15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在はアジア最大の「ONE」を主戦場とし、ライト級の最前線で活躍。さらに単なる格闘家としての枠を超え、自ら会社を立ち上げるなど独自の活動を行う。
そんな青木は、自らの人生を「物語」としてコンテンツ化していると明かす。その真相はいかに? 唯一無二の価値観を貫く異能の格闘家の連載がFINDERSでついに始まる。
聞き手:米田智彦 構成:友清哲 写真:有高唯之
青木真也
総合格闘家
1983年5月9日生まれ。静岡県出身。小学生の頃から柔道を始め、2002年に全日本ジュニア強化選手に選抜される。早稲田大学在学中に、柔道から総合格闘技に転身。「修斗」ミドル級世界王座を獲得。大学卒業後に静岡県警に就職するが、二カ月で退職して再び総合格闘家へ。「DREAM」「ONE FC」の2団体で世界ライト級王者に輝く。著書に『空気を読んではいけない』(幻冬舎)、『ストロング本能 人生を後悔しない「自分だけのものさし」』(KADOKAWA)がある。
僕はドーピングはやらない
ファイターはなぜ戦うのか。これにはもちろん、人それぞれ異なる答えがあるに違いない。純粋にチャンピオンを目指す人もいれば、有名になってお金を稼ぎたいという人もいるだろう。
ただ、願わくば戦うこと自体を目的とするのではなく、あくまで目指す未来に近づくための“手段”であってほしいと僕は考えている。
仮に、豊かな人生を送ることを目的とするのであれば、格闘技に打ち込み、一定の成果を得て最後は笑って死ねるなら、それは1つの理想形だろう。ところがこの世界、手段を目的と履き違えてしまう選手は非常に多い。
戦うこと自体が目的化してしまうと、勝敗に過剰なこだわりが生じ、時にはズルをしてでも勝利を手繰り寄せたくなるものだ。ドーピング違反などはその際たるものだろう。もし、禁止薬物を打って体を大きくして勝利を得たとしても、それが豊かな人生につながるとは僕には到底思えない。
戦うことが豊かな人生を送るための手段であれば、そうして道を踏み外すことはないはずだ。試合までのプロセスで納得のいくトレーニングが積めていれば、たとえ負けてしまったとしても、いくらかの充足感はあるはずだ。少なくとも僕は、ドーピングをしてまで勝ちたいと思ったことは一度もない。
これがもし、社会主義の独裁国家に生まれ、格闘技で結果を出すことで貧困から抜け出せるというのであれば、まだわかる。しかし、この国で豊かな人生を求めて、その手段に格闘技を選んだのであれば、プロセスでズルをするのはむしろ逆効果でしかないだろう。
自分が本当に欲しているものは何か
もちろん、ファイトマネーは多くもらえるに越したことはない。でも、お金では譲れないものだってあるはずだ。例えば元UFC世界二階級王者のコナー・マクレガーが100億円単位のファイトマネーを稼いだと聞けば、それが凄い数字であることは理解しつつも、僕は羨ましいとまでは思わない。
実はこうしたお金に関する考え方については、僕はたびたび父親と衝突してきた。高度成長期を経験している父の世代からすると、物理的な豊かさはあればあるほどいいし、右肩上がりの成長を目指すのが当たり前。そこへ、有る種のミニマリスト的な思考を提示してみたところで、理解されないのはやむを得ないのかもしれない。議論は常に平行線だ。
僕にとって、格闘技を通して求めるものは金では決してない。最近でこそ、「少なくとも、そういう考え方のヤツがいることだけはわかってきたよ」と父は言うが、本質的な部分ではまだまだ理解されていないだろう。30代の僕と60代の父の間には、この点で超えられないギャップがある。
突き詰めて言えば、自分が本当に欲しているものを把握していないことほどダサいことはないと僕は思っている。
お金が欲しくて戦っているのか? それとも、ベルトが欲しくて戦っているのか? 僕の場合はいずれでもなく、ベルトを取るまでのプロセスを頑張れたかどうかが重要であり、そこで得た経験こそに価値がある。
極論すれば、ベルトやトロフィーの類いはリング上だけの見世物で構わないから、持って帰らず使いまわしてくれればそれでいい。いっそのこと、画像データなどで付与してもらうようにすれば、持ち運びも楽だし環境にも優しいと思うのだがどうだろうか。
格闘技は権威に対するカウンターカルチャー
僕にとって格闘技の一番の醍醐味は、自分の名前で好きなことをやって生きていける点にある。それを心の拠り所に、日々、納得のいくトレーニングを積んでいる。だからこそ、権威にすがるようになってはいけない。
先日、ボクシングの元世界チャンピオンの方とお会いする機会があった。いただいた名刺には、チャンピオンの肩書きと現役当時の写真、さらには最近出演した番組、取り上げられたメディアがこれでもかというほど列記されていた。
これは哀しく滑稽な現実だった。自己主張をするのは悪いことではないし、彼なりにセカンドライフを生き抜くために必死であるのは理解できる。しかし、これほどまでに過去の栄光にすがって生きていかねばならないのかと、しばし呆然とさせられたのも事実である。
そもそもベルトやチャンピオンの地位というのは、団体という赤の他人が決めた権威に過ぎないものだ。格闘技とは本来、そうした権威に対するカウンターカルチャーであると僕は思っている。勝敗やベルトはスパイスに過ぎず、活動を通して喜怒哀楽をつくっていくのはあくまで自分であるべきだろう。
勝敗に対する2つの視点
こう語っていると誤解されるかもしれないが、僕だって勝利を目指して戦う者の1人だ。勝てば人並み以上に嬉しいし、喜びを爆発させもする。逆に負ければ悔しくてたまらない。
ただし、そうした勝敗というのは、あくまで“その場”の結果に過ぎないものだ。リングを離れ、もう一段階上のレイヤーで見た時、勝敗よりも大きな意味を持つことがたくさんある。
だから僕は、試合にあたって2つの視点を持つようにしている。1つは、負けたことで「畜生!」「悔しい!」という素直な視点。そしてもう1つは、「それはそれとして……」という、俯瞰的に結果を立ち返る視点だ。
わかりやすく言えば、敗れたことで悔しさのあまり泣き崩れた試合があった場合、数年後にそれを振り返って、「泣くほど悔しい思いをするほど集中できたあの試合は、いい経験だったよね」と思えることの方が大切ではないだろうか。そこまで感情を揺さぶられるほど1つの試合に熱中できたことは、体験として何よりも尊い。この場合、本当に重要なのは勝敗ではないはずだ。
結果がすべて。オール・オア・ナッシング。そうした考え方は、あくまで試合というその場限りの話であり、人生の豊かさに必ずしも直結しているとは限らない。これが前者の視点のみでは、とても心が持たないだろう。
考えてみれば、目的がまだまだ先にある状態というのは幸せなことだ。なかには10代の若さで金メダルなどの結果にたどり着いてしまうアスリートもいるが、いきなり高いレベルからスタートを切ると、あとは落ちていくだけにもなりかねない。
その意味で、欲しているものに手が届きそうで届かない状態こそが、一番幸福なのだろう。
高校時代の絶望から生まれた人生訓
振り返ってみれば、僕は高校生のときに大きな絶望を味わっている。3年生で出場したインターハイで、僕は出場前から自分は日本一になれると信じて疑っていなかった。それくらいの実力はあるつもりだし、また、そのための努力も十分に積み重ねてきた自負があった。
ところが、蓋を開けてみればベスト16止まり。それも、微妙なジャッジで反則をとられたことが影響し、僅差の敗退を喫してしまうという、悔しさの募る結末だった。
優勝して当然と思い込んでいた若かりし僕にとり、これはあまりにも手痛い敗戦だった。予想外の結果に激しく落ち込み、「もう俺の人生は終わった」と視界が真っ暗になったものだ。
でも、これも今となってはいい経験。むしろ、あの悔しさや悲しさが、その後の成長過程において必要なスパイスだったのは間違いない。今こうして、勝敗だけがすべてではないと心から思えるのも、あの絶望があればこそだろう。
成功の定義は人それぞれで構わない。ただし、自分が本当に欲しているものは何か、そしてそこへ向けた努力の方向性は正しいのかどうか、今一度立ち返ってみてほしい。それにより、目標へ向けた道筋が、これまでと少し違ったものになるかもしれない。