CULTURE | 2021/07/14

イラクで両陣営から敵扱いされ怒鳴られる【連載】アクティビスト・小玉直也の「こんな人生があるのか!?」(2)

現在はジャーナリスト活動やさまざまな社会貢献活動を行う小玉直也氏は、戦場ジャーナリストでもないのに、数奇の運命に翻弄され...

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日本語が話せる米軍の尋問が一番怖かった

でも、尋問を受けても何も持ってないわけです。カメラ類しか持っていないし、それらしき武器は何もない。最初、米軍がわーっと喋ってくるから、「黙秘権を使えますか?」と英語で言おうとしたんですけど、やっぱり怖くてやめました。米軍には何も通じないなと思って、こういうときの常套手段として、バカのふりをするというのがあります。僕は「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」とか言って「アイ・アム・ジャスト・ジャパニーズ」とか、ずっと訛った英語を使ってやり過ごそうとしていたんですけど、向こうから歩いて来た人が「オレはサセボから来た」と、訛った日本語で「ニホンゴ、シャベレルヨ」と言われて、見破られた! と思って凄く焦りました。これはもうダメだと。沖縄から来た、佐世保から来たという人が日本語をちょっと喋りながら尋問してくるんです。これはつらかった。バカのふりをするのも効かないとなれば、もう手がありません。その尋問受けている時は生きてココから出してもらえるのか不安もよぎり本当に怖かったです。そう言うやり取りが、1、2時間あって、やっと開放されたんですけど、僕には半日ぐらいいた実感がありました。私はこれまで4度ほど死にかけたのですが、その1回をまさかのバクダットで体験しました。後日談ですが、当時現地に行っていた日本人ジャーナリストやボランティアの多くの人が米軍に拘束された経験がありました。米軍、味方を拘束してどうするんだよ! 

そんなこともありながら、イラクでの支援が続き、病院に医薬品を届けたり、ストリートボーイズたちに食糧を届けたり、銃声や空爆が連日続く中、ホント大変だったなぁと思います。そして2003年の年末を迎えるんですけど、東京新聞、時事通信、産経新聞、その他新聞社やNGO、フリージャーナリストなども集まって忘年会をしたんです。12月30日か31日だったと思います。メディアの人たちも日本人の支援活動を取材していたし、現地の病院などを支援して大変な現状などをNGOの方が詳しく知っていたので情報交換の意味合いもあったと思います。その忘年会には参加されてなかったのですが、バクダットのパレスチナホテル3階のNHK支局にも何度か顔出ししていました。当時バクダットには出川さんという方が常駐していました。私の住んでいる宮崎県出身でイラクで亡くなった井ノ上正盛さんの母校の小学校から来た手紙を、イラクの小学校に持って行って、返事を日本の小学校に届ける活動を取材しませんかとお伝えしたら、NHKと産経新聞など新聞社が取材にきてくれました。その時に出川さんが来られてなくて、取材に来た人がNHKの腕章をしているけど日本語は喋れない現地スタッフだったのには驚きました。そして、英語でインタビューされるから英語で応えたら「返答は日本語でお願いします」と言われ、聞いている人が日本語がわからないのに変なインタビューだなあと思っていました。当時、大手メディアは、現地の取材をする時に現地に行く人もいたけど、ほぼ外を出歩かなかったそうです。現地のスタッフを雇って、その人たちに映像や写真を撮って来てもらっていたそうです。その時に初めて治安の管理上の問題で日本人スタッフは現地にいかず現地スタッフに取材をさせていることを知りました。

そして、このイラクバクダット市マンスール小学校での出来事を続けますが、日本の小学校からの絵手紙を届け、その返事の絵手紙を日本の小学校に届ける活動です。その際、バクダットで購入したペンをイラクの子どもたちに届け、同じペンを日本の子どもたちにも届けて、日本の小学生に「このペンで文字を書いたりする時にイラクのことを忘れないようにしようね。そして平和を願おうね」というメッセージも込められているんです。 

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