CULTURE | 2020/06/10

生徒を「社会」から切り離すな。オンライン授業が進む中でも忘れてはいけないこと|矢野利裕

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首都圏でも緊急事態宣言が解除され、学校も再開され始めています。ということで...

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重要なのは「いかに社会との接続を維持するか」

新型コロナウイルス以降、従来的な社会なありかたを見直す論調が出ています。さまざまな場所で、これまでいかに無駄なことが多かったか、ということが問われています。満員電車なんて乗りたくないし、なくすべきことはさっさとなくせばいいと思います。ただ、「合理的」を支える非合理性が存在する、という逆説がありえます。少なくとも、実感としては、オンライン上の関係性を支えるオンライン以外のコミュニケーションが重要だと感じていました。

このように書くと、明るく話したり、ずかずかと心に入り込んでいくような、マッチョなコミュニケーション強者をイメージするかもしれません。実際、「身体的な関わり」なんて、端的にウザかったりもします。ウザいどころか、暴力的な介入になる危うさもすらあるでしょう。しかし、私がイメージしているのは、そういうことでもありません。「誰かがあなたを気にかけているのだ」という素振りが、すでに大事なコミュニケーションとしてあります。死ぬほど学校に来たくない人に対して、教員の権力性に無自覚なまま「学校に行きなさい」と呼びかけるのは、コミュニケーションとしては最低でしょう。しかし、「学校に行きたくない」気持ちに寄り添う素振りで、コミュニケーションそのものを放棄することもまた、最低に近い振る舞いだと思います。

昨今の「コミュニケーション能力」をめぐる議論で話題になるような、プレゼン能力や快活に話すことだけがコミュニケーションではありません。どもりや沈黙の中にもコミュニケーションはあります。どもりや対人恐怖とともにあるようなコミュニケーションがありえます。一概には言えませんが、学校空間が知らず知らずのうちにそのような微細なコミュニケーションを成立させるところもありました。だとすれば、オンライン授業で多く失われるのは、そのような微細なコミュニケーションにともなう社会性の感覚ではないか、と感じています。

実際、詳しくは言えませんが、家庭環境か本人の性格か、みるみる社会性が失われていると思える生徒もいます。9月入学論同様、もしコロナ禍に乗じてオンライン教育を推進する一派がいるならば、生徒たちをどのように社会とつなぎとめるか、という観点を踏まえているかどうかを注視すべきだと思います。私の考えからすると、その観点がないのであれば教育をめぐる議論としては不十分だと思います。

ちなみに、教育現場では、Google Classroomを活用している例を多く聞きますが、そもそも、教育という公共性の高い領域のインフラが民間企業の製品で占めらていること自体に違和感が拭えません。もっと言えば、教室か/オンラインかという二者択一自体が、GAFA以降の時代だからこそ出現する「ニセの問題」だという気すらします。

重要なことは「オンラインに移行するか/しないか」ではありません。どのような状況で授業・生活をするにせよ「いかに社会との接続を維持するか」だと思います。そして、その社会との維持において身体的な関わりが大事なのだ、というのが私の考えです。

以上は、最初に言ったように、私の問題意識や性格が色濃く出た意見かもしれません。ネット上のリンクをクリックするにもメールを開くにも微細なストレスを感じ続ける私は、「もう限界だ!」という感じです。人間関係のストレスも発生するけど、早く生徒とも同僚とも気兼ねなく話がしたいです。この文章はそんな自分の感情を一般化したふうに見せているだけかもしれません。どうでしょう。加えて、学校空間が生み出す暴力ももちろんあると思います。精神科医の斎藤環氏は、「人と人は出会うべきなのか」というnote記事のなかで、「身体」をともなった「臨場性」がはらむ暴力性を指摘しています。大事な指摘だと思います。だから、実際に考えるべきは、斎藤氏が言うように「「オンライン」という選択肢をどの程度受け容れ、社会に「臨場性」をどこまで、どのように回復するべきか」ということだと思います。

とは言え、かねてから「身体的な関わり」を重要視してきた私は、どこまでも「身体の近接性」が手放せないと思ってしまいます。驚くべきことに、と言うべきか、その考えはコロナ禍以降の現在でもあまり変わりません。


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