EVENT | 2021/03/10

『花束みたいな恋をした』から考える、社会人になったら趣味を全部諦めなきゃいけないのか問題

©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

レジー
1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、201...

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©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

レジー

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1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽ブログ「レジーのブログ」を開設。アーティスト/作品単体の批評にとどまらない「日本におけるポップミュージックの受容構造」を俯瞰した考察が音楽ファンのみならず音楽ライター・ミュージシャンの間で話題になり、2013年春から外部媒体への寄稿を開始。著書に『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)がある。
Twitter https://twitter.com/regista13
レジーのブログ(note)https://note.com/regista13

「マイナーなカルチャー好き」というアイデンティティ

©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

今年1月29日の公開以来、6週連続で興行収入1位を記録するなど大ヒットしている映画『花束みたいな恋をした』(以下『はな恋』)。

この映画では、主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)がカルチャー好き(小説、音楽、お笑い、映画など)として描かれるとともに、大学生から社会人へと年齢を重ねるにつれて麦が徐々にそういったコンテンツとの距離が遠くなっていく様がリアルに展開される。一時は本気で仕事にしようとしていたイラストを描くことを会社に忙殺される中でやめてしまった麦が放つ「パズドラしかやる気しないの」という台詞に衝撃を受けた向きも多いだろう。

では、麦が会社員になってからも、適切な距離感でカルチャーと接する道はなかったのだろうか? 本稿ではそんなテーマについて、「文化系をやめなかった会社員」の視点から考えてみたいと思う。

まず、議論の前提として、この映画を理解するうえでのベースとなる「マイナーなカルチャー好き」というアイデンティティについて確認しておきたい。おそらく『はな恋』は「学校のクラスメイト全員が知っているわけではない音楽や映画を好きになった経験」「そういった音楽や映画についての感動を共有したいけど伝えられる人が周りにいない(もしくはかなり少数しか存在しない)経験」が映画を観た人にどれだけあるかでだいぶ受け止め方が変わる映画である。

かくいう自分も特に音楽に関しては中学生の頃からヒットチャートと無縁のアーティストを熱心に追いかけていたので、麦と絹の「固有名詞を介してお互いの感覚を確認するようなコミュニケーション」には親近感を覚えた。この映画の時系列に沿えば、2015年にリリースされたcero『Obscure Ride』には興奮したし、その前年にメジャーデビューしたきのこ帝国『フェイクワールドワンダーランド』(「クロノスタシス」が収録されている)は今でもお気に入りの1枚である。今作のキーになるバンド、Awesome City Clubに関しては同年のメジャーデビューの前から追いかけていたので、映画をきっかけとしたブレイクには感慨深いものがある(当時のエピソードは自分のnoteで「花束と勿忘とオーサムと2015年とライター活動と」という記事を書いた)。 

「麦と絹は固有名詞を挙げているだけでその内容について触れていない(だから浅いところでしかつながっていない)」というようなツッコミは、前述のような経験が自身の人生と深く結びついている人からすると「表面的」なものでしかない。もちろん趣味が一緒だからと言って人生を共にできるわけではないのはこの映画の結末の通りだが、「固有名詞が注釈なしで通じる」ことの価値を過小評価するべきではない。カラオケできのこ帝国を歌っても引かれずに一緒に歌ってくれる相手が存在することは、そういったカルチャーを愛する層にとっては大げさでなく「実存の肯定」そのものである。

麦は「変節」したのか

©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

カルチャーをきっかけにつながった麦と絹は、カルチャーへの態度がずれていくのと軌を一にしてその関係性がぎくしゃくしたものになっていく。そしてその背景には、2人の社会への向き合い方に対するギャップがあった。資格を取って手堅く職を得ながらも結局はそれを手放して自分の好きな世界に近い場所に飛び込む絹に対して、麦はわかりやすく「普通の会社員」として「規範的な生き方(仕事第一、タイミングが来たら結婚、など)」を自分の人生に見出していく。

麦は会社に入って変わってしまったのか? 解釈はいかようにもできるが、ここでは「麦は変わったのではなく、ライフステージの変化を通じて元々あった価値観が表出した」という立場をとりたい。なぜなら、この2人はあまりにも(映画にも出てきた『スマスマ』にならって言うならば)「育ってきた環境が違う」からである。

大手広告代理店に勤める両親のもとで育った絹は、おそらく「女性が社会で活躍する姿」を間近で見てきただろうし、曲がりなりにも「カルチャー」に近いものを仕事にする彼らの生き様からインスパイアされる部分もあったはずである。

一方で、その対比として麦の父親は「新潟の頑固おやじ」的に描かれている。登場しない母親は専業主婦だろうか? 少なくとも、「都会のキャリアウーマン」のような生き様ではないだろう。カルチャーの溢れる東京への憧れとは裏腹の、刷り込まれるステレオタイプな家族観。帰宅後の作業や休日の出張先前乗りが求められるようなある種のブラック感もある企業に就職する前から、麦には伝統的な(旧弊的な)「社会とは」「家族とは」がインストールされるポイントが複数存在していた可能性が高い。

「仕事は遊びじゃないよ」

「好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」

「結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、家にいなよ」

2人の価値観の違いがはっきりするシーンで麦が矢継ぎ早に放つ言葉は、絹に向けられたものであると同時に絹の両親の働き方に対する否定にもなっている。「社会に出るとはそういうことだ」という意識が最悪の形で表出した瞬間だが、実はこの考え方は彼の中に元々備わっていたものだったのではないだろうか。

「仕事しながらでも描けるし、食べていけるようになったらまたそっちに軸足戻せばいいし」

就職活動を始める前に麦は確かにそう言っていた。この時点で、彼の頭の中には「カルチャーとの両立」がテーマとして生きていたことが伺える。生活から一切の「遊び」が消えた就職後の麦はまるで変わってしまったように見えるが、大きな出来事と向き合った際にはその人の地金が出てくるわけで、余裕がなくなった時に顕在化した麦の姿こそ彼がこれまでの人生の中で培ってきた考え方なのだと思う。彼がイメージできる「社会」や「家族」の中に、もともと好きだったカルチャーやイラストの介在する余地はなかった。

「男たるもの」的な考え方に、実はそこまで抵抗のなかったであろう麦。就職してからの「仕事で成長する自分」「新しいエリアを任される自分」という自己像は、カルチャーに耽溺していた数年前と比較しても意外と心地よいものだったのかもしれない。

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個人的体験:文化系社会人の処世術(と自己防衛)

©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

筆者は総じて『はな恋』については好意的であり、またいわゆる「カルチャーが好きな人間」としていろいろな意味で共感できるポイントがあったのだが、「麦はもっとうまくカルチャーと付き合えなかったのだろうか」という問いは映画を観てからしばらく自分の心に残っていた。

今作で描かれている「社会の波に呑まれるカルチャー好きの若者」の姿はなかば戯画的ではあるが、「会社に入るとカルチャーとの距離を保ちづらくなる」というのは一部の業界を除いては一種の「あるある」だろう。麦や絹の趣味が理解できる人であれば、“家で「クロノスタシス」を聴いていても会社関係のカラオケでは「RPG」や「キセキ」(ともに2人が出会う直前の「馴染めないカラオケの空間」で歌われている)を合唱しないといけない”というようなシチュエーションに程度の差はあれ遭遇しているはずである。

冒頭で述べたような「固有名詞を巡る線引き」についても、会社ではワークしないことが多い。筆者自身、これに関してはいくつか失敗談がある。転職後まもないタイミングで職場の先輩たちとランチに行った際、何気なく音楽の話になった中でシニカルな冗談のつもりで「今は〇〇(熱いメッセージが支持された3人組)が人気じゃないですかね」と言ったところ「確かに〇〇はいいよね!」と話が盛り上がってしまった。プロジェクトの打ち上げでメンバーが言っていた「〇〇(歌唱力を売りにしている2人組)が好きで結婚式で曲を使いました」という雑談に「言うほど歌えてないよねあの人ら」と思わず返してしまって変な空気が生まれたこともある。

さまざまな趣味嗜好の人たちが集まっている会社という場においてコンテンツに関する微細な「あり/なし」の基準など機能しないし、そういう環境に長く身を置いていく中でカルチャーに関する感度が鈍っていく…というのは仕事に取り組む過程で会社に「同化」しようとする真面目な人ほど陥る状況のように思える。

だが「カルチャーを捨てる」ことこそが「大人になる」、つまりは「会社でうまくやる」ことなのだろうか? 筆者はそうは思わない。直接的には2つの処方箋がある。中に仲間を見つけるか、外に活路を見出すか。

職場で自分の好きなことを折に触れて発信していると、意外と周りの席に座っている人たちの中に「カルチャー好き」が紛れ込んでいることがわかる。最初に配属された職場では、年次の少し上の先輩たちが連れ立ってフジロックに行くような人たちだったり(今よりもフェスが「ガチめの趣味」の時代だった)、チームリーダーが古いパンクに詳しかったりというのがひょんなことから判明した。転職後の職場では、社外で音楽ライターとして活動している人やトラックメーカーとして楽曲を発表している人との出会いがあった。彼らとのやり取りは、会社に属しながらもカルチャーとの距離を保つうえで大いに刺激になった。

この手の話は「たまたま職場にそういう人がいただけ」に過ぎないかもしれない。一方で、今の時代は会社の外で何かしらの情報をアウトプットしながら自分でコミュニティを開拓するのが確実に容易になっている。筆者自身、会社員を続けつつこうやってメディアで自説を披露する機会を定期的にいただくようになったのは30歳を過ぎてから、会社員になって10年近く経ってからだった(前述のライター活動をしていた同僚からの影響も大きい)。

趣味で始めたブログのバズを経て音楽ライターとしての活動を始めることになり、Awesome City Clubのメジャーデビュータイミングでの公式インタビューを担当するなどいろいろな経験をすることになったのは僥倖以外の何物でもないが、ネットでの発信が思わぬ方向に転がる可能性というのは現実的なものとして存在している。

「好き」をやめる必要はない

©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会

『はな恋』の舞台となった2010年代後半は、「働き方改革」という言葉が一気にリアリティをもって広がっていった時代でもある(絹の両親が勤める会社のモデルとなっていると思われる広告代理店で、若手社員が長時間労働を苦に自殺したことがそのきっかけとなっている)。副業を認める企業は増加し、歴史のある大企業や官公庁が副業前提でプロジェクトメンバーを募集するようなケースも目立つようになってきた。

「ライスワークとライフワーク」という言葉がある通り、食うための仕事はもちろん必要だが、それと並行して自己実現につながる仕事を行う(そういう仕事を作るために自身のリソースを投入する)ことが制度的にもインフラ的にもやりやすい時代になってきている。麦のように自身の労力のすべてを「ライスワーク」に投じるでもなく、もしくは絹のように「ライフワーク」起点で職場を選ぶでもなく、その間で両立を図る人たちがこの先より一般的になっていくだろう。

麦も絹も「まだ主流になっていない最先端のカルチャー」に触れている自負があったのであれば、そのアンテナを彼ら自身の生き方や働き方にも向けてほしかった。もっとも、麦はまだ前時代的な「会社人間」への足を踏み出してたかだか4年程度。社会に出るタイミングでそうやって熱に浮かされる瞬間はあるし、人生は長い。きっとまた、カルチャーに対して意識が向きそうな予兆に出会う瞬間があるかもしれない。その時には「そんなの遊びでしょ」と切り捨てることなく、自身の直感を大事にしてほしいと思う。そこにこそ、「ライス」と「ライフ」を両立させるヒントがあるはずである。

最後に、「カルチャー好き」であることを担保しながら「ライスワークとライフワーク」のバランスをとるべき日々腐心している40歳手前の人間として、僭越ながら麦にアドバイスさせていただきたい。

・仕事にやりがいや面白みを感じること自体は決して悪いことではない。そのために、いわゆる「カルチャー」から遠いところにある本から何かを得ようとするのも人生のある時期においては意味のあることなので、それもやめる必要はない。

・ただ、『人生の勝算』はやめておいた方がいい。根性論とキャラ戦略で現状を打破しようという考え方は、よほど肌に合う人以外は消耗して終わるだけである。どうせビジネス書を読むなら、もうちょっと「頭の使い方」に関するものを読んだ方が良い。

・『人生の勝算』を立ち読みするシーンは2017年の年末だったが、前年(16年)に出た『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門』などはどうだろうか。タイトルには自己啓発感のあるカジュアルな作りだが、「マーケティングとは?」「目的/目標の違いは?」「戦略/戦術の違いは?」などベーシックな話から始まって実践的な知見に触れられるのでおそらく当時の麦のコンディションにもはまるはず。

・パズドラしかやる気がない時も、音楽は聴いてみてほしい。最新のサウンドは刺激が強くて入ってこないかもしれないけれど、そういう時こそ古典的なロックやポップスに触れるとすーっと体に染み入ってきたりする。メンタルが平常に戻ったあとに、その時の体験が自分のリスナーとしての幅を広げてくれる。ストリーミングサービスには時代ごとにざっくりと作品のまとまったプレイリストがあるので、とりあえずそれを流しておけばよい。

・イラストについては、まずは過去のものでもいいのでSNSのアカウントを作って定期的にアップすべき。最初は身内からだけかもしれないが、少しでもリアクションがあれば再びペンを手に取るモチベーションになる。立ち上がり時は体力的にキツい部分があるはずだが、そこを乗り越えるとその活動自体が精神的な安定にポジティブに作用する。

・それが「仕事」になるかは運次第の部分もあるが、すでに「ライスワーク」を確保しているから焦る必要はない。とにかく「好きなことをやめない」というメンタリティを忘れないでほしい。

先ほど述べた通り、現在筆者がこの場でこうやって文章を書いているのは、30歳を過ぎたあたりでいくつかの幸運が重なった結果である。そしてその幸運に辿り着いたのは、学生のころから好きだった「音楽を聴くこと」「音楽を聴いて何かを考えること」をやめなかったからこそだった。自分の社会人生活を振り返ると、カルチャーとの距離感というのは必ずしも一定ではなかったが(会社の仕事や日々の生活の優先度が高かった時期もある)、関わりが薄くなってもゼロになることはなかったように思う。

全身全霊を捧げるような熱狂から距離をとることになってしまっても好きなことは続けられるし、年齢に応じた愛し方を考えるのもカルチャーに接する際の楽しみの1つである。『はな恋』を見たカルチャー好きの若い方々は、ぜひともその時々に応じた向き合い方をマイペースに見つけてほしいと思う。


花束みたいな恋をした
2021年1月29日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか、全国公開
配給:東京テアトル、リトルモア