「『左脚がない!』って驚かれます。子どもはすぐに口に出すから」と、義足を付けた男性が言う。車いすバスケットボール選手、諸隈有一さん。軽快な関西弁で続ける。「でも、“授業”が終われば変わる。『クマちゃん、クマちゃん』と慕ってくれる。〝障がい〟ではなくて、〝僕〟を見てくれるようになるんです」——。
諸隈さんの言う〝授業〟とは、NPO法人「パラキャン」が開くパラスポーツ(障がい者スポーツ)の体験授業だ。パラアスリートと触れ合うことで、障がいによる「できないこと」よりも「できること」に目を向ける。夢中になって体験することで、自分の持つ可能性を広げるきっかけをつかむ。「授業を通して、子どもたちの目や表情が変わっていくんです」と事務局長の中山薫子さんは語る。パラキャンは、パラアスリートたちと20年以上にわたり授業を開いてきた。パラスポーツへの注目が高まる中、車いすを詰め込んだ、白のワンボックスカーで全国を巡る。2019年12月、授業が行われた大分県日出町の中央体育館を訪ねた。
「障がい者スポーツ」という感覚が薄らいでいく
「さぁ、バスケを始めるよ!」
冬の体育館に、諸隈さんの甲高い声が響く。この日の参加者は、地元ミニバスケットボールクラブの小学生約50人。慣れない車いすに乗った子どもたちに、ボールを抱えた諸隈さんが呼びかける。
「シュートが入る、入らないは関係ない。まず、楽しむ。思い切り表情を出す!」
諸隈有一さん。大阪府の車いすバスケチーム「B-Spirits」の代表でもある
子どもたちが乗るのは、車輪を八の字に傾けたバスケ用の車いす。ほとんどの子どもにとって初めての体験だ。それでも、操作を10分ほど習ったら、すぐに試合の時間に移る。
試合は5人対5人。そこに、サポート役の大人が2人ずつ加わる。動いて、かわして、パスして、シュート。基本は、いつものバスケ。でも、思い通りの方向に進めない。シュートをしても、いつもと同じ高さのゴールに届かない。
どんなにミスが続いても、大人たちは笑顔のままだ。
「授業のベースにあるのは、〝遊び〟」と、諸隈さんは言う。わずかな練習時間で上手にできる人はいない。車いす同士がぶつかるのだって怖い。それで全然構わない。
「まず、遊ぶ。遊んで、失敗して、話し合って、できる人に助けてもらう。その経験がつながっていく。それこそがスポーツです」
ドリブルをしながら車いすを操る。一筋縄ではいかない
ドリブルやパスに慣れてきて、シュートがゴールリングに届くようになる子どももいれば、最後までうまくプレーできない子どももいる。
共通しているのは、どの子どもも無我夢中でコートを走り回っていることだ。コートサイドで見守る家族の声援にも熱が入る。「いけいけ、漕げ漕げ!」「よし、いいとこおるよ!」。誰かのシュートが決まると、敵味方なく歓声があがる。
諸隈さんは試合中、「子どもたちに必要以上のフォローはしない」という。できないことを先回りして助けてしまうと、子どもたちの主体的なやる気をそいでしまうからだ。
それでも、細やかな目配りは欠かさない。チームの輪に入れない子どもには声がけをしたり、ボールに触れられない子どもに積極的にパスを渡したり。諸隈さんのさりげないフォローで、子どもたちは集中を増していく。次第に「障がい者スポーツ」をプレーしているという感覚が薄らいでいく。
思い切りシュートを放つ松本真侑さん(中央)
「障がいがあると、身体はあまり動かせないと思ってた」と5年生の松本真侑さんは話す。実際にプレーをしてみると、ボールと車いすを自在に操る選手たちのすごさが分かる。松本さんは、少し照れくさそうに言う。
「初めてで緊張したけど、すごく楽しかった。クマちゃんは、障がいがあっても何でもできるんだ、と教えてくれました」
細かなルールよりも、まずは「楽しむ」ことが最優先
パラスポーツの魅力を日本の子どもたちに
「パラスポーツの試合を見たことはありますか?」と、パラキャンを設立した事務局長、中山薫子さんが問いかける。中山さんが初めて観たのは、1996年のアトランタ・パラ五輪。その時受けた衝撃が、パラキャン設立につながっている。
パラキャン事務局長の中山薫子さん
中山さんは「実際に観るまで、私自身にも障がいのある人に対する偏見が強くありました」と振り返る。パラスポーツは「障がいのある人が走りきるのを見守るようなもの」と想像していたという。
ところが、中山さんの目の前で繰り広げられたのは、想像を超える「アスリートの世界」。陸上競技の男子200m車いすでは、畝康弘選手が当時の世界記録(26秒90)で金メダルを獲得した。鍛え上げた肉体、そして高性能の車いすが生み出す圧倒的なスピード。栄冠を手にし、喜びを爆発させる選手と、それを称える世界の観客。中山さんは思った。どうしてこの光景を、これまで自分は知らなかったのだろう——。
この時、日本では子どもの命をめぐるニュースがあふれていた。多くの震災遺児を生んだ阪神淡路大震災、いじめによる子どもの自殺……。
中山さんは「パラスポーツの魅力を伝えることで、日本の子どもたちを元気づけることができるのではないか」と考えた。自分自身が、パラアスリートの躍動に心を動かされたように。
中山さんは1996年にパラキャンを設立。翌年からパラスポーツ体験授業を学校や地域で提供するようになった。
授業中の中山さんは裏方として講師や子どもたちをサポートする
「できないことより、できることを数えよう」
中山さんや選手たちが、授業で繰り返す言葉がある。それは、「できないことを数えるよりも、できることを数えよう」。2000年のシドニー・パラ五輪開会式で、当時の国際パラリンピック委員会のロバート・ステッドワード会長が語った言葉だ。
「障がい」の話になると、「できないこと」の話になりがち。でも、「できること」にこそ目を向けよう。人間の可能性はそこから開かれていくのだから——。そう呼びかけた彼の言葉は世界中で共感を呼んだ。
ボランティアを含むスタッフ約30人が体験授業を運営した
「『できること』に目を向けると、障がいは、生活方法の違いだと気付きました」と、中山さんは言う。足に障がいがあっても、車いすや義足があれば、移動ができる。高い段差は、誰かの力を借りて乗り越えることができる。
「できないこと」を個人に押し付けず、周囲の社会が補っていく。「できること」がそれぞれ違うから、人は誰かと助け合って生きていく。
「障がいのある人はかわいそうだから助けてあげよう」から、「生活方法が異なる人と一緒に暮らせる社会をつくっていこう」へ。そんな想いが、この言葉には込められている。
陸上競技用車いすの指導をするのは、2008年北京パラ五輪の銀メダリスト、笹原廣喜さん
“障がい者”である前に、一人の“人間”
パラキャンの授業は、講師を務める選手たちにとっても大事な場所になっている。
中山さんによれば、授業を始めたばかりのころは、「人前で話すなんて」という選手が多かった。講師を引き受けてくれた一部の人も、恐る恐る話す様子だったという。
「授業を重ねるうちに、話したがる人が増えた。子どもたちに見てもらって、拍手をもらって、『伝えたいこと』がどんどん出てきたみたいです」
車いすバスケの日本代表候補だった川西恵三さん(46)もその1人。24歳の時、仕事中に事故に遭い、車いす生活を送るようになった。車いすバスケとすぐに出会ったものの、当時は「自分には障がいがあるから」と弱気になっていたという。
川西恵三さん(右)
パラキャンの授業には、誘われるままに参加した。子どもたちの前で、おしゃべりになっていく自分自身に、川西さんは驚いたという。自分のプレーを見て、目を輝かせる子どもたちと触れ合って、自分は〝障がい者〟である前に、一人の〝人間〟なんだ、と思うようになっていった。
川西さんは、少し照れながら言う。
「自分自身にも先入観がありました。『車いす=障がい者=バスケなんかできない』と。でも、子どもたちは違った。〝障がい〟やなく、〝スポーツ〟を観る目に、すぐに変わっていたんです」
「講師」という役割を通じて得たものは、自信だけではない。人の輪も広がっていった。「パラキャンを通じていろんな地域を訪れる中で、新たな仲間もたくさんできた。自分の世界が広がりました」と川西さんは語る。
川西さんは、この日の授業で久しぶりに講師を務めたという
障がいは、「不自由」なのか
日出町の授業でも、子どもたちは選手たちに興味津々だ。授業の最後は「質問タイム」。選手の周りを子どもたちが取り囲む。質問内容は自由。子どもたちは友だちに話しかけるように、質問をぶつけていく。
「なんでケガをしたの?」
「クマちゃんの好きな食べ物は?」
「なんで、車いすバスケを始めたの?」
諸隈さんは、飛んでくる質問に、一つ一つ丁寧に答えていく。
24歳の時、バイク事故で大けがをしたこと。自分が足を失うまで、車いすの人を「かっこ悪い」と思っていたこと。そんな人たちが、バスケットボール用車いすで素早く動く姿に驚いたこと。このスポーツで出会った人たちには、「不自由」という言葉が似合わなかったこと。
諸隈さんがハーフパンツをたくし上げ、切断された左脚の断面を見せて言う。「触っていいよ」。子どもたちはたじろぎつつも、手を伸ばしてさすったり、近づいてじっと見つめたり。
そこでまた、諸隈さんが口を開く。
「びっくりするのは、知らなかったからやね。人は初めてのものを見ると驚くのが普通。でも、人間はみんな違って当たり前です。肌の色も、髪型も、君と横にいる友だちも違う。それが大切なことだよね」
「質問タイム」。子どもたちの質問は尽きない
ある時、子どもから「足がないのが気持ち悪い」と言われたこともあるという。思ったままを伝える子どもに、顔をしかめることもあった。それでも、今ではこう思う。
「きっと、興味を持ったから出た言葉。それを頭ごなしに抑えたら、『関わらんとこ』となってしまう。それが一番嫌だから、〝君〟の話も聞いてみたい。俺の話も聞いてほしい。僕は、〝キャッチボール〟がしたいんです。授業が終わるころに『なんだ、同じ人間やないか』と思ってくれればそれでいいんです」
義足を目の前で履き、歩いてみせる諸隈さん
「今の社会は、『できないこと』ばかり見ていませんか」
2020年の東京パラ五輪が近づき、いろいろな場所で「パラスポーツ体験」が実施されるようになった。そんな時だからこそ、障がいの有無を問わず、パラスポーツを通して子どもたちに伝えたいことがあると中山さんは言う。
伝えたいのはやはり、「できることを数える」こと。「できないこと」ばかりに目を向けてしまうのは、障がいの有無にかかわらないからだ。
「今の社会は、子どもの『できないこと』ばかり見ていませんか」と中山さんは問う。そして、その視線に一番敏感なのは、子ども自身だとも感じている。
「『算数ができない』『運動ができない』と、自分を減点してしまう。今の子どもはがんじがらめです。でも、パラアスリートと関わり、一緒に夢中になってプレーすることで、『私これできるかも』とか、『もう一回やってみよう』とか、前向きな気持ちが芽生えるんじゃないかと思うんです。自分の可能性に気がつくというか。その瞬間、子どもが光って見えるんです」
パラキャンは20年以上全国を巡り、200回近くの授業を行った年もあった。設立当初は片手で数えるほどだった講師は100人ほどに増えた。全国どこへでも授業に行ける体制になっている。
中山さんの夢は、「日本でパラスポーツが当たり前になること」だという。
「例えば」と中山さんは続ける。
自分のまちの体育館に行けばいつもパラアスリートがいて、子ども用から大人用までスポーツ用車いすが置いてある。障がいの有無にかかわらず、車いすスポーツがいつでも楽しめる。パラアスリートと日常的に触れ合うことで、誰もが自分の「できること」に目を向けていく。
中山さんが思い描くのは、そんな社会の姿だ。
だからこそ、「パラキャンの活動は、あくまでも種」と、中山さんは強調する。授業だけでは社会は変わらない。周囲の人々が水と肥料をやり、花を咲かせる手伝いをしてほしい、と。
ワンボックスカーに車いすを詰め込んで、パラキャンは今日も日本を回る。
次の教室は、どこのまちだろうか。
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