「日本パラスポーツの父」と呼ばれる医師がつくった“働く場”が、大分県別府市にある。その中心が、社会福祉法人太陽の家だ。1960年代、「パラスポーツ」はおろか「リハビリテーション」という言葉すら日本にはなかった時代、「障がいがあると働けない」とされていた時代に、医師・中村裕(ゆたか、1927~84年)博士がこの場所をつくった。掲げたのは「No Charity, but a Chance !(保護より機会を!)」。スポーツでも仕事でも、誰もが自分の能力を発揮できる社会を目指した。設立56周年を迎えた2021年10月、中村博士の意志を継ぎ、発展を続ける太陽の家を訪ねた。
企業が集まり「まち」のよう
「太陽の家は、障がいがあって、一般企業ではなかなか採用できない方が訓練をして、就職する支援をしている社会福祉法人、と考えてもらえばいいかなと思います」
太陽の家の理事長、山下達夫さんはそう言うが、太陽の家の説明は一筋縄ではいかない。報道では「障がい者支援施設」と書かれるし、「社会福祉法人」でもあるのだが、それだけでは言い表せた気がしない。
太陽の家理事長、山下達夫さん
大分県別府市、JR亀川駅のすぐ西側の住宅地、約2万6000平方メートルの敷地には、太陽の家の本部に加え、いくつもの企業や就労支援施設があり、食堂や住居、生活支援の場があり、スーパーマーケット、銀行、体育館、太陽の家について学べるミュージアムもある。家や施設というよりも、「まち」と呼ぶほうが体感に近い。
そして、ただの「まち」でもない。
敷地内には国際基準のドローンサッカーアリーナもあり、「ドローンによる地域課題解決」を掲げるベンチャー企業「ADE」が入居する。これからさらに普及するドローンのメンテナンス業務を太陽の家が担うことになるという。
ADEの取締役CFO、星野和也さん。ドローンサッカーでは、球状のプラスチックフレームに覆われたドローンを相手ゴール側の輪に通すと得点となる。競技場は屋内プールを改修した
大分ロボケアセンターでは、世界初の装着型サイボーグ「HAL」を活用したリハビリが行われている。山下さんは「近い将来、AIとロボット技術が進み、遠隔操作で介護をしたり、自分で自分のことを介護したりする時代になりますよ」と語る。
HALは、筋肉を動かそうとする神経の電気信号を拾って動く
アジア初の「宇宙港」(宇宙船の離着陸場の総称)に選ばれた大分空港を拠点とし、衛星データを福祉に活用する事業、AI学習事業、第6世代移動通信システム(6G)を見据えた事業……。山下さんの口からは「新規事業」が次々と飛び出してくる。コロナ禍で広がった「テレワーク」は2020年のコロナ禍前から導入済み。
「全ては太陽(の家)が発展し、存続するため。アンテナをいっぱいに広げ、新しいものを取り入れていかないと」
言葉に力があるのは、そう話す山下さん自身、太陽の家がつくった「新しい仕事」で家族を養ってきたからだろうか。37年前の話だ。
太陽の家本部の入り口。看板にはたくさんの企業の名称が連なっている
山口県下関市出身の山下さんは高校卒業とともに地元を離れ、1977年、訓練生として太陽の家に入った。障がいがあっても働ける場を、進路指導の教員が探してくれた。
「私の夢は、家族を持つことでした。家族を持つには、自立が必要です。仕事をしないといけません。太陽の家であれば就職できるんじゃないか、自分の夢が達成できるんだという気持ちがありました」
その後、太陽の家職員の女性と結婚。1984年、三菱商事と太陽の家の共同出資で設立された「三菱商事太陽」に、第1期の正社員プログラマーとして入社した。
それまで、太陽の家の仕事は「ものづくり」が中心だった。中村博士は「頭脳労働ならば、手足の障がいがあっても仕事ができる」と、コンピュータの普及とともにIT産業への進出を目指していたという。
三菱商事太陽では、三菱商事グループのシステムの維持管理が主な業務。社員126人が働く
そもそも、なぜ企業や施設が集まるようになったのだろうか。その成り立ちを振り返っておきたい。
パラリンピックは「成功」したけれど
太陽の家の創設者、中村博士は「日本パラスポーツの父」として知られているが、障がいに応じた雇用の創出にも尽くしたことは、十分には知られていない。
別府市出身。国立別府病院の整形外科長だった1960年、日本では普及していなかったリハビリテーションを学びに欧米へ渡り、「残存機能の回復・強化」のために導入されていたパラスポーツを持ち帰る。
61年には「大分県身体障害者体育大会」を開催。翌年にはイギリスでの国際大会に選手を送り込み、64年のパラリンピック東京大会では、選手団長として日本人選手53人を率いた。
選手団長として東京パラリンピックに参加した中村博士=左端(太陽の家提供)
「パラリンピック」と名のついた初めての大会で、日本選手団は金メダル一つを含む計10個のメダルを獲得。大会は成功したように見えたが、中村博士は新たな課題に気づく。競技レベル以上に、日本の選手と海外の選手の日常生活がまるで違ったのだ。
日本人選手のほとんどは仕事を持たず、病院や療養所で暮らしていた。一方、海外選手の多くは勤め先と家庭を持ち、競技の合間に仕事や買い物に出掛けていた。人生を楽しんでいる姿を目にした日本人選手の中から「自分たちも自立したい」という声が上がり、中村博士は選手団の解団式で「慈善にすがるのではなく、身障者が自立できる施設を作る必要がある」と述べる。
その思いを実現させたのが、日本自転車振興会(現JKA)などから支援を受けて、翌1965年につくった太陽の家だ。「ここから全国に太陽の家の種がまかれ、発展してゆくように」と、英語名は「Japan Sun Industries」とし、「産業(industry)」の複数形を選んだ。
太陽と「ふまれてもふまれてもぐんぐん成長する」麦がシンボルマーク
1972年には、立石電機(現オムロン)との出会いから、共同出資で会社「オムロン太陽電機株式会社」(1990年にオムロン太陽に社名変更)を設立。責任を共有して仕事を担う「共同出資会社」の形ができた。
共同出資会社は計7社。別府市にあるオムロン、三菱商事、富士通エフサスとの共同出資会社のほか、大分県日出町に本社のあるソニー・太陽やホンダ太陽、愛知県蒲郡市のデンソー太陽、京都市のオムロン京都太陽があり、7社の社員は計約900人。このうち600人弱の障がいのある人が社員として働いている。
コロナ対策として、JKAの補助で導入されたサーマルカメラ。JKAは設立当初から支援を続けてきた
「機械化よりも、いかに人が活躍するか」
多くの企業と連携ができるのは、それぞれの現場で、働く人の能力に応じた工夫をしているから。〈世に心身障がい者はあっても、仕事に障がいはあり得ない〉〈足りないところは科学の力で〉——。これらは中村博士の言葉だ。
太陽の家本部のすぐそば、オムロン太陽の工場。大きなガラスに囲まれた空間では、青色の制服を着た社員たちが作業を続けていた。作っているのは、改札機や自動販売機、医療機器などの部品。従業員は70人。このうち、障がいのある人が32人を占めている。
「さまざまなジグ(補助具)を自分たちでつくり、作業しやすくしています」
同社で働く曵汐(ひきしお)浩文さんが言う。小学生のころに交通事故で大腿骨を複雑骨折。中村博士が当時の主治医だった縁で、太陽の家の福祉工場で働き、1990年にオムロン太陽に入社した。機械のメンテナンスや生産管理を担いながら、「治具(ジグ)」と呼ばれる補助具を作ってきたという。
機械をメンテナンスする曵汐浩文さん
例えば、指先が不自由でもハンダ付けがしやすい固定具、等間隔にチューブを切れるハサミ……。「こんな道具があれば」と気づいた社員がアイデアを出すといい、治具を作るための工作室もある。
要望が上がる。作れる人が作る。「できること」と「できるひと」が増えていく。だから「治具」は無数にあって、曵汐さんも「いくつ作ったか」は覚えていない。
「(道具を作って)喜んでもらえる時が一番うれしい」と曵汐さんは言う。
「ここで働く前は、足を引きずって歩いていると、冷たい視線を感じていました。でも、働き始めてからは気にならなくなりました。脚が悪いのは、自分だけじゃないですし、みんな笑顔で仕事してますから」
曵汐さんが開発した「等間隔に切れるハサミ」は「職域における技術の改善向上に顕著な貢献をした」として、2020年に「科学技術分野の文部科学大臣表彰」を受けた
工場を案内してくれたのは、経営企画部ダイバーシティ&インクルージョン推進グループ長の江口恵美さん。「これは最初の勘違いで、恥ずかしいことなんですが」と前置きをして、「入社した頃は、障がいのある方のどんなことをお手伝いできるだろうかと悩んでいました」と振り返る。
「勘違い」は、すぐに覆された。
ある日、江口さんが物を落とした時、車いすを利用する社員が拾ってくれたことがあった。その瞬間、「『取れるんだ』と驚いたことが恥ずかしかった」と江口さん。驚く彼女に、その社員は「自分はできるけど、(損傷した部位によっては)できない人がいることも分かってね」と教えてくれた。
江口恵美さん=左。手話話者の社員と話すために手話も覚えた
「助ける側」にいると思っていた自分が助けられていることに、江口さんは気づいていく。自分が働いている場所は、「できない人」を支えるのではなくて、誰かの苦手と誰かの得意を組み合わせて、ものをつくっている会社なのだ、と。
工場では社員に加え、太陽の家の就労支援を受けている人も大勢働いている。「人」がいなくなったら、この会社がある意味もなくなってしまう、と江口さんは言う。
「大企業の方がこの工場を見ると、『人が多いね』と驚きます。確かに、機械化できる作業もあります。けれど、ここは障がいのある人のためにできた会社。利益を出しつつ、いかに人が活躍する場をつくるかを一番に考えてきました。創業者が『みんなが安心して働ける場所を』とつくった会社を40年間守ってきた。このことを私たちは誇りに思っています」
〈太陽の家なんて、なくなればいい〉の真意とは?
2021年、57年ぶりの東京パラリンピックが開かれて、「共生社会」が掲げられ、太陽の家は注目を集めた。しかし、「太陽の家なんて、なくなればいい」と山下さんは言う。これも、中村博士の遺した言葉だという。
「『太陽の家』という囲まれた場所に障がいのある方がいるのではなく、地域で暮らし、当たり前のように就職していく姿を裕先生は求めていたのではないかな、と。確かに、ここがなければ我々は就職できませんでした。しかし、『最初のきっかけ』でいいと思うんです」
「これからの共生社会へ情報発信を続けていくための拠点」として、2020年に太陽ミュージアムを開設した
でも「壁」は、「心の壁」はなかなか消えない。山下さんは国の定める「法定雇用率」を例に挙げる。
民間企業や国・地方公共団体などが障がいのある人を雇用しなければならない、とする法律だ。雇用率は2021年春に引き上げられたばかりで、数字だけを見れば、「雇用の場」は広がっている。しかし、「雇用率を達成するために採用だけして、朝9時から夕方5時までパソコンの前に座らせて、仕事を与えない企業もあるようです」と言う。
三菱商事太陽では、社員たちがさまざまな工夫をして業務にあたっていた
太陽の家の内部でも、「障がい」について改めて考えるできごとがあった。
2007年ごろ、三菱商事太陽で発達・精神障がいのある人たちを採用し始めるとき、社内では反対意見があったという。「突然暴力を振るわれたら、身体に障がいのある人たちは逃げられない」。そんな不安の声が多かったが、医師や看護師らと協議し、適切な職場環境が整えられれば問題がない、と判断した。
「結局、全く問題はありませんでした。太陽の家も、最初はそんなイメージがあったんだろうな、と思いました。仕事はできないだろう、というイメージです。けれど半世紀が経って、身体の障がいのある方がいっぱい採用されています。さまざまな障がいのある方も、同じように採用されていくと思います」
こうして、太陽の家は「機会」をつくってきた。
共同出資会社や協力企業で働く人に加え、職員や利用者を合わせると、太陽の家全体の在籍者は約1900人。このうち障がいのある人は1100人ほどにも上る。
三菱商事太陽の設立直前、山下さんは中村博士に「頑張ってくれ。この会社は君たちが努力しないと成長しない」と激励された。「その時の握手のぬくもりが忘れられない」と言う
太陽の家を巡っていると、たくさんの言葉に出会う。
〈保護より機会を!〉〈世に心身障がい者はあっても、仕事に障がいはあり得ない〉〈失ったものを数えるな。残された機能を最大限に活かせ〉〈足りないところは科学の力で〉〈太陽の家なんて、なくなればいい〉——。どれも、中村博士が遺した言葉たちだ。その言葉に人が集まり、言葉を体現する「まち」ができ、「機会」は確実に広がっている。
※撮影時のみマスクを外すご協力を得て撮影を実施しています。
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