©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
レジー
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1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽ブログ「レジーのブログ」を開設。アーティスト/作品単体の批評にとどまらない「日本におけるポップミュージックの受容構造」を俯瞰した考察が音楽ファンのみならず音楽ライター・ミュージシャンの間で話題になり、2013年春から外部媒体への寄稿を開始。著書に『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)がある。
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「マイナーなカルチャー好き」というアイデンティティ
©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
今年1月29日の公開以来、6週連続で興行収入1位を記録するなど大ヒットしている映画『花束みたいな恋をした』(以下『はな恋』)。
この映画では、主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)がカルチャー好き(小説、音楽、お笑い、映画など)として描かれるとともに、大学生から社会人へと年齢を重ねるにつれて麦が徐々にそういったコンテンツとの距離が遠くなっていく様がリアルに展開される。一時は本気で仕事にしようとしていたイラストを描くことを会社に忙殺される中でやめてしまった麦が放つ「パズドラしかやる気しないの」という台詞に衝撃を受けた向きも多いだろう。
では、麦が会社員になってからも、適切な距離感でカルチャーと接する道はなかったのだろうか? 本稿ではそんなテーマについて、「文化系をやめなかった会社員」の視点から考えてみたいと思う。
まず、議論の前提として、この映画を理解するうえでのベースとなる「マイナーなカルチャー好き」というアイデンティティについて確認しておきたい。おそらく『はな恋』は「学校のクラスメイト全員が知っているわけではない音楽や映画を好きになった経験」「そういった音楽や映画についての感動を共有したいけど伝えられる人が周りにいない(もしくはかなり少数しか存在しない)経験」が映画を観た人にどれだけあるかでだいぶ受け止め方が変わる映画である。
かくいう自分も特に音楽に関しては中学生の頃からヒットチャートと無縁のアーティストを熱心に追いかけていたので、麦と絹の「固有名詞を介してお互いの感覚を確認するようなコミュニケーション」には親近感を覚えた。この映画の時系列に沿えば、2015年にリリースされたcero『Obscure Ride』には興奮したし、その前年にメジャーデビューしたきのこ帝国『フェイクワールドワンダーランド』(「クロノスタシス」が収録されている)は今でもお気に入りの1枚である。今作のキーになるバンド、Awesome City Clubに関しては同年のメジャーデビューの前から追いかけていたので、映画をきっかけとしたブレイクには感慨深いものがある(当時のエピソードは自分のnoteで「花束と勿忘とオーサムと2015年とライター活動と」という記事を書いた)。
「麦と絹は固有名詞を挙げているだけでその内容について触れていない(だから浅いところでしかつながっていない)」というようなツッコミは、前述のような経験が自身の人生と深く結びついている人からすると「表面的」なものでしかない。もちろん趣味が一緒だからと言って人生を共にできるわけではないのはこの映画の結末の通りだが、「固有名詞が注釈なしで通じる」ことの価値を過小評価するべきではない。カラオケできのこ帝国を歌っても引かれずに一緒に歌ってくれる相手が存在することは、そういったカルチャーを愛する層にとっては大げさでなく「実存の肯定」そのものである。
麦は「変節」したのか
©️2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
カルチャーをきっかけにつながった麦と絹は、カルチャーへの態度がずれていくのと軌を一にしてその関係性がぎくしゃくしたものになっていく。そしてその背景には、2人の社会への向き合い方に対するギャップがあった。資格を取って手堅く職を得ながらも結局はそれを手放して自分の好きな世界に近い場所に飛び込む絹に対して、麦はわかりやすく「普通の会社員」として「規範的な生き方(仕事第一、タイミングが来たら結婚、など)」を自分の人生に見出していく。
麦は会社に入って変わってしまったのか? 解釈はいかようにもできるが、ここでは「麦は変わったのではなく、ライフステージの変化を通じて元々あった価値観が表出した」という立場をとりたい。なぜなら、この2人はあまりにも(映画にも出てきた『スマスマ』にならって言うならば)「育ってきた環境が違う」からである。
大手広告代理店に勤める両親のもとで育った絹は、おそらく「女性が社会で活躍する姿」を間近で見てきただろうし、曲がりなりにも「カルチャー」に近いものを仕事にする彼らの生き様からインスパイアされる部分もあったはずである。
一方で、その対比として麦の父親は「新潟の頑固おやじ」的に描かれている。登場しない母親は専業主婦だろうか? 少なくとも、「都会のキャリアウーマン」のような生き様ではないだろう。カルチャーの溢れる東京への憧れとは裏腹の、刷り込まれるステレオタイプな家族観。帰宅後の作業や休日の出張先前乗りが求められるようなある種のブラック感もある企業に就職する前から、麦には伝統的な(旧弊的な)「社会とは」「家族とは」がインストールされるポイントが複数存在していた可能性が高い。
「仕事は遊びじゃないよ」
「好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」
「結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、家にいなよ」
2人の価値観の違いがはっきりするシーンで麦が矢継ぎ早に放つ言葉は、絹に向けられたものであると同時に絹の両親の働き方に対する否定にもなっている。「社会に出るとはそういうことだ」という意識が最悪の形で表出した瞬間だが、実はこの考え方は彼の中に元々備わっていたものだったのではないだろうか。
「仕事しながらでも描けるし、食べていけるようになったらまたそっちに軸足戻せばいいし」
就職活動を始める前に麦は確かにそう言っていた。この時点で、彼の頭の中には「カルチャーとの両立」がテーマとして生きていたことが伺える。生活から一切の「遊び」が消えた就職後の麦はまるで変わってしまったように見えるが、大きな出来事と向き合った際にはその人の地金が出てくるわけで、余裕がなくなった時に顕在化した麦の姿こそ彼がこれまでの人生の中で培ってきた考え方なのだと思う。彼がイメージできる「社会」や「家族」の中に、もともと好きだったカルチャーやイラストの介在する余地はなかった。
「男たるもの」的な考え方に、実はそこまで抵抗のなかったであろう麦。就職してからの「仕事で成長する自分」「新しいエリアを任される自分」という自己像は、カルチャーに耽溺していた数年前と比較しても意外と心地よいものだったのかもしれない。
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