EVENT | 2019/08/28

寛容なコミュニケーションの参考にしたい、渡辺一夫の思想と芸人の「花持たせ力」

最近、痛ましい事件・事故、SNSでの炎上が続いている。寛容よりも非寛容が幅を利かせているように見える。非寛容な人が増えた...

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最近、痛ましい事件・事故、SNSでの炎上が続いている。寛容よりも非寛容が幅を利かせているように見える。非寛容な人が増えたというより、SNSやネットニュースのコメントなどで、可視化される機会が増えたせいかもしれない。

一方で、身体的・精神的・社会的に健康な状態「ウェルビーイング」の重要性が叫ばれている。人はみな、うまくいくコミュニケーションを探していると思うが、非寛容が溢れていてはなかなかそれを達成するのは難しそうだ。

僕は、お笑い芸人の「花持たせ力」が寛容なコミュニケーションのヒントじゃないかと思っている。爆笑をとる技術を学ぶというわけじゃなくて、「今の場の主役が誰か?」を俯瞰して見て、自分にふさわしい役割を演じる力。それは一般人が穏やかに暮らすのにも参考になんじゃないか。

もう一つ、日本のフランス文学者・渡辺一夫が遺した寛容の思想も参考になる。渡辺の思想とお笑い芸人のスキルの良さをつなげて、寛容さをどう増やしていけるか、考えてみたい。

平田提

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Web編集者・ライター。秋田県生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。ベネッセコーポレーションなどを経て、現在はフリー。元Zing!編集長。
https://twitter.com/tonkatsu_fever
https://tog-gle.com/

寛容が寛容を生む。渡辺一夫の思想

渡辺一夫は中世フランス文学、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』研究で知られ、東大教授時代の教え子に大江健三郎清水徹がいる。

渡辺の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という、長いタイトルのエッセイを読み返した。

その中で渡辺は、非寛容に非寛容で対応した例として、ローマ社会と初期キリスト教の対立、キリスト教の宗教改革を挙げていく。アメリカの最高裁判所判事オリヴァー・ウェンデル・ホームズと、ロバート・ジャクソンという人たちの判決文に励まされた、とも書いている。

調べてみると、ロジカ・シュウィンマー(ロージカ・シュヴィンメル)はハンガリー人の平和主義者だったが、帰化の際、アメリカ国家への宣誓を拒否したことで裁判になったことがあったようだのようだ。バーネット事件というのも同様、宗教的理由からアメリカ国旗への敬礼を少女がしなかったというもの。

二人の判事は判決文で、相手の思想にも寛容にならなければ、自由そのものが成立しないことを同じく付け加えている。

“我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である”

(オリヴァー・ウェンデル・ホームズによる、ロジカ・シュウィンマー事件への判決文「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」渡辺一夫『渡辺一夫評論選 狂気について』大江健三郎・清水徹 編/岩波書店 209p)
“反対意見を強制的に抹殺しようとする者は、間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つこととなろう。強制的に意見を劃一化することは、墓場における意見一致を勝ちとることでしかない。しかも異った意見を持つことの自由は、些細なことについてのみであってはならない。それだけなら、それは自由の影でしかない。自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異った意見を持ち得るかいなかにかかっている。

(ロバート・ジャクソンによる、バーネット事件への判決文。同209p)”

「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」への渡辺の答えは、「不寛容になるべきではない」だ。それは前の例の教訓から「寛容が寛容を生む、不寛容が寛容を生むことはない」という考えから来ている。

家族を殺されても寛容であるべきか?

ただガンジーの非暴力主義的に、すべての非寛容に対して寛容でなければならないのだろうか?

シャルリー・エブド事件で妻を失ったアントワヌ・レリスさんは「私はあなたたちに憎しみという贈り物をしない」とFacebookに投稿した。

(ドミニク・チェンさんによる訳:“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”)

憎しみを抱くのはテロリストの思う壺だ、妻の死は当然悲しむが、憎しみよりも今は息子を愛することに神経を注ぐ。レリスさんのその言葉には敬意を抱きつつも、この境地に達するのは難しいなと思ってしまう。自分がもし妻子を殺されたら、復習の鬼と化すんじゃないか。このような殺人、テロなど直接的な非寛容に対しては正直、当人の心持ちではいかんともしがたいところがある。だからこそ警察や司法があるのだろうし、どちらかと言うと直接的な行為に至る前の、思想、感情の処理、発言・振る舞いの部分でこそ渡辺一夫の寛容の思想は生きるのではないか。

「その場の主語」を考える

振る舞いの話で言うと、ある友人から“「その場の主語」を考えたらコミュニケーションがうまくいった”という話を聞いた。

例えば上司が部下を集めて「意見が欲しい」と会議をするとする。ところが上司の進行はぐだぐだ。口を挟みたい。「そもそもこの課題設定は違うんじゃないの」とか言いたい。でも意見は受け入れられない。そこでイラッとせず「この場の主語が誰か」を考えてみる。主催者は上司だから、その場の一人称視点「I」は上司だ。自分にとっての上司「He」がこの場の主語である。逆に、上司にとっての自分は「He」「She」などになる。だから、その場の自分の主語に合わせて、提言してみる。そう捉えるようになって、友人は仕事がやりやすくなったらしい。僕にもこの考え方はしっくり来た。

この場合、どちらが非寛容かは捉え方次第だ。自分からすれば意見を受け入れない上司が非寛容に見えるし、逆に上司からすると意見してさえぎった自分が非寛容かもしれない。

この例から考えると、寛容と非寛容はこう分けられるんじゃないか。

・寛容
主語:他者

・非寛容
主語:自己

寛容は他者を主語に持ち、多様性と拡散を促す。非寛容は自分を主語として、自分側の一つの結論に収束しがちになる。

シャルリー・エブド事件を始め宗教対立の例はまさに後者だ。渡辺一夫が挙げた二人のアメリカ最高裁判事の判決文は、前者だろう。

芸人の「誰かに花を持たせる」力

映画や演劇、お笑いバラエティの場に例えると、誰が主役かを俯瞰で考えること。お笑い芸人はそれがうまい。発言したくても、文脈的に他の芸人が出た方が良ければ、いったん自分は引く。誰かに花を持たせる。そうすると結果的に場がよくなる。そのあと良いタイミングで別の発言をした方が、自分的にも「おいしい」。

主張をしちゃいけないわけじゃない。花を人に持たせ続けては言いたいことが言えない。ただ、自分の経験からも、場が暖まってからの方が発言が通りやすいことはよくあった。自分の寛容な態度からスタートすると、非寛容に対しても少し引いて見られるんじゃないだろうか。

ブレインストーミングの考え方の一つに「誰の意見でもいい」というのがある。そのコミュニケーションは何のためにやっているのか? 自分の意見が期待されている場なら当然、言うことを言うべきだ。でも、みんなで作り上げていく場だったら、全体として良い答えが出るような役回りを演じたい。たとえ発言が少なかったとしても、その人がその場でその役割を演じる、関わり方にこそ価値がある。それが「あの人がいると意見が出やすい」「場がなごむ」といった評価に自然とつながるんじゃないかと思う。

相手とのつながりから表現を始める

あとは話し方、場の文脈、声色など、伝え方も大事だ。「ほんとバカだな」というセリフも、言い方次第で愛情を感じさせることもできれば、相手を深く傷つけることにもなる。

山田ズーニーさんの『あなたの話はなぜ「通じない」のか』にも、表現は共感からスタートべき、とあった。表現は武器ではなく、相手と結ぶ橋と考える。橋は自分ひとりではかけられない。相手側と自分側に結ぶんだから、相手の理解がまず必要だ。

そのためには相手とつながっているところから表現を始めること。『WIRED』日本版の「ウェルビーイング」特集(2019 VOL.32)でドミニク・チェンさんが、さまざまな調査結果を元に「日本や中国では幸福な状態は自分の能力よりも幸運によってもたらされる」と書かれていた。自分という独立した個に「幸福な状態」は属すのでなく、自分と他者とのベン図が重なった部分にこそ幸せは存在する。それは自己や他者とのつながり故に存在するという仏教の「縁起」にも通ずる。自分と他者との結節点こそがコミュニケーションのポイントであり、ウェルビーイングに至る始まりなのではないだろうか。

自分の「演技プラン」「芸風」を練り直していく

社会心理学者・ゴッフマンのドラマツルギー・アプローチ理論によれば、人は無意識に社会の舞台表で一定の役割を演じている。また個人の振る舞いは他者・観衆の前で演じられるミニドラマである、とされる。一方、舞台裏は個人が一人でいる状態を指す。

SNSで炎上が起こりやすいのは、本当は舞台表であるSNSで舞台裏の振る舞いをしてしまうからなのかもしれない。それが良いかどうかは別として、オンラインでもオフラインでも、今は誰かに常に観られている状況がある。つまり観客がいる。とすると、僕らはいやいやでも演じることを期待されている。

現実には台本もないし、即興劇をやろうという合意もない。芸人ではない僕らにも大事なのは、「今、花を持つべきは誰か?」を俯瞰する習慣。

そして多種多様な考えと振る舞いをする人に出会い、対話を繰り返すこと。そこで上手くやれるかどうか。前に上手くいったコミュニケーションが通じなかったら「演技プラン」「芸風」を練り直していく。そのトライアンドエラーは、誰もが無意識にやっていることだと思う。その試行錯誤に自覚的になってみる。

非寛容に対し、反射的にリプライすると、恐らく感情的な反応になる。それに対する返しも感情的になる。意識的に深呼吸するように、日常的に自分の行動に「一時停止ボタン」を押す感覚が大事なんじゃないだろうか。そこから目の前で起こるドラマを眺めて、出るか引くかを考えられるようになれば、まずあなたが寛容さを場に提供できたことになる。オンラインでもオフラインでも、それが良いコミュニケーションを生む一歩になると信じている。