90年代後半になると、人々のコミュニケーションツールの主体としてメールが、そして2000年代からはSNSが台頭し始めた。これは現在も定着しているツールでありカルチャーであるから、インターネットの歴史においてやはり大きな出来事だった。
思えば、僕が初めてアメリカとやり取りしていた80年代当時は、まだFAXですらなく、テレックスの時代であった。テレックスとは電話の技術を用いた記録通信方式で、紙テープに伝送文を打ち込むもの。文字数を極力抑える必要があることから、この時に欧文の略語がたくさん生まれた。たとえば「Thank you」は「THX」、「By the way」は「BTW」といった具合だ。
そんな時代と比較すれば、メールの登場は革新的だった。なにしろアタッチメントファイル(添付ファイル)として、そこそこのサイズの書類が瞬時に送受信できるのだから、これは僕たちの仕事のやり方を大きくアップデートさせてくれたものである。
聞き手:米田智彦 文・構成:友清晢
古川享
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1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年(株)アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役、1986年3月同社退社、1986年5月 米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。1991年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。2005年6月同社退社。
2006年5月慶應義塾大学大学院設置準備室、DMC教授。2008年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)、教授に就任。2020年3月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科を退職。
現在の仕事:N高等学校の特別講師。ミスルトウのシニア・フェロウ他、数社のコンサルティング活動
http://mistletoe.co
Think the earth, NGPFなどのNPO活動
http://www.thinktheearth.net/jp/
https://www.thengpf.org/founding-directors/
メールの台頭で文化が大きくアップデートした90年代
それまではメーカーに納めるデリバリーアイテムを、わざわざ飛行機に乗ってアメリカまで引き取りに行かねばならないこともあったほどだ。朝の10時に向こうに着いて、会議を一つこなし、ICを1枚持って13時のフライトでとんぼ返りする…などということが日常茶飯事だった。当時の伝送速度では、そのICに収まっているデータをネットでダウンロードしようと思うと優に2~3日を要したから、それでも直接、現地から手荷物で集配した方が速かったのだ。
また、時系列的には前後するが、SNSの恩恵を僕が本当の意味で実感したのは、2014年に脳梗塞で倒れた時だった。一時的に半身麻痺の状態に陥ってしまった僕は、病床から片手でスマホをいじり、Twitterで自分の状況を投稿してみた。すると、いろんな人から温かいメッセージが続々と寄せられた。単に「頑張ってください」という激励もあれば、「私の母はこんなリハビリを続けてここまで回復しましたよ」という助言もあり、心からありがたく思ったものだ。
脳梗塞が起きた部位からすると、今こうして元気に生きていられるのは奇跡と言っていい。三途の川のほとりまで到達しながらドリフトターンで帰ってきた気分で、SNSの存在は間違いなくその原動力だった。
従来の1対1のコミュニケーションではなく、まだ見ぬ面識のない大勢の人と対話ができたり、あるいはしばらく縁のなかった古い友人とあらためて接点が持てたり、さらには人それぞれが擁する知見をかき集めて集合知にできることは、SNSがもたらした大きなカルチャーだろう。
SNS文化の黎明期を振り返る
その、今日隆盛を誇るSNSの原点を探るとなると、これはやはり1985年にサービスが開始された、アスキーネットによるパソコン通信サービスということになる。1987年にはニフティサーブもローンチし、一部のネット民たちが活発に交流し始めた。
当時のネットワークは、セキュリティ面で言えばまだまだ脆弱なものだったと言わざるを得ないが、それでもこうしたプラットフォーム上でプライベートなやり取りが盛り上がっている様子は、今後の重要なインフラになることを予見させた。重要なのはパソコンでもモデムでもなくネットワークそのもので、このカルチャーが発達することで、これまでにない新たなものが生まれる予感を、当時誰もが感じていたはずだ。
以前から「パソコンはいつか消えてなくなるだろう」と公言していた僕としても、実にピンとくるものがあった。アスキーは1997年に、ニフティサーブは2006年にサービスを終了しているが、その文化が今日のSNSに受け継がれていることは明白だ。
SNS先進国はアメリカだ。当時アメリカで流行していたSNSという形態を、イーマーキュリー(現ミクシィ)が日本に持ち込んだことは有名だが、少なくとも黎明期におけるその活用法は、日米で微妙な違いが感じられる。たとえばアメリカではECへの誘導手段としてのSNS活用が目についたのに対し、日本ではあくまでプライベートなコミュニケーションツールとして発展していった。これは日本のSNSユーザーの多くが、パソコン通信の文化に根ざしていたからなのだろう。
思えば、当連載の第1回目でも触れているように、僕が南カリフォルニアで過ごしていた70年代、現地の大学はすでにネットワークで繋がれていた。幸運にもこのネットワークに入れてもらうことができた僕は、あちこちの大学の研究室にアクセスしながら、「これならわざわざ通学する必要なんてないじゃないか?」と実感したものである。ネットワークという同じツールを使いながらも、アメリカの方がビジネスライクに感じられるのは、合理主義、実利主義のなせるわざか。
ただし逆の見方をすれば、一般ユーザーを広く取り込んで繁栄させたという意味で、SNSマーケットに先鞭をつけたのは、むしろ日本であったとも言える。今のところのSNSの最新系であるclubhouseにしても、アメリカでは著名なスピーカーの話を聴くために多くのユーザーが集まるパターンが多いのに対し、日本ではユーザー同士のカジュアルな対話の場としての利用が目立つ。SNSを通して見られる、こうしたお国柄の違いというのも興味深いテーマだろう。
Androidに通じた懐かしのWebTVの歴史
ところで、今や誰もが当たり前のように手にしているスマートフォンは、ご存知のように現在、AppleのiOSとGoogleのAndroidOSにはっきりと二分されている。Androidが生まれた背景には実は、昔懐かしのWebTVが根の部分で関わっている。
このWebTVとは、テレビのリモコンでインターネットにアクセスでき、画面上にはテレビとネットの2画面が表示される端末のことだ。日本でも一時期、大手メーカーが熱心に取り組んだジャンルだった。
WebTVはかつてAppleに在籍したアンディ・ルービンという技術者が開発に携わっていたものだが、彼はその後、スマホの前身である携帯情報端末用OS・Magic Capや、スマホの先駆け的な端末であるSidekickの開発に参加した。ところが、「これは将来、我々が手掛ける分野になる」と考えたマイクロソフトにいずれも買収され、実質的に潰されてしまった経緯がある。これに怒ったルービンが、いわば意趣返しとして設立したのが、Android社だった。
そのAndroid社もまた、その後Googleに買収されることになるのだが、それに合わせてルービンも一度はGoogleにジョインし、Android プラットフォームの責任者を務めることとなる。これが、彼が「Androidの父」と呼ばれる所以である。
ところが2014年、部下への性的暴行というスキャンダルが表沙汰になり、ルービンは同社を去っている。なんとも残念な末路ではあるが、スマートフォンがなくてはならないツールとして定着した今、あらためて彼の功績は大きかったと言えるだろう。