現在はジャーナリスト活動やさまざまな社会貢献活動を行う小玉直也氏は、戦場ジャーナリストでもないのに、数奇の運命に翻弄されるがごとく、ハプニングの連続にさらされてこれまで生きてきた。破天荒な大学時代、金融先物取引の会社でのサラリーマン時代へ。その後、思い立って、イラクへ飛んだり、スマトラ沖地震のインドネシアへボランティアに行ったりNPO法人を設立したりと精力的に活動する、驚愕のハプニング連続のアクティビスト・小玉氏の人生を追う!
小玉直也
特定非営利活動法人アースウォーカーズ代表理事 フリーカメラマン
1971年宮崎県生まれ。大学まで宮崎で育ち1994年大阪で就職。3年後に退職してNPOやNGOに関わり2003年~04年イラク戦争中のバクダットに行き現地病院の医療支援や日本とイラクの学校の橋渡しや平和交流などに携わる。また現地で米軍に拘束され尋問を受ける。その年の朝日新聞広告賞入賞カメラマンに選ばれる。
聞き手:米田智彦 文・構成:神田桂一
遊びまくった大学時代、ひたすら電話営業したサラリーマン時代
私は1971年11月28日に3,650gで宮崎県で生まれました小玉直也と言います。中学、高校、大学まで宮崎で過ごし、就職で大阪に住み、その後NPO、NGOに関わって、2003年はイラク戦争のバグダッドに行ったり2005年はスマトラ沖地震の東南アジアに行ったり、2007年は中越沖地震のボランティアに行ったりして、東日本大震災の後は、毎月宮崎と福島を行ったり来たりしながら特定非営利活動法人アースウォーカーズの代表をしています。
大学時代はバスケットボール部の練習に明け暮れて、バスケの無い日はパチンコや麻雀したり夜はナンパをしにいったりの日々で、ボランティアには一切興味がありませんでした。ボランティアは就活に利用するため、自分の経歴を上げるためにやろうとしている偽善者だ!と思っていたんです。だけど、阪神大震災が大学4年の時にあって、その時に一緒につるんでいた友人たちと阪神大震災のボランティアに行かないかという話になって。結局その時に行けなかったんです。一緒に行こうと言っていたメンバーが「自分は就活が」とか、「自分は卒論の発表があるから」とか、「内定式があるから」とか、みんなで行けず、学生時代は、やりたいことをやっていたのに卒業前のボランティアを出来なかったことに後悔して就職したんです。
大阪で就職した会社は金融関係で、商品先物取引の営業をしていました。その頃はまだジャーナリズムや社会貢献にはまったく目覚めていなかったんです。そんなサラリーマン時代に最初にボランティアに行ったのは、97年にロシアのナホトカ号が座礁したんですけど、そのボランティアで福井まで行きました。元々そんなにボランティアってイメージはなかったけど、何かしたいと思った時に阪神大震災では出来なかったという後悔があったので、現地に行ったんです。その時に現場で感じた匂いや肌感覚は衝撃的でテレビや新聞では伝わらない! 百聞は一見に如かずを痛感しました。
ちょっと話は戻りますが、新卒で先物取引の会社に入って営業していたのって、ひたすら営業の電話をかけるんです。今思えば、結構大変だったと思います。同期はどんどん辞めていきましたけど、僕は割と数字を上げていました。喋るのが好きだったんで。同期は早稲田大卒とか色んな人たちがいたんですけど、良い大学に行っている同期は東京本社に集められて、そうじゃない同期入社は大阪支社に、新入社員の100人のうち半分ずつ分けられて僕は大阪の方に振り分けられたんです。でも、新入社員の新人賞を取ってからシンガポールに旅行に行ったり、賞金手当が出たり。まあまあいい経験できたかなと思います。
入社当初は稼いだお金で夜遊びに行ったり、いろんな使い方をしていました。しかし、ボランティアに行ったメンバーといろいろ語り合う中で女性に対する見方が大きく変わり、夜のお店にも行かなくなり自分の変化と成長に驚いたのを今でも覚えています。あの頃はいい仲間にめぐまれていたし、女性や社会問題や多くのことに目を向けて行くいいきっかけになったと思います。
人生初の海外旅行でハイジャックに遭う
現在は地元宮崎と被災地福島の二拠点生活で、アースウォーカーズの活動を通してさまざまな社会貢献を行っている。
大学時代に長渕剛さんのファンで当時は全国ツアーの50本くらいのうち半分くらいコンサートをに行く追っかけをしながら、ギターの弾き語りなどをしていました。その時の友人の古山淳君ととても仲が良く、彼の両親が赴任していたシンガポールに行こうと誘われ生まれて初めての海外に行く事になりました。関西空港発で香港経由で忘れもしないキャセイパシフィック航空。到着予定時間になりシンガポール上空に到着するも、そこから2時間も3時間も旋回していました。最初は空港が混んでいるので着陸順番待ちという説明だったので、無料でビールが飲める時間が増えたくらいに喜びながら乗っていたのですが、かなりの時間待たされました。
実はその時、犯行グループから犯行声明がありシンガポールに着陸したら飛行機を爆発させるという犯行声明があり、マレーシアの空港に着陸させるよう脅されていたそうです。私は犯人を見ていないのですが、CAさんは乗客が動揺しないように、アルコールなどを出しながら、どの人が犯人なのか爆発物を持っている人は誰なのかを探しながら接客していたそうなんです。そんな状況をつゆ知らず始めての海外旅行に浮かれていた私たちは「格安航空券での旅行だから順番待ちなんじゃない?」とビールを飲んでました。
最終的に燃料に限界がきて飛行機が着陸していくのですが、その時初めて異変に気づきました。それは、空港のタラップが出ているところとまったく違う方向のところに飛行機が止まり、その際に周りにすでに消防車が囲むように止まっている所に停車したのです。そして、そのあと驚いたのが飛行機を降りてバスで移動になったのですが、バスに乗車をしたらバスの前と後ろに迷彩柄の装甲車に挟まれ装甲車の上からバスに向けて銃を向けている兵士がいたのです。そして、きわめつけがバスを降りた後、荷物のチェックや着ている衣類も薄着になるように言われかなり厳密なボディーチェックが始まりました。
その時は私は一体何なのかわからないし、周りでおじさんが「飛行機が遅れるだけで無く、何という仕打ちなんだ!」と切れている人もいて騒然とし始めました。そしてその後、キャセイパシフィックの地上係員が「日本語の皆さんはこちらに来て下さい」と集められ、受けた説明が「先ほどまで搭乗していた航空機がシンガポールに着陸したら爆発させるという犯行声明があり、マレーシアに行き先を変えるかそのまま着陸するか燃料が残っている間フライトをしていました。着陸して犯人を探すために、みなさんの荷物やボディチェックが必要だったのです」。その説明を聞き、一気にそれまでの酔いが覚めて、血の気が引くというのを初めて感じたのを覚えています。
翌日の朝刊を見て友人の父親が昨日のフライトの事件が1面記事でニュースになっていることを教えてもらった時に、私は「海外旅行っていろんなことがあるんだなあ」としみじみ感じましたが、それ以降そのようなフライトは一度もありませんでした(笑)。
私の人生上のミスを挙げるとすればあの時のシンガポールの新聞を記念に買って持って帰れば良かったのですが、初の海外旅行でシンガポールのマーライオンを見たりするのに必死で、過ぎたことには気にも止めてなかったことです。
(続く)