CULTURE | 2019/04/04

カクテル「雪国」の創作者、93歳現役バーテンダーのいる風景。【連載】友清哲のローカル×クリエイティブ(2)

過去の連載はこちら
一説には数千種類もあるとされるスタンダードカクテル。ある時はその時代の背景を、ある時はその地域の特...

SHARE

  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • line

過去の連載はこちら

一説には数千種類もあるとされるスタンダードカクテル。ある時はその時代の背景を、ある時はその地域の特性を込めて創作されてきたそれらのカクテルには、確かなクリエイティビティが詰め込まれている。そこで今回スポットをあてたのは、カクテル「雪国」の生みの親、93歳となった今も現役として店に立つ井山計一さんである。

聞き手・文・構成・写真:友清 哲

友清 哲

フリーライター

旅・酒・遺跡をメインにルポルタージュを展開中。主な著書に『この場所だけが知っている 消えた日本史の謎』(光文社知恵の森文庫)、『作家になる技術』(扶桑社文庫)、『一度は行きたい戦争遺跡』(PHP文庫)、『物語で知る日本酒と酒蔵』『日本クラフトビール紀行』(ともにイースト新書Q)、『怪しい噂 体験ルポ』『R25 カラダの都市伝説』(ともに宝島SUGOI文庫)ほか。

井山計一

undefined

1926年、山形県生まれ。酒田商業(現・酒田光陵高)卒業後、神奈川県の東京芝浦電気(現・東芝)の軍需工場で働き、終戦を迎えた50年に帰郷。社交ダンス教師などを経て、55年に酒田市内で喫茶「ケルン」を開業。59年に創作カクテル「雪国」が壽屋(現・サントリー)主催の全国コンクールでグランプリに輝き、脚光を浴びる。その半生を描いたドキュメンタリー映画『YUKIGUNI』が昨秋から今年にかけて公開された。

世界で親しまれるスタンダードカクテル「雪国」

カクテル「雪国」を取り巻く物語が、ドキュメンタリー映画『YUKIGUNI』として映像化。制作費の一部はクラウドファンディングによって集められた。

「雪国」というカクテルをご存じだろうか。ウォッカにホワイトキュラソーとライムジュースを合わせたシンプルな構成ながら、甘さと酸味のバランスが絶妙で、半世紀以上に渡って世界で親しまれてきたショートカクテルである。

近年その「雪国」にあらためてスポットがあたっているのは、今年1月から全国公開されたドキュメンタリー映画『YUKIGUNI』の影響が大きいのだろう。

「雪国」の創作者である井山計一さんの半生を追ったこの作品は、「雪国」誕生の経緯やそれを取り巻く人々の思いを丹念に描くことで、カクテルグラスの向こう側にある物語を立体的に浮かび上がらせた。本稿の準備を進める過程では、行く先々のバーで「最近、映画を観て、『雪国』を飲みに来られる方が多いんですよ」と言われたものだ。

そもそもカクテルブックに掲載されているスタンダードカクテルは、考案者が不詳であったり、すでに他界していたりするケースがほとんど。しかし、「雪国」の生みの親は、御年93歳にして今なお現役を張っている。“生ける伝説” とはまさにこのことだろう。

世界に伝わるスタンダードカクテルの創作者に、直接その背景を聞くことのできる機会など、そうあるものではない。底冷えのする2月のある日、井山さんが営む喫茶「ケルン」を目指して、山形県酒田市へと飛んだ。

「西の堺、東の酒田」と言われた日本有数の港町

JR酒田駅。かつての栄華の名残は薄く、今は閑散とした雰囲気が漂っている。

庄内北部に位置する酒田市は、人口10万人強の港町だ。JR羽越本線・酒田駅を降りると、駅前のロータリーに船のオブジェがぽつりと設えられているが、それよりも海辺のムードを色濃く演出しているのは、強烈に吹き付ける潮風だろう。聞けば、冬場の平均風速は時速15キロメートルを超えるという。

酒田の歴史は存外に古い。平安時代から出羽国の国府が置かれ、中世には貿易の中継地点として栄えた。さらに17世紀に西廻り航路(日本海沿岸から西廻りで江戸へ向かう航路)が整備されるといっそうの発展を遂げ、一時期は「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほど、多くの人や物が行き交った土地柄だ。

お目当ての喫茶「ケルン」は、酒田駅から20分ほど歩いた中町という地区にある。昼間は文字通り喫茶店として長男の多可志さんが切り盛りし、夜はバーになる二毛作スタイル。オープンは昭和30年(1955年)だから、今年で実に64年目を迎えることになる。

日が暮れるのを待って、「ケルン」のある中町2丁目を目指して歩く。どうせなら雪景色の中で「雪国」を飲みたいと、わざわざこの時期を狙って酒田を訪れたのだが、あいにく積雪は皆無。気温こそ氷点下に近いが、この地域は季節風の影響により、平野部の降雪量は少ないらしい。

本家の味を目当てに、全国からファンが集まる喫茶「ケルン」

喫茶「ケルン」。昭和30年のオープンから、今年で64年を迎える老舗である。

老舗中の老舗と言える「ケルン」だが、オーセンティックな雰囲気は希薄だ。むしろ純喫茶の趣が強く、カクテル目当てにやって来た客は少し戸惑うかもしれない。

しかし、そこになんとも言えないリアリティを感じるのは筆者だけではないだろう。カウンター7席、テーブル席28席の古き良き昭和の空間には、本場のトラディショナルを真似たピカピカの内装にはない、長い月日の履歴が刻まれている。

何より、カウンター越しの伝説との邂逅は、眼福というほかない。「先日お電話をした者です」と来意を告げると、井山さんはにっこりと微笑みながらカウンター席に着くよう促してくれた。その軽やかな物腰は、とても90代とは思えない。

店内には他に数組。明らかな常連客もいるが、遠方からはるばるやってきた客のほうが多そうだ。井山さんの手が空くのを見計らい、「映画を観て新潟から来ました!」とすり寄る若者の姿もあった。

もっとも、当の井山さんにしてみれば、こうして全国から来客があるのは珍しいことではないのだろう。丁寧な対応の中に、ある種の“慣れ”を感じさせる。映画が公開される前から、伝説はやっぱり伝説なのだ。

喫茶「ケルン」の店内。細かなオペレーションこそアシスタント役の女性バーテンダー任せであったが、井山さんは今も1日何杯ものカクテルを自らシェイキングしている。

こちらも何はともあれ、まずはカクテル「雪国」をいただくことに。実はこの取材行に先だって、都内のバーを10軒ほどまわり、それぞれの「雪国」を味わってみた。本家の味にありつく前に、「雪国」が今の世代のバーテンダーたちにどう伝わり、どのように表現されているかを確かめたかったからだ。

明確なレシピが流通するスタンダードカクテルとはいえ、ライムジュースひとつをとってもどの銘柄をセレクトするかはバーテンダー次第。結果的に、「雪国」としての大枠に収まりながらも、十人十色の「雪国」を堪能できたことが、この日の高揚感をいっそう高めてくれたように思う。

本家本元の「雪国」やいかに。こちらのオーダーを受けた井山さんは、常連客との雑談を止め、慣れた手付きで材料を取り出し、シェイカーに注ぐ。そして――。

93歳、いぶし銀のシェイキング。スピードやパワーに頼らない、理屈抜きの美しさがそこにはあった。

シェイキングとは不思議な所作で、どれほどスピードがあっても、どれほどパワフルであっても、必ずしも美しく映えるとは限らない。その動作のひとつひとつには、研鑽を重ねた長い年月と、蓄積された知見が詰め込まれている。

井山さんのシェイキングには、まさにそのすべてが高いレベルで垣間見えるようで、思わずため息が漏れてしまう。一朝一夕には真似のできない、至高のリズムがそこにはあった。

果たして、ショートグラスに注がれた「雪国」は、どこまでも美しく澄んで見えた。グラスの底に沈められたミントチェリー。そしてグラスの縁に砂糖をあしらった、スノースタイル。この姿を見て、「春を感じさせる意匠」と表現した評論家がいたが、まさしく言い得て妙と実感させられる。

もはや味に関する細かな論評を語るのは僭越に過ぎる。本来は1杯目をショートカクテルから始める手合いではないのだが、ただただ、至福のひとときの幕開けであった。

創作者自らの手による「雪国」。春の訪れをイメージさせる、美しいスタイルが目を引く。

ダンス講師、喫茶店店主として働く「雪国」前夜の頃

井山さんがここ酒田市に生まれたのは、大正15年(1926年)のこと。大正生まれということにはなるが、この年の暮れには昭和が始まっているから、井山さんは大正から令和まで、4つの元号をまたいで生きることになる。

井山さんが生まれた頃、家業は200年以上も続いた呉服屋から飲食業へと転じ、「カフェー文化」という名の食堂を営んでいた。どこかハイカラなネーミングが、港町らしい華やかさを感じさせる。

ちなみにこの食堂は後に、「すき焼き井山」という料亭に商売替えをし、井山家が変化の速い時代に合わせて、フレキシブルに商いを続けてきたことが窺える。そんな実業家の家庭に生まれ育った井山さんだから、自ら商売に手を染めるようになるのは自然な流れだろう。本人は往時をこんなふうに振り返る。

「私は勉強なんてまったくしない遊び人でしたが、高校時代には『俺は満州にわたって一山当てるんだ』と、大真面目に考えていました。ところが、日本が戦争に負けて駐留米軍がやってくると、酒田の雰囲気ががらりと変わります。大変な時代ではあったけど、それほど悲壮感はなくて、叔父が若い兵隊さんたちを対象にダンスホールを始めるなど、うちは商魂逞しく立ち回っていましたね」

やはり井山さんの代表作であるカクテル「青いリンゴ」は、ソーダの飴玉を鎮める大胆な仕立てで話題に。

戦後の混沌が落ち着き始めた頃、世はダンスブーム真っ盛り。井山さんもダンス講師を手伝うようになり、やがて本格的な修行をするために、短期で東京のダンス教室に通い始めた。現在の矍鑠(かくしゃく)とした様子、ぴんと伸びた背筋の原点は、もしかするとここにあるのかもしれない。

「でも、親としてはやはり酒田にいてほしかったようで、私を呼び戻すためにもう1つ喫茶店を作ったんです。『新しい店ができたから、戻ってきてお前がやれ』ってね。『牡丹』という名前の店でした。それでもダンスは続けたかったので、別にダンススタジオを作って、昼間は喫茶店、夜はダンス講師として働くようになりました」

東京での修行の賜物か、井山さんは戦後初めて県内で認可証を受けたダンス講師となった。

第3回ホーム・カクテル・コンクールでグランプリを受賞

そんな中、バーテンダーという仕事と接点が生まれたのは、偶然の導きによるものだった。

「しばらくして、喫茶店の常連客だった女房と結婚することになるんですが、彼女はダンスが大の苦手でね。2人で競技会に出ることもできないから、ダンス教室をやっていくには何かと不都合があった。そこで、ダンスに未練がなかったわけではないけど、割り切って別の仕事を探すために仙台へ行ったんです。そこでたまたま電柱に貼ってあったバーテンダー募集の貼り紙を見たのが、この世界に入るきっかけでした」

募集の主は仙台のグランドキャバレーだった。カクテルのレシピやシェイキングの基礎は、この時代に叩き込まれたものだ。しかし、カクテルブックなどない時代だから、先輩の様子を目で見て盗むしかない。先輩がオーダーを受けるたびに、懐に忍ばせたメモ帳にカクテル名とその材料を走り書きし、仕事を終えたあとに復習する。日々そのくり返しだった。

その後、縁あって福島のキャバレーで支配人兼バーテンダーとして働いた後、井山さんは実家に呼び戻されるかたちで「ケルン」をオープンする。

「当時の酒田は今と違って、本当に景気が良かった。とくにハイボールが人気で、1杯50円で出していたのですが、これが飛ぶように売れる。その頃、トリスの原価が300円程度で、1本のボトルから20杯以上のハイボールが作れましたから、言葉は悪いけどまさにボロ儲けですよ。店の改装にかかった借金も、あっという間に返してしまいました」

コンクール応募用にカクテル「雪国」を創作するのはその3年後、昭和33年(1958年)のことである。これは寿屋(現在のサントリー)が主催する第3回ホーム・カクテル・コンクールに応募するために創られたカクテルだった。

「レシピは本当に適当でした。たまたま店に、ウォッカとホワイトキュラソーとライムジュースが並んでいたので、この3つでいいやと。ミントチェリーは福島で働いていた頃に見つけたもの。最初はこれをグラスの縁に添えていたのですが、先輩バーテンダーの助言で沈めてみたら、思いのほかしっくりいった。漠然と、いつか賞を獲りたいとは思っていたけど、まさかこれがグランプリに選ばれるとは思わなかったですねえ」

「雪国」がその後こうして全国、そして世界へと広がっていったのも、特別な材料を使っていないことが大きいだろう。どこでも手に入る材料で美味いカクテルが作れるのだから、拡散しないわけがない。

停滞する酒田の街にスポットをあてた「雪国」だが

酒田市内の随所に、映画『YUKIGUNI』のポスターが貼り出されていた。しかし、自治体がこのブームに乗る気配はないという。

実は、井山さんは下戸だ。酒に「弱い」のではなく、完全なる下戸である。だから今も昔も、自ら作ったカクテルを味わうことはないという。

酒に弱いバーテンダーは意外と珍しくないが、それでも日頃からアルコール類を一切口にしないというのは驚かされる。しかし当の井山さんは、「材料それぞれの味はちゃんとわかっているから大丈夫」と飄々としたもの。

自らについて「いい加減な男ですから」と評し、昭和から平成にかけての時代を自然体で生きてきた井山さん。こうして映画の影響で再び脚光を浴びる現状についても、あくまで自然体を崩さない。

「映画になったといっても、私にギャラが入ってくるわけでもないし、生活は何も変わりませんからね。ただ、こうして遠くから『雪国』を飲みに来てくれる人たちと話ができるのは、何よりも幸せなことですよ」

いつも通り。普段通り。これは対話の中で井山さんが何度となく口にしたワードである。しかしそれが、必ずしもポジティブな意味ばかりではないことを見逃してはならない。解せないのは、井山計一という格好の素材を擁しながら、自治体がそれに乗っかる動きをまるで見せていないことだ。

この時勢、酒田に限ったことではないが、街に降り立った瞬間からそこはかとなく感じる活気のなさは、単なる少子高齢化だけに起因していないはず。地域の取り組み不足は明らかで、この街が映画『おくりびと』のロケ地であることや、2体の即身仏が祀られる寺院があることなどは、訪れて初めて知った情報だった。ひとえに、ポテンシャルを観光資源として活かしきれていない印象が強い。

ちなみに酒田には酒田ラーメンという地ラーメンがあり、ある知人は、「マニアの間では“最後のご当地ラーメンと”呼ばれているので、ぜひ食べたほうがいいですよ」と勧めてくれた。つまりは陸の孤島と化し、情報や物資の交流が少ないことから、皮肉にも古くからの原型を留めているわけだ。

自然体の井山さんも、こうした地域の衰退ぶりには残念な表情を見せる。それはこの街のかつての栄華を、身をもって知るからこその憂いである。

しかし一方で酒田は、焼け野原の状態から力強く復興した歴史を持っている。昭和51年(1976年)に発生した「酒田大火」では、湖風に煽られた猛火の手が街の中心部を飲み込み、商店街を含む約22万5,000平米ものエリアが焼失した。

その一部始終に立ち会っている井山さんはきっと、酒田の街に今一度の再起を期待しているに違いない。だからこそ、93歳となった今も元気にシェイカーを振り続けている。小気味良いシェイキングのリズムは、生ける伝説が発するこの街へのエールなのだ。