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CULTURE | 2019/12/09

サル・ゴリラ研究の第一人者・京都大学総長が語る、人の本質とこれからの進化【連載】鼎談・The Nature(3)

IT技術が加速度的に進化するにつれ、人は自然から遠ざかり、身体性が失われていく。
そんな時代を背景に、毎回さまざまなゲ...

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IT技術が加速度的に進化するにつれ、人は自然から遠ざかり、身体性が失われていく。

そんな時代を背景に、毎回さまざまなゲストをお迎えし、今の時代に失われがちな「自然」や「身体性」について、ゲストと共に、登山アプリ「YAMAP」を手がけるヤマップ代表取締役の春山慶彦氏とFINDERS編集長の米田智彦が語る連載「鼎談・The Nature」

第3回目のゲストには、人類学者・霊長類学者でゴリラ研究のパイオニアとして知られる、京都大学総長の山極寿一氏をお迎えした。

これまでアフリカをはじめとする国内外でゴリラなどのさまざま霊長類と対峙し、追究してきた山極氏が思う、人の根源、そして身体性とは?

取材・文・構成:庄司真美 写真:織田桂子 協力:京都大学

山極寿一

京都大学総長・人類学者・霊長類学者

1952年東京都生まれ。京都大学理学部を卒業後、京都大学大学院理学研究科博士課程退学。理学博士。人類進化論を専攻し、ゴリラを主たる研究対象として人類の起源を探るゴリラ研究の第一人者。カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授を経て、2014年10月より京都大学総長に就任。河合隼雄学芸賞選考委員。

たった1人自然に身を置くことで、五感をフル稼動させる重要性

人類学者・霊長類学者で、ゴリラ研究のパイオニアである、京都大学総長の山極寿一氏。

米田:今回、春山さんが山極総長にぜひお話を伺いたいと思った理由はどこにありましたか?

春山:日本の登山者数は人口の1割にも満たないのですが、これだけ自然が豊かな風土に暮らしていながら、一部の限られた人しか登山の楽しさを知らない状況はもったいないと思っています。都市部ではジムで身体を鍛える人は多いですが、「今日はちょっと山を散策してみるか」というふうに、生活と自然、山と都市の垣根がもっと低くなればいいなというのが僕の理想です。そのための取り組みを今後もっと増やして、登山を単なるレジャーとしてではなく、人や文化にとって大事な営みとして発信したいという思いがあります。

僕自身、学生時代を京都で過ごし、大学というよりも京都の街から多くのことを教わりました。日本の霊長類研究のパイオニアで、登山家でもある京都大学の今西錦司先生の本に感銘を受けましたし、京大演習林の芦生や比良山系の武奈ヶ岳にもよく通いました。霊長類研究を通じて国内外のさまざまな自然やジャングルを知る、山極総長にぜひお話を伺いたいと思い、この場をご用意いただきました。

左:株式会社ヤマップ 代表取締役春山慶彦氏。右:FINDERS編集長・米田智彦。

山極:私の師匠の伊谷純一郎さんは登山家ではありませんでしたが、フィールド・サイエンティストとして私の非常に尊敬する人です。伊谷さんは今西錦司先生の弟子で、今西先生が用いる極地法を嫌って単独行に近いフィールド調査法を好んでいました。伊谷さんは自然を肌で感じることが自然を理解することにつながるという考えでした。困難な道を仲間と団結して乗り越えて頂点を極める方法ではなく、そのプロセスを大事にしていました。

特に僕らは人間の五感に似た感覚を持つサルやゴリラなどの類人猿を研究対象としているから、自然の中に自分の身体を預けて、自然の肌触りを自分の五感で感じて動物の身になって、いかに彼らが自然を感じているかということを、自ら体験することが重要だと考えたわけです。僕は伊谷さんに共感する部分があって、基本的に単独行をスタイルとしています。

米田:1 人で森に入るのですか?

山極:ゴリラの研究で森に行く時も、基本的にはガイドを付けずに1人、多くても2〜3人です。これは伊谷さんが確立した方法で、伊谷さんは誰も人が住んでいないアフリカの原野で2週間、銃のほか、15kgのサブザックを背負い、2人のポーターは20〜30kgの荷物を背負って踏破するスタイルです。途中、狩猟もするので基本的に食料は現地調達です。

特に日本の山を歩くときは、1人をお勧めします。というのも、自然を全身で感じられるからです。仲間といるとどうしても言葉が邪魔になるし、仲間を頼ってしまう。それでは人間の世界を抜け出すことができません

1人で歩いていると五感が働いていろんな声が聞こえてくるのですが、実は視覚をたくさん使っていて、視覚優位の世界に住んでいると言ってもいいでしょう。人とサルは視覚的優位の世界を共有していて、サルは木に登って視覚に映るもので世界を解釈しています。

アフリカで靴を履かない人たちと一緒に森を歩いていたからよく分かるのですが、人間の足の裏というのは地面のでこぼこや地面にいるさまざまな生き物を感じるようにできています。ところが、靴を履いた途端にそれが感じられなくなってしまう。

服も自然から人間を遠ざけるもののひとつです。だから僕は、なるべくアフリカの森を歩くときは半袖で歩くことにしています。虫からの防御が必要な場合もありますが、僕はむしろ自然に慣れる方に身体を持っていくようにしています。

米田:身体を自然になじませていくわけですね。

山極: そうですね。すると、自分の存在に対して自然がどんな関心を持って近づいてくるかが分かるのです。ジャングルの中で調査していると、たくさんのあらゆる命が蠢いている中に私がいて、それは目だけでは確かめられません。匂いや肌で感じたり、音が聞こえてきたり。昼と夜の世界では、登場する動物も違ってきます。そういうものを身体で感じると、意識に上らなくても身体は緊張します。あるいは、ほかの命と調和しようとして動いている。そういう感覚が好きなんです。

今西さんもよく言われたことですが、重要なのは、頭で考えるのではなく感じること。人間は生き物だから、「感じる」ところから出発しないと、まともに考えることができません。でも、現代社会では自然と身体がかけ離れているから、まずは頭で考えて、それから頭で考えているように感じる、というふうに身体を変更させているのです。

米田:逆転しているわけですね。

山極:はい。それゆえに人間の思いどおりに自然を改変しようとしたり、自然に逆らおうとしたりする風潮が出てきた。それが、究極的には地球を壊す方向に向かっているんだと思います。

人が直立二足歩行を始め、最初にできるようになったのはダンス?

春山:鷲田清一さんとの共著『都市と野生の思考』には、人類の直立二足歩行について書かれていますが、僕も人類の偉大な発明のひとつは、直立二足歩行だと思っています。直立二足歩行のおかげで、他者との同調性を身体で表現できるようになったと書かれていたのが印象的でした。

山極:二足歩行によって、人はいろんな表現が可能になりました。言葉以前にボディランゲージがあって、自分という存在を離れて何か別のものになることで、世界を表現できるようになったと思っています。

ゴリラは胸を叩くし、チンパンジーは足を踏み鳴らすし、声も出せる。だけど、それだけでなく身体表現によってダンスを踊ることができるようになったのです。二足歩行の根源は歩くことではなく、ダンスなのではないかと僕は思っています。

米田:二足歩行の効用としてダンスが先にあったなんて、興味深いですね。

山極:つまり、それが同調なんです。仲間と一緒に同じ動きをしながら仲間を挑発するなど、お互いに心をひとつにするための身体の表現が多様になり巧みになったことが、二足歩行の効用のひとつだったのではないかと思います。

サルは木の上でもコミュニケーションできますが、平面で他者と同調するためには二足で立たないとできません。ゴリラもドラミングする時は立ちます。チンパンジーも足を踏み鳴らしてディスプレーするときは立つんですよ。だから、二足で立つということは、音楽的なコミュニケーションをとるために必要で、単なる歩行様式ではないと僕は思います。

米田:二足歩行の始まりは音楽が派生したことでもあるわけですね。

山極:人類の歴史をたどると、楽器を作るようになったのは4万年前ぐらいの話で、進化の過程では非常に新しいのです。楽器を作る以前に、自分の身体を楽器にした。それが、そもそもの長い歴史の中で登場した音楽的なセンスだと思います。現代では、歌と言えば歌詞がセットですが、そもそもは言葉のないメロディーでした。ゴリラはハミングをするし、チンパンジーだってパントフートをするし、彼らは合唱や独唱もできます。

二足で立てるようになったことで、胸で音を増幅できるようになり、喉頭が下がってメロディックな音が出せるようになりました。言葉を話すには歯列がアーチ状である必要がありますが、人間の歯列がアーチ状になるのは数十万年前です。ホモ・エレクトスの歯列はまだU字状で、それが言葉の発生を妨げていました。でも、メロディックな音は出せたはずです。メロディックな声を出せるようになり、身体も動かせるならば、ダンスやメロディーはかなり初期に出てきたのではないかと考えています。

春山:同調や共感を示す意味合いでのダンスや音楽ということですね。

山極:そうです。パーカッションのように周りのものを叩くのは、道具がなくてもできます。遺跡として証拠が残らない時代に、音楽は人間のコミュニケーションの重要な部分を占めていた。音楽で身体を動かしながら別の生き物のマネをすることで、自然の中でほかの動物とも会話ができるようになっていったのではないでしょうか。

「農耕」「牧畜」を機に、特定の生物以外とのコミュニケーションが失われた

山極:人間は言葉を喋り始めて「認知革命」を起こしますが、一番大きな変化は、農耕・牧畜を始めてから自然との会話ができなくなったことにあります。農耕・牧畜は、ある動物や植物を特別扱いしてそれを大量生産し、ほかの生物を排除することですから、「選択」と「集中」です。

狩猟採集時代は、すべての動植物は対等で、人間もその一員でした。彼らと対話をし、相手の動きを見定めることが、より確かな収穫物を得ることにつながるので、対話は欠かせませんでした。

春山:ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』でも、狩猟文化と比べて農耕・牧畜文化が人類を幸せにしたとは決して言えないということが書かれてありましたね。

山極:人間が、文明と一緒に失ってしまったものも大きいんですよ。今の時代は、文明の大転換期だと思っていて、これまで人間は過去に手に入れた科学技術や文明の利器に対して反省はしても、それを捨てることはできませんでした。

春山:そこが本当に難しくて、便利なものをあえて使わないようにする時、知恵や勇気、長期的な視野が必要になります。今後はそれらを作っていくことが大きな挑戦であり、課題でもあると思います。

山極:たとえば、原子力や核などもそうですよね。人間の作り出したものが、あらためて今、自分たちを滅ぼしつつあるということに気づいたわけだから、捨てるか大規模に改造していく必要があります。それは、動物が進化の過程で実験的にやってきたことでもあり、たとえば大きな牙と身体を持ったマンモスは、それがマイナスとなって死に絶えました。人間は身体を変えずに文明で適応してきたわけだから、今度は文明を改良していく必要があると思います。

僕が一緒にゴリラを追っている狩猟採集民たちは1人で何でもできます。森で道具を作れるし、女性でも狩猟も魚釣りもできる。だけど、あえて1人でやらずに他人に任せるところがたくさんあるのです。もともと人間はそうした面を持っていて、それぞれ得意なところを分担し、お互いに尊重し合って生きているわけです。それが人間のコミュニティですが、都市で暮らす人は1人では何もできません。

米田:災害時などは特に痛感させられますね。

山極: 僕はアフリカで狩猟採集民の人たちと一緒にキャンプ生活をしますが、自分で火を起こしたり、野草を取ってきたり、魚釣りをしたり小動物を捕まえたりして生き延びなければなりません。時間がかかるし非効率的かもしれないけど、その中に生きる喜びがあるわけです。しかも、人と協力する大切さや重要さも学ぶことができるし、結局、人間は1人では生きられないということを実感します。

自分とは違う存在と一緒にこの場所を共有しているという感覚がないと、まるで牢屋に入っているのと同じです。だからこそ、今、自分が生き物であるということを再認識する必要があるのではないでしょうか。そこから改めて人間の生活をデザインしていけばいいと思うのです。

サルとゴリラのガイドに誘われ、大自然で学んだこと

米田:アプリというテクノロジーと山という自然、その相反するものを両立させることに関して、春山さんはどんな見解をお持ちですか?

春山:山では自然風景そのものに溶け込む感覚を味わうことに集中してほしいですが、登山時はどうしても遭難のリスクがあるので、アプリは山のガイドとして役立ててほしいですね。

山極:僕も同感で、現代の山に必要なのはガイドだと思います。世の中は複雑化していて、自然もどんどん変わりつつあります。でも、専門に特化したガイドはいても、それを俯瞰で見られるようなガイドは少ないように思います。

一歩間違えれば、山ではどんどん坂道を転がるように危険な方向に行ってしまう可能性もあります。経験を積んだガイドであればあるほど、高齢化や身体力の問題も出てきます。となると、アプリはかなり有効で、しかも1人で山に行くことができます。これはかなり重要で、仲間への依存心をなくして自立心を高めることに貢献してくれますよね。

春山:日本の山岳環境で一番もったいないと思うのは、ネイチャーガイドがきちんと職業として確立していないことです。ガイドが食えない状況は社会的損失だと思っています。人と自然が共生してきた歴史や文化を感じられることが、日本の自然の魅力です。そんな日本の自然の魅力を翻訳するのがガイドの仕事であり、ガイドと一緒に行くことで、初めての土地でも土地の歴史や文化を深く知ることができます。

山極:経験を積んだガイドに新しい世界を体験させてもらえば、ひとつ段階が上がります。ゆっくり歩きながら自然と対話するなら、身近な裏山でもいいと思います。そこでは毎日違う自然の営みが現れるので、それをきちんと読み込むだけの自分の身体能力や五感を養うことが大切なのではないでしょうか。

春山:僕が山登りを始めた時は、山の師匠について行って、山登りのイロハを教えてもらったのですが、特に最初の頃は自然の見方というか、自然とどう向き合っていいのかが、よくわかりませんでした。次第に師匠がどんなふうに山を体感しているかを見て、「こんな向き合い方があるんだ」ということがわかってきました。山登りというと、ピークハントが分かりやすいですが、そういう楽しみ方だけではありません。一緒に山に行った人からその人の自然観を見て学び、自分の自然観の器を少しずつ大きくして、ようやく自分の好きな登山スタイルがわかってきました。それに気づいてから、1人で登ることができるようになりましたね。

山極:僕のガイドはサルとゴリラなんです。サルについて行くと、「こんな道があったんだ」「こんなところにこんな風景があったんだ」という発見があります。彼らについて行って岩の上に出ると素晴らしい景色が現れて、サルが見つめている所に大きなアコウの木がありました。きれいな赤く色づいた実が生っていて、こいつはこれを見ていたんだなということがわかるのです。

アフリカでゴリラについて歩いていると、ゾウがやって来るのを必ず先にゴリラが気づいて、それを回避します。予測して歩いているということに改めて気づかされましたね。

春山:動物の感覚や動物の視点で自然を捉え直すことができると、人間の捉え方がすべてじゃないということに気づきますよね。

山極:彼らは教えてくれませんから。結局、自然の学びというのはそういうものだと思います。でも、我々は彼らから学ぶことができます。その時、人間同士の学び方とは違って、彼らの直観に合わせて学ぼうとすると、とりわけ自分の直観に敏感になるんですよ。

テクノロジーが発展する時代こそ、生き物としての重要な時間が問われる

春山:今後、テクノロジーやAIの進歩にともなって、あらためて「遊び」の領域が問い直されるのではないかと考えています。山極総長は、AIが進化するこれからの時代、人間にとって「遊び」はどのような位置づけになると思われますか?

 山極:遊びの持つ特徴は目的を持たないこと。それから、経済的に見たら遊びは時間とエネルギーの浪費です。遊ぶこと自体が目的だから、何も生み出しません。しかし、だからこそ遊びは楽しいわけです。

その楽しさをお互いに共有するには、相手に合わせて力のバランスを取らなければなりません。身体の大きい方は自分の身体の能力を抑えつつ、相手をそそのかして普段以上の力を出させ、そこでエスカレートさせるように仕向けていく。

その遊びの中で特有のルールも生まれます。人間の世界でも動物の世界でも遊びのルールは始めからあるような気がしますが、その時々で作られていくものです。その中に、楽しさが芽生えていきます。

重要なことは時間を楽しむこと。これまで、時間=コストと言われてきましたが、経済的な考え方とは逆で、時間は「コスト」ではなくて「財産」であり、それを他者と共有することがいかに楽しいかということに目を向けなければなりません。

米田:忙しい現代人ほどそうした基本的なことが失われていますよね。

山極:現代に生きる僕らは、自分の時間をいかに作るかということに躍起になっていますよね。これはパラドックスですが、時間は作った途端に使えなくなるものです。他者に預けているからこそ、自分の時間は他者に影響することができます。時間の共有は相手との大きな橋渡しだと思って、それを遊びのように使うこと、バランスをとることが大切なのだと思います。

それから、これまで人間は空間や距離ばかり気にしてきましたが、今はインターネットの発展によって空間を感じずに人と時間を共有できるようになりました。インターネットやSNSの革命は、「距離」を人間から取り払って、生き物としての重要な時間を再認識させることにつながるかもしれないと考えています。

これから先、我々が新たに迎える世界は距離を無視することができます。だから、相手がヨーロッパにいても画面の中で時間を共有できるわけです。それを応用して、人間のつながりを再演出できるようになれば、もともと生命が持っていた重要なものを再認識することにつながるのではないでしょうか。

米田:山極総長はテクノロジーを肯定的に捉えていらっしゃいますね。

山極:テクノロジーは基本的に改良していくもので、完全に捨て去ることはできないという考えです。人間の本質を理解しつつ、テクノロジーをうまく生かすことが未来につながると思っています。現在、我々はテクノロジーにより、空間を無視してたくさんの窓を開けられるようになりました。その窓を開けて複数の自分を作り、いろんな人たちとつながることができる。これは、人間にとって新たな可能性です。

そもそも人間はいろんな仲間と結ばれたいという願望のもとに社会を作ってきました。実は空間が仲間を作ることを阻害していたわけですが、時間は消し去れません。いかに他者と同じ時間を共有するかということが、集団を作る前提条件です。

でも、仲間が遠くにいれば時間を共有することはできなかったから、これまで遠くにいる仲間とは集団を作ることができませんでした。それが可能になった今、新たな局面を迎えているのではないでしょうか。

YAMAP