少子高齢化が止まらない日本において、中小企業の事業承継は大きな問題のひとつだ。たとえ事業自体は順調であっても、後継者が見つからなければいずれ黒字倒産してしまう。
この問題は、私たちが「当たり前の存在」として接してきた仏教のお寺についても同様のことが言える。高齢化・人口減少が続くと住職たちの主な収入源である檀家(の法事など)が減り、生活が成り立たなくなってしまう。そのため過疎地ではすでに住職がいない寺が存在し、他の離れた寺と兼任しているケースも珍しくないという。
こうした状況の中、次世代の仏教を担う若手僧侶たちはただ手をこまねいて傍観しているだけなのかといえば、そんなことはない。今回は季刊の仏教総合誌『サンガジャパン』の編集部との共同企画で、東京神谷町・光明寺の僧侶でありながらインド商科大学院(ISB)でMBAを取得し、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講した異色の経歴をもつ松本紹圭氏と、神戸の須磨寺の副住職で、2017年から定期的に「YouTube法話」の動画を投稿、また今年は2017年から真言宗豊山派の間で開催されていた法話のコンテスト「H1グランプリ」の宗派を問わない拡大バージョンを主催し、400枚のチケットが即完売するという大成功に収めた小池陽人氏の対談をお届けする。
「ウチの会社は上がシルバー世代ばっかりで新しいことなんかできないよ」と愚痴っている読者は、数百年におよぶ歴史も珍しくない“老舗”の中でアップデートを試みる若手の活動を参考にしてほしい。
聞き手:米田智彦、神保勇揮、五十嵐幸司(サンガジャパン編集部) 文:神保勇揮 構成:平田提 写真:山端秀明
松本紹圭(まつもと・しょうけい)
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1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、7年間で600名以上の宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。『こころを磨くSOJIの習慣』(ディスカバートゥエンティワン)他、著書多数。お寺の朝掃除の会「Temple Morning」の情報はツイッター(@shoukeim)にて。
小池陽人(こいけ・ようにん)
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昭和61年生まれ。東京都八王子市出身。総本山醍醐寺修行道場「伝法学院」卒業後、四国八十八か所歩き遍路成満。清荒神清澄寺で天堂番として二年間修行。須磨寺では、生涯学習の場としての「青葉会」や「須磨 夜音 音楽法要祭」などを開催。NHK文化講座神戸教室の講師としても活動中。平成29年6月よりYouTubeチャンネル「須磨寺小池陽人の随想録」を開設し、2週間に一度、YouTubeで法話を配信している。平成29年9月より、須磨寺テレホン法話で3分間の法話を毎月更新している
テレホン法話:TEL078-732-5800
崩壊の危機を迎える日本の檀家制度と、今お寺にできる役割
― ― まずお二人に、若手のお坊さんの方々がどういう危機意識を持たれているかをお聞きしたいです。
光明寺(東京)の松本紹圭氏
松本: 私は「未来の住職塾」という若手僧侶との教育・研究活動を7年やってきて、卒業生が7期で600人超になりました。みんな地域や宗派はバラバラですが、跡継ぎと言われる立場のかなり幅広い方と交流を経験してきました。
今仏教界で一番の課題は、檀家制度です。制度自体は江戸時代で終わり、それ以降は慣習として残っているものです。ただそれを重んじる価値観はまだあるので「お墓をイノベーションしよう」とか「仏壇を改革しよう」みたいな動きはありません。今まで跡を継いだ人たちは、基本的に先代やお父さんたちがやってきたことを続けていけば大丈夫、という流れの中にいました。マネジメントなどを学ぶことも特に必要ないし、そうした中で数百年続いてきたのが逆にすごいとは思います。
― ― 確かにそうですね。
松本:ただその檀家制度が崩れてきている。家という考え方がどんどん薄れてきて、かなり趣味の世界に近い領域になってきています。お寺は明治に入って民営化され、政府の補助金もなく、自分たちで経済的に回せなくなったら仕組みとしては終わってしまうものになりました。でも、2代目、3代目と言わず、20代目、30代目と跡を継いでいく人たちは、何としても自分の代で終わらせてなるものかという思いがすごく強いです。
名古屋で開催された「未来の住職塾」でのワークショップの模様
ただそう思いながらも、今までのやり方では難しいというジレンマに直面している。どうやったら預かっているお寺を次世代に、しかも何をもって渡すかという問題もあるわけです。次の世代、子供や孫の世代に負の遺産ではなく「よくこれを残してくれたな」と感謝されるように残していくことが必要で、それはどう実現できるんだろうと今みんなで模索しているところです。
― ― 小池さんはどんな課題意識を持たれていますか?
須磨寺(神戸)の小池陽人氏
小池:最初に私のお話をさせていただくと、今副住職を務めている兵庫県の須磨寺は母親の実家です。私のおじが住職で、養子として入ってお坊さんになったんですが、そもそも私はお寺で生まれ育っていないんです。東京の八王子市の多摩ニュータウンで育ちました。友人の家に行って仏壇がある家は一つもなかったです。日常に仏教がないのが当たり前で、お寺とかお坊さんと関わることがまったくなく僕は育っていきました。
大学ではまちづくりを勉強していました。授業の中で今いろいろな都市、地域で限界集落、地域コミュニティが保てない地域が増えていっていることを知ったんです。私の祖母が東京の幡ヶ谷に住んでいたんですが、祖父が亡くなって「一人では危ない」ということでニュータウンの近くに来させたんです。ところが祖母は引っ込み思案で、あまり外に出るタイプではなかったので認知症になってしまった。コミュニケーションがない、つながりがないことが、いろいろな問題を引き起こしているという問題意識がありました。
お寺を次世代に残すことは確かに大切なことではあるんですけれども、それよりもまず私の中で大事なことは、地域の中の課題を知り、自分のお寺の場であったりポテンシャルを全部使いながら、地域の人たちに何ができるのかを常に考えることです。お寺と一括りで言っても、その地域によってもお寺の住職によっても全然違うんですね。お寺が続いていくことはそのお寺の住職、副住職がどう行動していくか一つだと思っています。
お寺こそ長期的スパンで物事を見なきゃいけないと思っているんです。今は社会の流れが本当に目まぐるしくなっていて、変化についていかなければいけない、という考えが強い。でも、お寺は1000年以上続いてきた信頼があるわけです。信頼というのは、ものすごいアドバンテージじゃないですか。起業したばかりのベンチャー企業が信頼を得るためにはものすごい労力とか時間がかかると思いますが、お寺はそういう労力がほかに比べたら必要ないわけです。そういうアドバンテージを活かしながら、お寺にしかできない役割を見つけていくことが今一番求められていると私は思っています。
布教とはつながる力である
― ― 元々お寺は村とか町のコミュニティだったんじゃないかと思うんです。人々が集まったり交流したり、お葬式があったり。それが現代の都市化社会になって失われていったけど、人間の性質上、コミュニティを求めるのは変わらないと思うんです。今はSNSやYouTube、コワーキングスペースなど、いろいろな現代的なコミュニティがあります。その中で、お寺というコミュニティがどういう特徴を出せばブレイクスルーするとお考えですか。
松本:コミュニティ、別の言い方をするとつながりを皆さん求めているのはそうだと思うんです。住職あるいはお坊さんだけではなく、宗教者はみんな教えを伝え広めるのが布教だと思っています。でも、「布教とは伝える力じゃなく、つながる力である」と発想を変えていった方がいいんだろうなと。
日本の仏教に関しても、新宗教もそうですけど、みんな教祖モデルなわけです。真言宗であれば空海、御大師様ですし、浄土真宗であれば親鸞聖人で、その教えを伝えようとする。親鸞聖人はこういう言葉を残しました、御大師様の空海さんはこんな言葉を残しました、みたいな話から入っていってしまうんですけど、それってそもそも私の人生にどう関係があるの?という話ですよね。いきなり、そこからいっちゃうと。
そうじゃなくて、今の人たちが何に苦しんでいて、そして背後にどういう課題があるかを見せるために、一つのソリューションとして、仏教もあるよと接していく。お坊さん自身も「お寺は昔からコミュニティだったんだよね」とはよく言うもので、だから私も現代にコミュニティ中心のお寺を復活させたいと言うんですが、その発想でいくと「じゃあ集まった人たちは住職のビジョンを実現するためのエキストラなのか」という話になってしまう。何のためにコミュニティが必要なのか、そこまで戻る必要があると思うんです。
― ― そもそも論ですね。
松本:はい。そもそも論に戻ったときに、どんな切り口で語っていくかはいろいろあると思いますが、最近私が注目しているのはウェルビーイング(well-being)の考え方ですね。ウェルビーイングはハピネス、幸福とも重なりますけど、精神的な幸福だけではなくて身体的、そして社会的に元気・健康である・充足していることです。それは宗教的な、スピリチュアリティの部分でも非常に満ち足りた状態である。ウェルビーイングがいろいろな領域で盛り上がっている中でお寺が人のウェルビーイングにどう寄与しうるのかということを考える必要があると思うんです。
雑誌『WIRED』の「デジタル・ウェルビーイング特集」にドミニク・チェンさんの「私のウェルビーイングから私たちのウェルビーイングへ」という記事がありました。人はただ一人で存在しているわけではなく人との関わりの中で存在しているわけで、私の体に何か物差しを当てて幸せを測るんじゃなくて、例えば小池さんと私の間に何か変数があって、それを測っていかないと本当の幸せは見えないんじゃないのかと。
ドミニクさんは、「私たちのウェルビーイング」というのも、一人のことじゃなく複数の人間、コミュニティなり、小規模だと家族とか、そこから捉える視点がこれから盛り上がっていくだろうと書いています。それは私の感覚とも合うんです。仏教でもティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)氏が、インタービーイング(Interbeing)という人間は相互関係的に存在していると表現されていて、それも「私たちのウェルビーイング」とつながると思っています。
人が元気になる、よりウェルビーイングを高めていくところに、仲間の存在がものすごく大事だということが言える。これは研究からも明らかになってきていて、実は大昔から釈尊が仲間を持つことが決定的に大事で、修行の完成のためにはいい仲間を持つことがすべてであるとおっしゃっている。そういう文脈で、つながりの結果生じるコミュニティの価値が、今日的にも言えるのかなと思っています。
話題を生んだ「H1法話グランプリ」
― ― コミュニティにいる既存の人たちのつながりを強めるだけでなく、新しい人たちにどんどん入ってきてもらう必要もありますよね。小池さんが主催されている「H1法話グランプリ」はその大きな手段の一つじゃないでしょうか。
小池:そうですね。真言宗にはいろいろな派があるんですけど、「H1法話グランプリ」は真言宗の中の豊山派、栃木県の青年会が始めたことなんですね。私はたまたまそれをNHKのニュースで見て、「ぜひ兵庫でもやりたい」とお願いしたら快く「やって下さい」と言われ、去年の11月に兵庫県の真言宗の青年会で開催させていただき私がグランプリになりました。
2018年11月に開催されたH1法話グランプリの模様。全7組・8名の若手僧侶が参加した
でも、「人と比べないで生きていこう」と説いているお坊さんがグランプリを企画している時点で、実はものすごく矛盾をはらんでいるわけです。
― ― 確かにそうですね。
小池:ただみんながしのぎ合っているイメージではなく、実際にやってみると、若い僧侶が協力し合って400人ぐらい来られたお客さんに何とか喜んでもらいたい、「ああ、来て良かった」と思って帰ってもらうために、次々に登壇していったんです。私が出たときは8人の若手の坊さんが出場していましたが、争うんじゃなくて頑張れ、頑張れという感じでやっていました。
来場者の方はみんな孫を見るような目で見てくださっていました。一般的なイメージでの法話って、偉い高僧のお坊さまからみんなが諭されるものだと思うんです。「人生はこうだ」とか「生きていくのはこういうことだ」のような。でも「H1法話グランプリ」は若手ばかりが次々に話したので、お客さんと話す側の関係がものすごくフラットだったんです。若い副住職世代は、そんな大勢の前で法話をする機会はまずないんです。大法要の時は住職が法話してしまいますし、檀家さん以外の一般の方、しかも400人の前で話すなんてありません。そんな経験ができただけでも、ものすごく研鑽になる。
有名な「M-1グランプリ」のように「H-1グランプリ」と銘打つことによって若い人にも興味を持ってほしいという思いもあるんです。
― ― 400席が2日で完売したと聞いたんですけど、すごい人気ですね。
小池:記者会見にテレビ局、新聞、雑誌を含めて13社が来てくださって、Yahoo!ニュースに出たりものすごい反響があって、それで400枚のチケットが完売したと思うんです。真言宗だけではなく宗派を超えてできたらもっと大きな反響が得られるんじゃないかと思って、松本さんがつくられた「未来の仏教ラボ」というところでお声掛けして、志を同じくした人に集まってもらって実行委員として組織したんです。宗派を超えてやったことが、それだけの大きな反響を生んだんじゃないかと私個人は思っています。後援の毎日新聞さんにも「特定の宗派でなく仏教全体で取り組んでいるからこそ後援しやすかった」と言っていただきました。
毎日新聞さんは、私がYouTubeで法話を配信しているのを取材して下さって、その中で「H1法話グランプリ」の話をしたら興味を持って下さり、後援もしてくれることになりました。そのご縁もあって、毎日新聞の連載を基にした、『異教の隣人』というタイトルの本を出された、仏教界の超有名人・釈徹宗(しゃくてっしゅう)さんに審査員委員長をお願いすることもできました。
― ―大反響だったんですね。
小池:その釈徹宗さんが「いま、伝統仏教界は曲がり角に来ている」とおっしゃられたんです。そのとおり檀家制度は崩れ、統計によると現在7万以上あるお寺が、数十年後には4割消滅するという予測もあります。お寺と人のつながりも、地域の中での人間関係も、家族間の関係も、親戚との付き合いも希薄になっていってるんですね。
仏壇がない家はもちろん法事はないですし、仏壇がある家でも親戚を呼んで法事をすることが少なくなってきています。家族だけで済ませてしまおうとか、あるいは七回忌までで終わっちゃおうということが当たり前に行われているんです。仏事がなくなるということは、仏教を伝える場そのものが少なくなってきているということです。
なので、今はお寺でただ待っていてもダメな時代で、お坊さんやお寺が自ら発信することが大切かなと思っています。今回のH1法話グランプリでは自分たちで全部企画して、もちろんお坊さん以外の方にもご協力をいただきながらですけど、これだけの話題が生まれて良かったと思っているんです。
仏教や僧侶のあり方はひとつじゃない
― ―お二人がこれからのお坊さんのあり方に期待することは何ですか?
小池:そもそもお坊さんのあり方、つまり仏教の原点は「四苦八苦」といって、人生で避けては通れない苦しみに向き合う方法を伝えることだったはずなんです。それが仏事に特化してきたことで、お経を唱えたりお寺を守ったりすることがお坊さんの仕事とか、いろいろな固定観念が生まれた。そこに常に揺さぶりを掛けていって、本当にお坊さんとしてやるべきことは何かを考えることが大切ではないかと思います。
今のお寺はお寺を存続するためにお寺があるような、伽藍を維持していくためにどうしていくかという視点が強いと思うんです。でも、そうではなく人々にとって何が大事かという視点を突き詰めていけば、再びお寺という存在がそれぞれの地域でまた新たに輝き始めて、結果的にはお寺の護持につながっていくんじゃないかと思っています。仏教の教えが、私は今の多くの社会問題に即応できると信じて活動しています。
仏教というのは、人々の価値観をリセットするというか、固定観念を「本当にそうですか?」「それは本当に正しいことですか?」と問い掛けてくれるものだと思っているので。仏教の正しさは人それぞれ違うんですね。偏らないことが大事だと言われていて、極端から離れたものが正しいと考えるわけです。「これが正しい」と信じた時点で、それは偏りなんです。だから、ずっと問い続けて自分のバランスを保っていかなければいけない感覚は今の時代にすごく大切ではないかと。
引きこもりの人が増えてしまっていますが、それは社会的な雇用の問題とかセーフティネットの問題があるんでしょうけれども、一つの大きな要因として、他人の価値観に乗っかってしまう人が増えているんじゃないかと思っているんです。テレビやネットなどから大量の情報を受けることで、自分の正しさ、判断軸を持てなくなってしまう。常に人と比べて、私は価値のない人間だとか、悩まなくていいことに悩み続けてしまう。情報過多の社会の病理がそこにあるんじゃないかと。仏教は、そういうことに惑わされない生き方を説いているんです。だから、本当に今苦しんでいる人にとって意味のある教えではないかと思っています。
松本:住職というのは「住む職」と書いて、どこか一つのお寺を預かる立場なんですね。今でこそ、お坊さんを住職と言いますが、昔をさかのぼるともっといろいろな坊さんの在り方がありました。
私はお寺を持っておりません。フリーランス系僧侶というか、仏教に寄せると「遊行僧」と言っておりますけれども。遊行する人、「遊ぶ」に「行う」で遊行ですけど、一つのお寺に留まらずいろいろなところを回って念仏聖であったり勧進聖であったり、いろいろなタイプの聖(ひじり)と呼ばれる人たちもおりました。
もし、これからお坊さんになりたいという奇特な方がいらっしゃったら、それはすごく仏教にとっても大事なことだと思うんです。いろいろな人がいて活性化していきますし、そういう方が出入りしやすいよう、私は仏教界の働き方改革をこれからもっと進めていきたい。ひじりというのは「間の人」たちなんです。今は寺を持つか持たないか、本当にそっちの道で行くか行かないかというゼロイチが強いですけれども、間の幅をもうちょっと広げていきたいと思います。
今どき、パートタイムでやってもいいし2拠点生活、3拠点生活の中の一つにお寺を組み込んでいただいてもいいかもしれません。そんなふうにいろいろな幅をつくっていくこと自体が仏教の活性化にもつながると信じております。