CULTURE | 2019/02/20

アイドルソングは不滅なり。名曲たちの生み方【連載】西寺郷太のPop’n Soulを探して(6)

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毎月、ノーナ・リーヴス・西寺郷太さんとFINDERS編集長の米田が語り合うこの連載。今月はアイドルについて。アイドルへの楽曲提供も数多く手がける西寺さんの少年隊から始まり、V6、Negiccoに至るまで、どんなやり取りがあって数々の名曲たちが生まれたのか、じっくり聞いてみました。

聞き手:米田智彦 文・構成:久保田泰平 写真:有高唯之

西寺郷太(にしでらごうた)

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1973年、東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成し、2017年にメジャー・デビュー20周年を迎えたノーナ・リーヴスのシンガーにして、バンドの大半の楽曲を担当。作詞・作曲家としてSMAP、V6、岡村靖幸、YUKI、私立恵比寿中学ほかアイドルの作品にも数多く携わっている。音楽研究家としても知られ、少年期に体験した80年代の洋楽に詳しく、これまで数多くのライナーノーツを手掛けている。文筆家としては「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」「プリンス論」「ジャネット・ジャクソンと80’sディーバたち」などを上梓し、ワム!を題材にした小説「噂のメロディ・メイカー」も話題となった。TV、ラジオ、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在インターネット番組「ぷらすと×Paravi」にレギュラー出演中。

「これヤバくない!?」っていうものに惹きつけられた十代

米田:郷太さんは楽曲提供もたくさんされていますよね。最初に提供したのって誰だったんですか?

西寺:少年隊ですね。

米田:おおっ! それはビッグネームですね。

西寺:少年隊は「PLAYZONE」っていうミュージカルのシリーズを青山劇場でずっと続けられていたんですけど、2001年のテーマ曲「プリマヴェラ〜灼熱の女神〜」の作詞をさせてもらいました。『新世紀 EMOTION』っていうタイトルでサントラも出ています。

米田:郷太さん、少年隊めっちゃ好きなんですよね。最初に提供したのが憧れの人っていうのもすごいですよ。

西寺:ホントにそうなんです(笑)。前にも話しましたけど、僕は小学生の頃にマイケル・ジャクソンやプリンス、ワム!みたいな洋楽の世界と、「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」みたいな「ザ・歌謡曲」な世界をほぼ同時に好きになって。もちろん少年隊も大好きで、でも、当時、中高生男子がジャニーズの音楽を聴く文化ってあまりなかったんですよね。やっぱり10割に限りなく近い割合の9:1で女性と男性ってなりますよね。

米田:でも、僕も大好きでしたよ。少年隊もだし、光GENJIとか。

西寺:光GENJIもね、僕が中学二年生の夏にデビューしたんですけど、ホント大好きでしたね。光GENJIのファースト・アルバムはチャゲ&飛鳥の2人と編曲家の佐藤準さんが作っていて、「STAR LIGHT」「ガラスの十代」「THE WINDY」「Graduation」……超名盤で。個人的に日本人が生んだ最も素晴らしいアルバムだってラジオでもずっと言ってますから(笑)。

米田:でも、クラスの男子からは理解されなかったという(笑)。

西寺:そうなんですよね(笑)。同級生は僕よりも全然音楽にハマるのは遅くて。僕は小学生でマイケル、プリンス、スティーヴィー・ワンダー、ワム!、ビートルズ。彼らにとっては、ある種、音楽博士的な、なんか質問あったら郷太に聞こうみたいな存在だったとは思います。中学生の頃は、皆ボン・ジョヴィとかにハマりはじめて。1988年、中学三年生の秋に『ニュージャージー』が出たりして。何人かが「CD」で買ってたりね。この頃、アナログがどんどんCDに変わって。僕は、どちらかというとその2年前の『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』はよく聴いてましたけど。曲がいいなぁ、と。変な言い方ですけどその当時のボン・ジョヴィは職業作曲家的というか、匠の技が効いた歌謡曲みたいで。で、高校生ぐらいになるとクラスでもバンド組んでる連中がいたり、音楽好きも増えてくんですけど、彼らが好きだったのはBOØWYとかバービーボーイズとかZIGGYとかX JAPANとかブルーハーツとかで、僕も勧められたら聴いてたし、バンドをやりたかったからコピーしたこともあるんですけど、それと一緒に僕が光GENJIだったり少年隊を聴いてると、みんな理解してくれないんですよ。「オマエ、洋楽とかめっちゃ詳しかったんちゃう?」みたいなノリで叩かれる(笑)。

米田:今の時代ならアイドルも洋楽も両方好きだってのは許される雰囲気がありますけどね。

西寺:そう、今ならね。曲が圧倒的に良くて、アレンジが良くて、演者のある種のパフォーマンスや爆発的な魅力、時代の波みたいなものが重なってるのが好きなだけだったんですけど。なんで、それを勝手にジャンルとか先入観で分けて「別」に考えるのか、が本当に理解出来なくて(笑)。言い方変ですけど、ダサいとかカッコいいとか言い始めたらどっちもダサい部分はあるよ、でもそれで良いやんみたいな(笑)。圧倒的に僕は劣勢でしたけどね。

だけど、家に遊びに来た友達がパブリック・エナミーと光GENJI聴いてたら「オマエおかしいぞ」と(笑)。「なんでこれとこれ同時に聴くねん?」って。「いや、どっちもめちゃくちゃ破壊力あるやん!」「意味がわからん!!」みたいな(笑)。デビューしてからライムスターの宇多丸さんや、「申し訳ないと」のミッツィーさんとかと出会って、モーニング娘。と今のヒップホップみたいなものを普通に聴くとか、ヒップホッパーにもアイドル好きがいっぱいいるとか、クラブで日本語のアイドル音楽をかける、とかそういう文化も、2000年前後くらいからかな、変わったと思うんですけど、ジャンルレス……っていうとあれですけど、なんかその、これスゲぇな、これヤバくない!?っていうものにキュッと惹きつけられるっていうところが十代の頃からありましたね、僕は。

SMAPの存在は作詞作曲家にとって「狙うべき的」

米田:ところで、少年隊の楽曲で作詞したのはどういう経緯だったんですか?

西寺:このエピソードは何回も話してはいるんですけど、ワーナーのほぼ同期組のクラムボン・原田郁子ちゃんのラジオ番組にゲストで呼ばれて。2001年春ですね。虎ノ門のラジオ局で収録してたんですけど、番組の最後に、僕が好きなアイドル・ソングを1曲かけてお別れみたいなコーナーがあって。その流れで、少年隊の「STRIPE BLUE」をかけてもらったんです。それで「ノーナ・リーヴスの西寺郷太くんでした〜」ってな感じでブースから出て、「おつかれさまでしたー!ありがとう」みたいにスタジオの重い扉を開けたんです。そうしたら、ロビーに僕が選曲した「STRIPE BLUE」が漏れ聴こえますよね。そうしたらなんと、そこに少年隊の錦織一清さんがいたんですよ。

米田:すごい偶然!

西寺:「俺様KINGS」ってレギュラー番組の収録が僕らの後だったらしく、ロビーで打ち合わせされてたんですよね。錦織さんからしたら、いきなり「STRIPE BLUE」が聴こえてきたからギョッとしてたと思うんですけど(笑)。僕が「大ファンなんです!」って言ったら、錦織さんもそういう風に言われるのは慣れてる感じで、「はい。どうも、ありがとうございます」って丁寧な返しで。スターなんで当然なんですけど。その時、彼のキャラクターを知っている僕は、なんか寂しかったんですよね(笑)、で、僕がちょっと拗ね気味に「あのすいませんけど…、錦織さん!僕、軽いファンじゃなくて、本当に少年隊と錦織さんの大ファンなんですよ」って(笑)。

米田:郷太さん、すごい度胸ですねえ(笑)。

西寺:それで続けて「錦織さんは、小学校2年生の時に〈貯金〉っていう文字を習字で書いて、入賞されましたよね」って言ったら、錦織さんが「うわ、気持ち悪ぃー!」って(笑)。まあ、今だとネットとかがあるからそういうエピソードとか拾えるところがあるかも知れないですけど、僕はそのエピソードを昔どこかで読んだのをずっと憶えてて。

米田:さすがですね(笑)。

西寺:で、ノーナが「LOVE TOGETHER」っていう曲をちょうど筒美京平さんのプロデュースで発表していた時期だったので、「少年隊の「ABC」とか「仮面舞踏会」とか大好きで、筒美京平さんと一緒にお仕事させてもらってるぐらい大ファンなんです」とか色々しゃべってたら、錦織さんも「歌謡曲の凄みをわかってくれる若いバンドマンにちゃんと会えたの初めてだよ」って、気に入ってくれて。

スタッフに「次の番組のゲスト、郷太だっけ? 呼んでやってよ」みたいになって、態度が変わったんですよ(笑)。で、ゲストに呼ばれて行ったら、「郷太、少年隊に曲書いてくれよ」みたいになって。それが僕の提供曲1曲目だったんです。作詞家としてのオファーでした。

米田:へぇ〜。そんな出会いから生まれた楽曲だったんですね。それが作詞家デビューというのもすごい。

西寺:当時、郷ひろみさんの「GOLDFINGER ’99」が売れた後で。しばらく、そういう海外の楽曲を面白い歌詞で日本化する、今もDA PUMPの「USA」がまさにそうですけどね、カバーがブームみたいになってたんですよ。で、1曲海外の楽曲を任せられて、少年隊のミュージカル向けに歌詞を書いたんですが。今思えば、他者に提供する楽曲の1発目が日本で一番好きなアーティスト「少年隊」だったわけだから。

米田:最初が、いきなりゴールみたいな(笑)。

西寺:ホントに(笑)。感謝しかないですね。ただ、その時は作詞だけの関わりだったんで、次は自分で作詞・作曲したい、と。少年隊のために書いたのが「ONE MORE KISS」って曲でした。超自信作で。一番とサビの繰り返しだけのデモを作って、レコーディングしてもらうタイミングが来たら、メンバーと相談して二番の歌詞を書こうと思っていたんですが。結局、大切に温存してきたその曲は、2016年秋に錦織さんが演出で僕が音楽と脚本を担当した「株式会社、応援屋!! - OH & YEAH!! -」っていうA.B.C-Zの舞台でようやく使われたんです。

米田:2016年? 随分かかりましたね。

西寺:なので、まず舞台で歌われるまでに15年かな(笑)? それくらいの時を経て、A.B.C-Zのために二番の歌詞を書いたんですね。A.B.C-Zは、名前からして、少年隊へのオマージュに満ちたグループですし。相談したら、錦織さんも「おぅ、いいね!」って喜んで下さったんで。で、3月27日に彼らのシングル「Black Sugar」のカップリング曲として遂に音源がリリースされるんですけど。最初に作ったの、2001年なんで。

米田:形になるまで18年ですか。でも、最初の少年隊への提供のあともジャニーズには何曲か提供されていますよね?

西寺:そうですね。近藤真彦さんの「情熱ナミダ」(2007年)っていう、これも作詞だけでしたけど、筒美京平さんが作曲でCHOKKAKUさんが編曲で。あとはKAT-TUNのセカンド・アルバム(2008年発表の『cartoon KAT-TUN II You』)に入ってる「FREEDOM」っていう、これも作詞です。SMAPは多分7回ぐらいトライして1回だけ採用されましたね。マイケルが亡くなった翌年に出た『We are SMAP!』っていうアルバムに入っている「SWING」っていう曲なんですけど、それは谷口尚久君っていう大学時代からの仲間との共作で。

米田:SMAPへの提供曲となると、採用されるのはなかなかの狭き門だったでしょうね。

西寺:毎回1枚のアルバムやシングルのために100曲から1,000曲集めるのも普通だったみたいですしね。だから7分の1でも、割と打率高い気もしますね。ただ、僕はそもそもコンペ形式のプロジェクトには参加しないんで。ほぼ唯一が、SMAPでした。それでもSMAPのために書いた曲って、返された曲もムダにしてなくて。2013年に出したノーナのアルバム『POP STATION』に収録した「休もう、ONCE MORE」っていう曲になってたり。SMAPってひとつの「的」だったというか。彼らが歌ったらちょうどいいなあって思って作詞にしてもメロディにしても書いておくとね、自分のために作るよりもデカいサイズの楽曲ができるというか。洋服で言えば、SMAPの5人の歌声やキャラクターそれぞれのサイズ感、質感、素材で作っておくと伸び縮みして、日本中の誰でも着られるみたいな。

彼らの存在は作詞作曲家にとって「狙うべき的」、そういう効果があったと思いますね。だから、僕だけじゃなくいろんな人が〈SMAPが歌うはずだったかも知れない曲〉を再利用してる、世間には言ってはないけどそうだったっていうものは結構あると思ってます。

中の上が一番アグレッシヴで一番面白い存在

米田:ところで郷太さん、楽曲提供自体、お好きですか?

西寺:好きですけど、昔は「すごく好き」だったんですよね。ノーナ以外のところに自分の曲が混ざる喜び、特にV6との数年間の作業はメンバーとのやりとりも刺激的で充実してましたね。自分も30代中盤から後半の時期で経験も重ねていろんなことができるようになってたし、メンバーとも意思の疎通ができていて、仲良くもなれて。なかでも2011年のシングル「Sexy.Honey.Bunny!」は楽しかったですね。この曲は作詞が僕で、作曲はcorin.さんっていう同い年の相棒がいて。corin.さんとは共同プロデュースっていう形で。僕もカウンターやコーラスのメロディー部分を作ったり、まぁ、かなりバンドっぽい作り方で。

米田:確か、ラジオで聴いたんですが、V6の楽曲はクォリティがめっちゃ高くて当時びっくりしましたよ。

西寺:僕は「伝統」がすごく好きなんですね。ただ、たとえばむちゃくちゃ老舗の、高島屋でも銀座の松屋でもなんでもいいんだけど、デザインの良い立派なデパートがあったとしても、時が経って老朽化したり、必ず古くなるじゃないですか。それを完全に「その時の最新に」建て替えるのは好きじゃなくて……。それって悪い意味でまた古くなるというか。ただ新しくした方が良い部分もあって、エレベーターやエスカレーターは新しくするとかね。

米田:今で言う“リノベーション”ですね!

西寺:そう、まさにリノベーション。いいところは残して……(笑)。良いものを残しながら、ある部分は賛否両論が出るほど新しくするっていう作業が僕は好きで。

米田:なるほどね。

西寺:Negicco(ネギッコ)で「愛のタワー・オブ・ラヴ」っていうシングルをやったのもまさにそういうタイミングで。

Negiccoにはconnieさんっていう、サラリーマンやりながらNegiccoのファンでずっと楽曲を作っている方がいて、天才だと思うんですけどプロではないんで、スケジュール的にも、方向性的にも、新しい空気が欲しいっていう時に僕が初めて、いわゆるプロのソングライター、プロデューサーとして呼ばれたんですよ。Negiccoのメンバーもね、「私たちネギ持って歌ったり、オシャレじゃないんで…」、って(笑)。

米田:でも、この曲はすごく都会的なサウンドですよね。

西寺:ともかく音数を減らして、テンポを意図的に落として。アイドル・ソングってタテノリ文化でめっちゃくちゃ速かったんですね。今、少しずつ変わって来ているような気もしますけど。多分「え?」って皆驚いたと思うけど、「愛のタワー・オブ・ラヴ」があれば、他に曲作る人がラクになるって思ったんですよね。歌詞も彼女たちのその後を見据えたステイトメントになってますし、今でも、自分にとっても特別な曲です。

忘れられないのが、彼女たちが僕と初対面の時のスタジオでの緊張がハンパなくて。今はもうそんなことないと思うんですけど、とにかくこっちもびっくりするぐらいビクビクしてて(笑)。「郷太さんみたいな大物プロデューサーと仕事が出来るなんて……」って言うんですよ(笑)。

米田:大物って言われましたか!(笑)。

西寺:いやね、自分で自分のことショボいとも思ってないですけどね(笑)。その瞬間、リアルに自分を分析して……7年ぐらい前の話ですけどね、「あの、これ真面目に言うけど、俺は大物ではないよ、しいて言うなら『中の上やで』」って言ったんです(笑)。

米田:中の上!(笑)。

西寺:大物っていうのは、筒美京平さんとか、松本隆さんとか、小室哲哉さんとか、小林武史さんとか、そういう国民的ヒットソングを持っているプロデューサーや作詞家、作曲家が大物って言うんだよって。俺は自分で自分のことすごいと思ってるよ、思ってるけど、大物じゃなくて〈中の上〉から〈大物〉になろうとしてる「ちょうどいいタイミング」のヤツやでって(笑)。だから、そんなに緊張しなくてもいいよって。で、面白かったんで、その時の話を熊谷さんっていう編集者に話したんです。

熊谷さんは、シルク・ド・ソレイユの〈マイケル・ジャクソン:ザ・イモータル〉を当時仕事でロシアまで一緒に観に行った仲間だったんですけど、モスクワで呑んでた時、彼に「僕、めっちゃ大物プロデューサーってアイドルの女の子たちからビビられたんすよ、で、いやいや俺は『中の上』やぞって言ったんですけどね(笑)」って、今の話をしたんです。そしたら熊谷さんが「郷太さん、むしろずっとそれでいいんです。僕らの仕事は〈中の上〉を見つける仕事ですから。中の上が一番アグレッシヴで一番面白い存在です」って言ったんですよ。「大物になるとね、打つ手が減ってきて、息苦しくなりますよ」って。

米田:大物ってことは、成り上がっちゃってるわけですからね。

西寺:まあ、Negiccoとのエピソードは、30代後半の自分が年齢とキャリアを重ねてきたことを感じたひとつのタイミングでしたね。


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