15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在はアジア最大の「ONE」を主戦場とし、ライト級の最前線で活躍。さらに単なる格闘家としての枠を超え、自ら会社を立ち上げるなど独自の活動を行う。
そんな青木は、自らの人生を「物語」としてコンテンツ化していると明かす。その真相はいかに? 唯一無二の価値観を貫く異能の格闘家の連載がFINDERSでついに始まる。
目的から導き出す「逆算」の思考法【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(1)
聞き手:米田智彦 構成:友清哲 写真:有高唯之
青木真也
総合格闘家
1983年5月9日生まれ。静岡県出身。小学生の頃から柔道を始め、2002年に全日本ジュニア強化選手に選抜される。早稲田大学在学中に、柔道から総合格闘技に転身。「修斗」ミドル級世界王座を獲得。大学卒業後に静岡県警に就職するが、二カ月で退職して再び総合格闘家へ。「DREAM」「ONE FC」の2団体で世界ライト級王者に輝く。著書に『空気を読んではいけない』(幻冬舎)、『ストロング本能 人生を後悔しない「自分だけのものさし」』(KADOKAWA)がある。
「孤独」を感じるのは豊かさの証し
人間は社会性を持つ生き物だから、1人で生きていくことはできない。どれほど1人の時間を大切にしている人であっても、ライフラインの中にいなければ生活は立ち行かないし、自給自足をするにしても、完全にコミュニティから独立して生きていくのは困難だ。
しかし、最近はそうした社会性が行き過ぎているように感じられてならない。昨今の情報化社会やSNSの発達に端を発し、人が過剰に孤独を恐れるようになっているように見えるからだ。
常に誰かとつながっていたい。組織やコミュニティの中で嫌われたくない。それは人として当然の感情なのかもしれない。
でも、孤独を感じることができるというのは、実は非常に裕福な状況なのだと僕は思う。なぜなら、まだ文明を持つ前の、狩猟や農耕で生活の糧を得ていた時代であれば、群れからはぐれることは「孤独」ではなく、「生命の危機」を意味していたからだ。
1人になれば、食い扶持の確保もままならず、猛獣などの脅威に対抗することもできない。とてもじゃないが「寂しい」などと言っている場合ではなく、精神的に孤独を余裕もない。孤独とはすなわち、死に直結する一大事だったのだ。
ところが、現代社会では群れから離れても、まず衣食住に困ることはない。だからこそ、何らかの形で他人と関わり合ってはいても、孤独を感じる状態に置かれる機会が増えた。その意味で孤独とは、文明が生んだ近代的な問題と言っていいのだろう。
強烈な同調圧力が最善策を見失わせている
日本は同調圧力の強い社会である。ルールとして明文化されていなくても、コミュニティの一員である以上、「こうしなければいけない」、「これをやってはいけない」といった暗黙の決め事は多い。
他人の価値観を押し付けられることに違和感を覚えながらも、それに流されなければならない状況というのが、誰しもあるだろう。もちろん、他者への気遣いは社会人として当然のマナーであるし、日本人特有の美徳でもある。だからこそ、線引きを誤ってはいけないと僕は思っている。
僕がそれを強く感じるようになったのは、2011年3月11日の東日本大震災がきっかけだった。
この未曾有の災害が、東北地方に甚大な被害をもたらしたのは紛れもない事実だ。しかし、災害発生からしばらく、全国規模で行き過ぎた自粛ムードが蔓延したことは、誰しも記憶に新しいところだろう。
不謹慎だから花見を自粛しよう。イベントを中止して、被災地のために皆で募金活動をしよう。当時、そうした声があがるたびに、僕は大きな疑問とストレスに苛まれた。
格闘家として本当に自分がやるべきことは、募金箱を持ってお金を集めてまわることよりも、いいコンディションをつくって試合をこなし、経済を回すことなのではないのか。経済的に見てもそれは、募金をいくらか集めて送るより、大きな効果を生むことだってあるだろう。
当時、僕と同じ考えを持つ人が、きっと他にも大勢いたに違いない。でも、どれほど異論を感じていても、自粛ムードに流されざるを得ない。なぜなら、迂闊な行動をとれば、途端にコミュニティからつまはじきにされてしまうことがわかっているからだ。
その意味で、同調圧力とは人から選択肢を奪う危険なものだ。おかげで頭の中にある本当の最善策を捨てなければならないことも多々あるはずで、それは人生にとってマイナスでしかない。
人の価値観を押し付けられ、それに従って生きることに、一体何の意味があるのか。流されるままに身を任せていて、結果的に損をするようなケースは枚挙にいとまがないはずだ。
正解はいろんなところに点在している
多くの人は、孤独を恐れるあまり、同調圧力に抗うことができずにいる。おかげで時に、自分の意図に沿わない行動を取らなければならず、結果として大きなストレスを抱え込むことになる。現代社会に心を病む人が多いのはそのためだ。
そんな生き方に意味はない。人はもっと自分の頭で考えるべきだと強く思う。
たとえば学校の先生の教えにしても、何でもかんでも鵜呑みにすればいいというものではない。世の中のすべての指導者が必ずしも優秀で有能かといえば、決してそんなことはないからだ。
実際、僕が中学時代に所属していた柔道部の先生は、僕より柔道に精通しているとはとても思えない人だった。なぜなら当時の僕は四六時中、柔道の本を読み漁って勉強していたし、さまざまな練習法を試してもいた。おかげで先生にはない知見が頭の中にたくさんあった。
「先生」と呼ばれる立場の人を、無条件に信じるのは間違いだ。そもそも何事においても、唯一無二の正解など存在しないと思った方がいい。たとえば、柔道で強くなるための方法は1つではないはずだし、人によって向き不向きもあるだろう。それは成績を上げる方法、給料をより多く稼ぐ方法、幸せになる方法、すべてに共通して言えることであるはずだ。
正解は1つではなく、いろんなところに点在しているものなのだと僕は思っている。そして今のネット社会では、あちこちに点在する正解を拾い集めるのは容易いことだ。だからこそ、自分の頭で考えながら情報を取捨選択しなければならない。ただ闇雲に群れの中に迎合し、同調圧力に従って生きていく人生に、意味などない。
自分の中に確かな物差しを持っているか?
それでも昨今ではダイバーシティ、多様性といった言葉が頻繁に使われるようになり、少しずつ世の中は寛容になりつつあるのかもしれない。個人的にも、さまざまな思想や生き方を肯定する社会の方が生きやすいと感じているし、何より豊かだ。
しかしその反面、まだまだやり直しがきかない社会であるのも事実。芸能人の不倫や薬物問題を見ていても、再起はたいてい茨の道だ。
でも、1つの能力が突出している代わりに何かが欠落しているというのは、本来個性であるはず。もちろん、犯罪を助長するようなことがあってはならないが、過去の失敗をいつまでも枷として引きづらなければならない社会は、やっぱり豊かではないと僕は思うのだ。
これはおそらく、僕自身がこれまでさんざんアンチファンから叩かれてきたから感じることなのだろう。たびたび強気で生意気なメッセージを発してきた僕は、もはや炎上にも慣れっこだが、いつも思うのは叩く側に何の矜持も感じられないということだ。
なぜなら彼らは「叩く」こと自体が目的で、他人の落ち度や失敗はそのための口実に過ぎないことが透けてみるからだ。ミスを犯した人間をどこまでも叩き落とし、その後は知らんぷり。おかげで今の日本社会は、カムバックの機会に乏しい“窮屈な群れ”になってしまっている。
でも、考えてみてほしい。それは本当にいつまでも糾弾されるべきミスなのか。そもそも、それは本当にダメなことなのか。もしかすると、過去の前例に倣って毛嫌いしているだけで、相手には何の落ち度もないかもしれない。
自分の中に物差しを持たず、周囲の同調圧力に合わせてものを言うのは、ともすればお役所仕事に近い粗末なものだ。
一度、自分の頭の中だけでも、群れから離れてみてほしい。そして、本当は自分がどう思っているのか、どうしたいのかを考えてほしい。自分なりの明確な物差しを持つこと。それは僕が今日まで戦い続ける中で、常に意識してきたことだ。