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矢野利裕
批評家/ライター/DJ
1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。
国語でも批判や懸念が噴出する新学習指導要領
2018年の新学習指導要領公示以来、教育問題をめぐる議論が活発化しています。かなり大きな変化が求められる国語教育においても、当然のことながら、さまざまな議論が噴出しています。国語教育における新学習指導要領および大学入学共通テストの問題点を整理した基本文献としては、いまのところ、紅野謙介『国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領』(ちくま新書)が参考になります。
現代的な教育問題については、『現代思想』(青土社)2019年5月の特集「教育は変わるのか」においてもさまざまな側面から論じられており、国語教育についても、先の紅野謙介氏(文学者/文化研究)をはじめ、日比嘉高氏(文学者/文化研究)、阿部公彦氏(文学者/評論家)、五味渕典嗣氏(文学者/文化研究)が専門的な立場から取り上げています。また、『すばる』2019年7月号においても「教育が変わる 教育を変える」という特集が組まれており、国語教育をめぐっては、伊藤氏貴氏が内田樹、小川洋子、茂木健一郎の各氏にインタビューをおこなっています。
よく聞かれる批判箇所としては、高校で必修科目の「国語総合」が「現代の国語」と「言語文化」に分割、また選択科目の「現代文A・B」「古典A・B」「国語表現」が、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に再編成され、あわせて2021年1月からセンター試験に代わって実施される「大学入学共通テスト」では新たに「資料読解」の問題が1問追加され、2017~18年に公開されたモデル問題やプレテストでは、駐車場の利用規約を読み解く問題や、著作権法の条文を読み解く問題などが出題されたことにより、「契約書が読めさえすれば、論理的思考が身についていると言えるのか」「現代文(評論文)ばかりが重視され、古典や近現代の文学作品を教える時間がさらに削られてしまうのではないか」といった批判や懸念が示されています。
「「大学入学共通テスト(仮称)」記述式問題のモデル問題例」のモデル問題例2として掲載されている、駐車場の利用規約を読み解く問題
このように現在、来るべき国語教育のありかたについて、議論が始まっているところだと言えます。ただ、本記事では、現時点ではあまり議論に上がっていないように思える国語教育をめぐる問題について考えたいと思います。それは、言うなれば、「ポリティカル・コレクトネス以降の国語教育」とでも言うべき問題です。いちおう立場をあきらかにしておくと、筆者の肩書きは「批評家・ライター・DJ」ですが、一方で都内私立の中高一貫校で国語を教える教員でもあります。
「寛容・多様性」と「道徳・愛国心」がせめぎ合う総則
さて、新学習指導要領において個人的に印象的だったのは、例えば「あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え(…)」(前文)というように、〈寛容〉や〈多様性〉の発想がそれなりに強調されていることです。グローバル化が進んだ現代に教育の領域がいかに対応していくか、というのは、日本の教育界でずっと課題になっていますが(OECD生徒の学習到達度調査(PISA学力調査)を根拠とした読解力低下をめぐる議論も、基本的にはこの文脈から出てきたものです)、そのなかで国連人権理事会的な価値観が盛り込まれた感があります。したがって新学習指導要領は、文言上においては、ベタに排外主義的と言うことはできないでしょう。だとすれば、例えば、日比嘉高氏の新学習指導要領に対する「非常に排他的で同化主義的な規律訓練の仕組みとなってしまう」(「高校国語科の曲がり角」『現代思想』)という批判には、少し違和感を覚えます。新学習指導要領は一方で、「排他的で同化主義的な規律訓練」とならないような目配せのほうが印象に残るからです。
もちろん日比氏も指摘しているように、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国の郷土を愛する」というきな臭い文言も、「前文」および「道徳教育」に言及した部分に並んでいます。道徳の教科化についても、引き続き批判的な検討がなされるべきでしょう。「日本人」を主語にした物言いも気になります。だから、教育現場が排外主義的な場所にならないよう、リベラルな立場からウォッチすることは必須だと思います。
とは言え、新学習指導要領全体の論調としては、〈多様性〉という概念が強調されていることもまた事実です。くり返しますが、それは、国連人権理事会的な価値観の反映だと思われます。そのことを強く感じるのは、「生徒の発達の支援」(「総則」)における「特別な配慮を必要とする生徒の指導」の項目においてです。ここでは、次のことが言われています。
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ア 障害のある生徒などについては、特別支援学校等の助言又は援助を活用しつつ、個々の生徒の障害の状態等に応じた指導内容や指導方法の工夫を組織的かつ計画的に行うものとする。
いわゆる「合理的配慮」の教育現場への適用です。この点に限って言えば、新学習指導要領がリベラルな価値観を取り込んだ、と指摘することが可能です。実際、筆者は昨年、教員免許更新のために「教育の最新事情」という講義を受講しましたが、その講義では、新学習指導要領が2016年に施行された障害者差別解消法および、それにともなう「合理的配慮」を反映している、ということが明確に言われていました。排外主義的な側面を批判される新学習指導要領は一方で、グローバル社会に対応するかたちで、国連の障害者権利条約に対しても目配せをおこなっているのです。
文学作品の読解授業が「ポリコレ的にアウト」になる?
以上の前提を確認したうえで、あらためて国語教育について考えてみます。冒頭でも書いたように、新学習指導要領と新大学入試によってもたらされるだろう国語教育の変化については、すでにいくつかの議論が起こっています。そのなかで今回注目したいのは、『現代思想』の特集で言えば、阿部公彦「「読解力が危機だ!」論が迷走するのはなぜか?」にもある、次のような主張です。
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⑤で問題にしたのは、「ニュアンスや効果の読み取り、メタレベルの視点の獲得、文脈の読み取り」などです。おそらくこれまでの国語でもっとも重視されてきたのはこの部分でしょうし、これからもそうでしょう。また、そうあるべきだと私は考えます。
新学習指導要領が「文学」を軽視しているとする阿部氏は、「小説など虚構作品と接することで一番鍛えられるのは、文脈を推し量る能力です」「文学作品を読むという行為には、この文脈構成の作業が暗黙のうちに組み込まれています」と述べたうえで、「文脈把握の力」を養うためにこそ国語教育で「文学作品を読む」ことが必要だ、という主張をします。具体的には、「アイロニーと否定の読み取り」が例に挙げられます。説得力のある主張だと思います。
しかし、実はここに厄介な問題があります。というのも、「教育の最新事情」の講義によれば、行間を読んだり文脈を把握したりする従来型の国語教育は、発達障害をもった生徒(とくに、自閉症傾向のある生徒)に対して過剰負担だ、という議論があるからです。自閉症傾向のある人は、言葉を字義通りに受け取ってしまうため、文脈を把握しながら言外の意を汲み取ることや行間を読むことが苦手です(具体的には、アイロニーの読み取りが困難である傾向があります)。だから自閉症傾向にある生徒は、従来的な国語教育が定型発達の生徒に比べて過剰負担になる、というのです。
つまり、こういうことです――文学作品を読んで「文脈把握の力」を養う授業は、「合理的配慮」に反する。文学作品を読んで文脈を推し量る授業は、ポリティカル・コレクトネス的にアウトである。
個人的には、従来の国語教育を全面的に覆すような驚くべき発想です。まだあまり議論になっていませんが、このような方針が出され始めているようです(ちょっとまだ出どころがはっきりしないのですが)。だとすれば、話題の「論理国語」や「現代の国語」の導入は、自閉症傾向にある生徒に対する「合理的配慮」という側面を含んでいる可能性があります。したがって法律の条文や契約書の読み方などを教える「論理国語」的な方向性は、ポリティカル・コレクトネス時代の国語教育と言えるかもしれません。もちろん、発達障害生徒への配慮を含んだ国語教育のかたちが「論理国語」的な方向性しかないかと言えば、そんなことはないでしょう。しかし、「文学」読解の軽視の背景に発達障害生徒に対する配慮という文脈が入り込んでいる、ということは知っておいていいことかもしれません。とりわけ、リベラル的な立場で、教育が新自由主義的な波に飲み込まれることに批判的であるような論者(筆者も基本的にはこの立場です)は、このことをどう考えるべきか。他ならぬ筆者自身、「文学」の読解に可能性を感じつつも、過去に発達障害傾向にある生徒に対して試行錯誤した経験がなくはないので、なおさらです。
新学習指導要領は、ベタなナショナリズム、新自由主義、リベラルなどさまざまな立場が複雑に入り組んでいる印象を受けます。あまり批判相手を低く見積もらないほうが良いかもしれません。求められることは、それらが絡み合う地点を批判的に問うことでしょう。