、いわゆる「奥能登」と言われる北側エリアではぜんぜん違うでしょう。そしてこの「渋滞度」も、一日、半日経つ中で、あるいは時間帯によってどんどん状況は変わってきておかしくない。

そして、少なくとも「奥能登」エリアについては1月9日時点でも、現地の人からの声として普段の倍〜3倍の時間がかかっているので自粛要請を継続してほしいという話が出ています(石川県選出で、自らも被災した立憲民主党の近藤和也議員のXポストより)。

なお近藤議員はこのポストの後、1月12日には孤立集落になっている輪島市鵠巣地区を訪問し住民の要望をヒアリングしたと投稿しており、今後も一日、半日単位で情勢が変わってくることは間違いありません。

一方で、グーグルマップの渋滞情報や、現地入りしている色々な人達の証言を見ていても、「奥能登」以外のエリアについては、渋滞はかなり解消されていると見ていいようです。

SNSの議論では、「奥能登」と「それ以外」どころか、「“能登半島の渋滞”はどうなんだ」、場合によっては「“石川県の道”は渋滞しているのか」みたいな一緒くたな議論で全否定しあっていますが、こういう議論は全部無駄です。

「無駄」なだけでなく、そうやって「一緒くたな全否定合戦」に巻き込まれると、

「X日までは渋滞していたこのルート、復旧してきたのでそろそろ解禁していいです。この地点から先はまだご遠慮ください」

…というような、冷静かつタイミングを捉えた方針転換ができなくなってしまいますよね。

また「ボランティア」と言っても、「何の準備もない、単なるマンパワーとしてのボランティア」もいれば、そもそも装備・物資の用意も支援先の選定も自分たちででき、自治体などとも連携している「プロのボランティアグループ」というのは全然違います。

前者の「アマチュアのボランティア」さんたちは一切不要な存在かというとそんなことはなく、行政側が余力を取り戻して受け入れ態勢を整えた後であればむしろ絶対的に必要な存在となります。

しかし、多くの「被災地の行政側」を担った経験のある人が言っているように、「受け入れ態勢」が整う前に大量の「アマチュアボランティア」がこられても余計に混乱しますし、来た人たちが渋滞を引き起こし、また貴重な物資を消費したりもします。

だから、「被災地の行政」側が、「準備ができるまで来ないでください」と発信することには十分意味がある。

ただし、これは「プロのボランティア」の人たちとは別の話ですよね。自分たちで装備を整えて自分たちの判断で現地入りし、支援が必要な先を自力で見つけて手慣れた支援内容を提供しようとしている人を断る理由はなにもない。

交通状態が最もシビアだった最初期には、そういう人たちにも遠慮してもらわざるを得なかった時期もあったかもしれませんが、今はもうそういう段階ではないでしょう。

これも、「アマチュアのボランティアさんたち」と「プロのボランティア団体」をごっちゃにして、解像度が低い状態で全否定合戦をしていると狭間に落ち込んでしまうリアリティだと言えます。

こういう「全否定合戦」が放置されていると、結果として「アマチュアのボランティアが大挙して来てしまう」事態を避けるために、現地からは「ボランティアは来ないで」という対象範囲を広げすぎる発信をせざるを得なくなってしまいます。

しかし本来、

・プロのボランティアは来てもいい

・アマのボランティアはもうちょっと待ってください。でもいずれ必要になりますから、解禁の呼びかけを注意して待っていてください!

…という解像度が上がった議論が共有されていれば、全否定合戦のスキマに「本当に必要な判断」が落ち込んでしまうこともなかったでしょう。

3:「嫌いな政治主張をする人」でも「ファクトだけ」受け取ることが大事

ただし、ここまでの話は少し理想論的に感じたかもしれません。

情報が錯綜する災害現場において、そうそう「理性的な判断」ばかりはできないよ、という話はよくわかる。

結局「災害対策本部」的なところに集められる情報をもとに現地の人が判断して動いていくのを邪魔しないという程度のことしか部外者にはできませんが、ただまずはそういう「解像度」の問題があるのだ、ということを私達は理解することが大事だと思います。

・「“石川県の道”は混んでいるのか」みたいなレベルの話でなく、もっと地域ごと、道路一本一本の時間帯ごとといった、現地事情に即した解像度で細かく見ていけるようにする

・「ボランティア」といっても、「アマチュアボランティアさんたち」のことなのか?「プロのボランティア団体」のことなのか?をキチンと分別して議論する

こういう意識を持って、細かい情報を一個ずつ精査していく姿勢を持てるかどうかが大事ですよね。

そして現地から散発的に届けられる情報に接する時に、その人の「政治的主張」と「ファクト(事実)」を分離して後者だけありがたく受け取るという姿勢が重要になってくるでしょう。

こちらも例を挙げます。

ある左派系の人物が現地入りをして、ある地域の道路事情が今は改善しているというレポートを上げていて、私はその「ファクト(事実)」自体は非常になるほどと思って読みました。

ただしこれは注意が必要で、その人が見ているのは「点」でしかないことです。

「その道路」の「その日・その時間帯」の現象だけについて述べており、今後も変動が大きいでしょうし、細い道だから「誰でも来てOKだ」という話になったらすぐに詰まってしまうのを現地の人たちは警戒しているのかもしれない。

とはいえ、「ファクト(事実)」としては非常に有意義な情報だったと思います。

ただし、その発信は、後半になると唐突に「本来は率先して現地を視察し対策を打たなければならないのに、政府や国会議員は渋滞の発生ばかり気にして動かず、被災者を見殺しにしようとしているのだ」という陰謀論に片足を突っ込みかねない内容に発展していって、突然の落差が有名な漫画の『MMR』みたいで面食らってしまいました。

ただそういう「陰謀論的に騒ぐ人も出てくるほどの味付け」があるからこそ情報が着火して伝わる側面もあるので、私達としてはその「政治的主張」は切り離して「ファクト」だけをありがたく受け取っていく姿勢が必要でしょう。

また、逆向きの話では、そもそも「ボランティア(あるいはNPO)」という存在を快く思っていないアンチ左派的な発信者が「プロのボランティア」まで否定する発信をしているのも良く見かけます。

これは単純に言って望ましいこととまでは言えませんが、そもそも「アマのボランティア」と「プロのボランティア」が分別できてない言論環境の中では、そういう風に「一緒くたに否定するアナウンス」をする人たちが一定の役割を果たしているのだ、とも言えるでしょう。

そういう人たちがSNSで騒いでいたとしても、「プロのボランティア」さんたちは粛々と自分の役割を果たしてくれたらいいですし、「そういう暴論」の存在が「アマチュアボランティアが引き起こす混乱」を抑止してくれていることが、「プロのボランティア」の人の活動にとっても役に立っている面はあるはずです。

ちゃんと「プロとアマ」が分別された議論が共有されているのがベストなのは明らかすぎるほど明らかですが、そこまで冷静な議論ができないのであれば、「反ボランティア」側の意見もその「政治的立場」自体は切り離してしまって、「アマチュアボランティアの投入タイミングは注意が必要だ」という一点においてのみ、わたしたちは受け取るようにしていくべきなのだと思います。

結果として「石川県の道路事情」レベルの雑な議論が高解像度化して「この道路のこの区間はそろそろ解禁できるのでは?」「南側エリアからそろそろアマチュアボランティアの呼びかけも始まってるから情報拡散しよう」というように「適切なタイミングで適切な判断」が共有できるようになっていくといいですね。

このように、あらゆる「飛び込んでくる情報」を、「政治的主張」と「事実」を分けて突き合わせることで、私たちは相当程度まで「解像度」を上げて情勢を把握していくことができます。

「政治的主張」の部分は、それが感情を惹起することでメッセージが伝わりやすくするツール=一種の“伝書鳩”のような存在として理解すると良いでしょう。

4:政治主張で被災者をオモチャにさせないための「M字から凸字」への転換

こういう非常時になると、ただ「自分の政治的主張を開陳するネタ」として被災地を考えているのか、それとも状況変化に応じて適切に「議論が前に進むように」動いている人なのか、明確に可視化されるところがありますよね。

日本には「“現実を知らない左翼”叩き」みたいな風潮が根強くありますが(そしてそういう左派も当然いますが)、「右翼」だからといってちゃんと「解像度の高い」議論をしている人ばかりではないこともどんどん可視化されています。

私達はその「状況」をちゃんと見ておいて、ただこの状況を「自分たちの政治的主張のためのオモチャ」にしている人たちなのか、それとも日本という国が適切に運営されるように解像度の高い議論を後押ししようとしている人たちなのか、いろんな政治勢力に対して適切に目利きをしていくことが、日本を前に進めるために大事だと思います。

私の著書などで10年近く前から使っている2つの図があるんですが、最近はどんどんこの「予言」通りになってきていると感じています。

図1(倉本圭造『日本人のための議論と対話の教科書』より)

この1枚目の図は、右に行くほど「保守派の方に過激な意見」、左に行くほど「改革派」の方向で過激な意見を表していて、縦軸が「そのポイントの合意形成のしやすさ」を表しています。

人間の社会では普通にしていると、「現実の細部の詰めが甘い改革派の意見」と「現実的ではあるが新味に乏しく変化への対応が苦手な保守派の意見」の2つの場所に、「合意形成されやすいポイント」ができて分断されます。

本当は、「現実側の事情」と「新しい発想」とが双方向的に高速のやり取りをしてブラッシュアップをし続けるような「ど真ん中の共有軸」ができれば理想ですが、通常状態ではそこは「最も合意形成が難しい場所(死の谷=デスバレー)」になってしまいます。

それが1つ目の「M字型の図」ですね。

ただし、今後この「M字の2つの頂点」が分裂してきます。その先に図2のように持っていくことが日本のあるべき姿です。

図2(倉本圭造『日本人のための議論と対話の教科書』より)

ただ「自分たちの政治主張のネタ」として使うタイプの層と、「現実に即して自分の議論をアップデートし続けられる」層とで、「2つの頂点」が分裂してくる。

結果として「真ん中に集まるグループ」と、両極で「シグナルとしての異端者」になる人たちが出てきます。

「真ん中にいるグループ」が安定的にファクトベースの議論ができるようになっていけば、「両極にいるシグナルとしての異端者」の人たちの存在にも意味が生まれます。

社会のありとあらゆる現象を見るたびに「日本政府が悪だからこうなってるんだ!」というように見えちゃう人もある程度の数までならいてくれたほうが、本当に訂正しないといけないタイプの不具合を“発見する”には都合がいいですよね。

そのうちのほとんどはただの陰謀論でも、その運動によって次々と掘り出されるファクト(問題点)を「政治的主張」と分離して精査できる態勢が作れさえすれば有意義になります。

そうなればご本人たちも、ネットで信者さんたちに喝采を浴びて、現実的責任は一切取らずに生きていける安住の地を見つけられ、たいへんハッピーでいらっしゃることでしょう。

これはもちろん「右の極」にいる「シグナルとしての異端者」さんたちにも言えることですよね。

例えばどんな些細なことでも「中国政府の陰謀」に見える人たちがいることで、最近は日本でも存在が確認されているSNSでの世論工作活動に対する警鐘が周知されることは一定程度の合理性があるでしょう。

そういう「センサー」が捉えた色々な事象を、その後ちゃんとフェアな目で精査して拾い上げる態勢さえ盤石であるならば、「シグナルとしての異端者」の人たちはSNSで信者さんたち相手のビジネスをしておいてくれることに一定程度の意味が生まれます。

今後の日本でこの「M字から凸字」への転換を起こしていけるかどうか?

それが、混乱が続く中で何も前向きな変化を生み出せずに来た日本という国の「目覚め」となる変化となるでしょう。

5:「僻地の復興を見捨てるのか!」論争にも「解像度の問題」がある

最後に、震災後、「僻地をどの程度復興させるのか」についての議論がSNSで始まっています。

この発言に便乗して、「能登半島を放棄して金沢まで撤退するべき」みたいなことを言っている人たちは論外だと思いますが、ただ「かなり近い未来において存続が危ぶまれている、あるいは“次の災害”で甚大な被害が予測される山間部などの限界集落も全て元通りにするべき」という意見も、ある意味で「党派的な概念」にとらわれていて現実を見ていないと私は感じています。

なぜなら、そもそも「近場でのある程度の集約」を望んでいる気持ちが、言い出しづらいかもしれませんが現地住民の「ホンネ」レベルでは結構あるように思われるからです。

実際に、2006年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、あるいは豪雨・台風などの後でも、住民の合意形成を経た数十人〜1000人程度の「集落まるごとの近隣地域への移転」の検討例や実施例がいくつも存在しますし(当然、計画はすべてオーダーメイドで作られますし、住民の選択は千差万別です)、あるいは何とかこの場所での生活を続けるため、新たに近場で集合住宅を建設して住民が集まった、新潟県長岡市の旧山古志村2022年にNFTを使ったデジタル住民票を発行し、話題になった場所でもあります)、地盤を強化した造成地をつくった熊本県西原村のようなケースもあります。国による補助金が出る「防災集団移転促進事業」といった制度も存在します。

能登半島の先端にある珠洲市にしろ輪島市にしろ一万〜数万単位の人口があり、独自の文化的伝統も輪島塗のような産物もあって、それを一切捨ててしまうのは大きな損失です。

ただし、少子高齢化と都市部への集中の流れの中で、今のままではその文化も維持できないことは明らかでしょう。それもあと10年、あと20年で確実に直面する事態としてあります。

しかし、ここで考えてほしいことがあります。

東京や大阪などの大都市しか視界に入っていない人からすると、人口数万の都市など「一緒くたに過疎地」に見えるかもしれませんが、ただ最近そのレベルの「市街地」への人口集中という流れは自然に起きていて、もっと人口が少ない場所でもそうした地域に集合住宅の建設が見られたりすることは珍しくありません。

そのあたりの様子について、私が去年、和歌山県の紀伊半島を旅行しつつ長年のクライアントから現地の人を多数紹介してもらった経験を通じて、色々と考えてみた記事がありますので、ご興味があればお読みいただければと思います。

山間の僻地も含めてバラバラに住んでいたままでは、復興費用も分散してしまいますし、その後の生活を再開するにしても、例えば介護一つ受けるにしても移動時間が一時間かかるような状況では人手不足の状況下でシステムを維持できなくなっていくでしょう。

これはどれだけ「カネ」を注ぎ込んでも解決できない大問題として残ります。

そして、ある程度「集住」するようになれば数少ない土地の若い人同士が一箇所でつるんで「おしゃれカフェ、パン屋さん」みたいな存在が維持できるようになりますし、コンビニや深夜までやっているスーパーなども維持できるようになります。

そういう要素があるかないかで、若い世代の定着度は全然変わってきますし、そういう地道な施策を打っていって「そこに降り積もった文化」を生き延びさせることさえできれば、その先ももっと大きな投資を呼び込んで活性化させる道も生まれてくるでしょう。

「金沢まで撤退するべき」というのは明らかに東京視点の暴論だと思いますが、何らかの集約を考える発想をすべて「イデオロギー」的に否定する発想も、そもそも「被災者」のことを本当に考えている姿勢とは言えないはずです

この話もさっきの「“石川県の道路”は混んでいるのか」レベルの話と同じ「解像度の問題」だと言えます。低い解像度で全否定合戦をしていても、被災者のためには全然なりません。

実際、地域問題の専門家が集まって2016年に出版された『地域再生の失敗学』(光文社新書)における東京大学大学院助教(当時)の林直樹氏の論考および対談によると、「集落移転」の話をすると都会に住んでいる一部の人が激怒してくるが、実際の過疎集落で話を出して頭ごなしに否定されたことはほぼないそうです。

また、少し古いデータですが2001年の総務省が発表した「過疎地域等における集落再編成の新たなあり方に関する報告書」によると、実際に「集落移転」を行った人たちの8割近くが「移転してよかった」と答えています(別資料ですがこのPDFの12ページに同じデータが載っています)。

要するに、SNSにおける「金沢まで撤退しろ」VS「地方を切り捨てると言うのか!」という論争は全くもって当事者不在の観念論でしかなく、実際のニーズに対応できているとは言えないということです。

さらに上記の林直樹氏の論考によると、単に「現状維持」のままだと、集落に住んでいる人が高齢化で病気がちになり、通院や介護のためにポツリポツリ離れていき最終的に四散していく最悪のパターンに陥ることが多い。

逆にむしろ意識的に「攻めの移転」を考え、集落の人間関係が壊れない形で、もともと買い物などで見知った地域である近場の市街地へ、場合によったら神社も一緒に引っ越させたり、ずっと土とともに生きてきた高齢者に家庭菜園を用意したり…といったプロセスを丁寧に踏めば、少なくとも移住者の8割以上は「参加してよかった」と応えるような移転は可能だということです。

これも同書の林氏の対談パートにあった話ですが、過疎集落へのインフラ維持は一般的に思われているよりも相当にコストがかかっており、例えば雪国では市町村道1キロあたり年間90万円(これは2016年段階の数字なので今はもっとかかっているはず)、例えば枝道を5キロ入ったところの集落は道路だけで年間450万円かけているそうです。

その他色々なインフラコストを積み上げる結果、過疎地域に住む人は予算を人口で割ると東京に住む人の一人あたり4〜7倍ぐらいの自治体予算を使って生きていることは珍しくありません。ざっくり言えば財源は都会の経済活動からの補填です。

「そんなことはもう許されない」と言いたいのではなく、同じ国を共有する仲間として、そして国土保全を担ってくれている人々のためにその程度払うのは容認できると私個人は考えています。

そうではなく私がこの数字から主張したいのは、「“現状維持”にもそれだけお金をかけている」ことが理解できれば、「攻めの集落移転」にだって大きなお金をかけてサポートすることが合意できるはずだということです。自力でなんとかしてくださいという話ではなくなる

ある程度公的な資金を使って、住民側の意図を汲み取って何らかの集約を考えることが、「その土地の文化を維持し未来につなげる」ための大事な選択肢となりうる。

「地方を放棄する」ためではなく、「地方の可能性を解き放つ」ためにも、今後数千万人単位で人口が減る日本における「適切な集約のあり方」について考えることから逃げるべきではありません。

つまり「僻地は復興を諦めろ論」ではなく、「復興のための攻めの集約」を考えるべきだ、という発想を我々は持つべきです。

過去20年の日本は「イデオロギー」レベルの全否定合戦の中で、何も実質的な変化を起こせないままジリジリと昭和のシステムを使いのばすままでやってきました。

これからは、「イデオロギーレベルの全否定合戦」のバカバカしさに皆で気づいていって、いかに徹底的に具体的な工夫を、右とか左とか関係なく積んでいけるか?が大事な時代になります。

「被災地に生きる人々」を「政治的主張」のためのネタとしてオモチャにするべきではありません。

具体的でリアルな議論ができる国にしていきましょう。

まずは被災地の一日でもはやい生活再建のために、そして長期的には、山積みの日本の課題をひとつひとつリアルに解決していける環境を作っていくために。


お知らせ
この記事で書いてきたような一連の発想を私は「メタ正義感覚」と呼んでおり、この「M字から凸字へ」の変化も含めて以下の本で詳述してありますので、ご興味があればぜひご一読ください。

以下記事から冒頭が無料で読めます。
https://note.com/keizokuramoto/n/nd42e9c12e489

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