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矢野利裕
批評家/ライター/DJ
1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。
「音楽に政治を持ち込むな」論争はなんだったのか
今年もフジロックの季節がやってきた。
フジロックについて思い出されるのは、2年前に巻き起こった「音楽に政治を持ち込むな」論争である。2016年、フジロック内のトークコーナー「アトミック・カフェ」に、津田大介氏とともにSEALDsの奥田愛基氏が出演することが決定したさい、一部から「音楽に政治を持ち込むな」という声が上がり、主にネット上で話題になった。
この主張が端的に間違いだと思うのは、フジロックの「アトミック・カフェ」が、そもそも2011年から行なわれているからだ。以前から行なわれているにもかかわらず2016年にこういう主張が出てくるのは、要するに一部の人にとって奥田氏が気に入らなかったということでしかない。だから、それを「音楽に政治を持ち込むな」というかたちで一般化するのは間違っている。
というか、そもそも「アトミック・カフェ」の源流は、1982年の反核運動およびそこから派生した反核フェス(有名な、尾崎豊氏の飛び降り骨折は、「アトミック・カフェ・フェスティヴァル」の第1回目の出来事である)にある。その経緯を重視するならばむしろ、現在の「アトミック・カフェ」は、保坂展人氏による青生舎や辻本清美氏によるピースボートと同様の、1980年代の「反核運動で社会運動に目覚めた若者たち」による「新しい左翼運動」(外山恒一『青いムーブメント』(彩流社))の延長にあるもので、「音楽に政治を持ち込むな」どころか端から政治運動の一環に他ならないとすら言えるのだ。
政治とは無縁、と振る舞う時にこそベタな政治性が宿ってしまう
さらに言えば、奥田氏に反発するような右派/保守的なイデオロギーだって、もちろん音楽と無縁だったわけではない。体制側がいかに音楽と政治を結んでいたかは、評論家の辻田真佐憲氏による『日本の軍歌』(幻冬舎)、『たのしいプロパガンダ』(イースト・プレス)などの著作に詳しい。その辻田氏自身も、「音楽に政治を持ち込むな」問題に対して「現代ビジネス」に文章を寄せている(参考:フジロック「音楽に政治を持ち込むな」問題のバカらしさ)。
このように、右から左から、いつの時代も音楽は政治に巻き込まれているので、今さら「音楽に政治を持ち込むな」もなにもない。むしろ、政治と無縁であるかのように振る舞う時にこそベタな政治性が宿ってしまう、という逆説がありうる。
最近話題になった例では、やはり辻田氏が「愛国歌」と指摘した、RADWIMPS「HINOMARU」(参考:RADWIMPS衝撃の愛国ソング「HINOMARU」を徹底解剖する)という楽曲がある。「HINOMARU」の歌詞は、かなりベタに愛国的なものだが、作り手の野田洋二郎氏いわく、そこに「思想的な意味」はなかったという。
「HINOMARU」リリース直後のツイート(6月8日)
一連の騒動を受けて投稿されたツイート(6月11日)
これについては、「平成」における「スポーツ特番のお祭り化&感動をありがとう路線」の歴史をひもときつつ、「HINOMARU」の歌詞を「みんながたかぶり、ひとつになれるような、戦いにアツくなれるような歌詞をと、マーケティング」した結果ではないか、とするプチ鹿島氏の指摘が鋭い(参考:W杯の特番は、もう「岡ちゃんのつぶやき」だけでいいんじゃないか)。
「HINOMARU」はフジテレビのサッカーワールドカップ中継のテーマ曲「カタルシスト」のカップリング曲だったが、この「カタルシスト」の歌詞はよりベタな「スポーツ特番のお祭り化&感動をありがとう路線」な内容だった。「HINOMARU」の歌詞もまた、思想的な意味はないとすればこうした「マーケティング」の一環として生まれたものだと言えるだろう。
ごく一般的に言って、いくら本人が意識しておらずとも、なんらかの言葉をチョイスして配置した時点で、そこには作り手の立場は少なからず入り込む。だとすれば、音楽と政治が無縁だと思っている人ほど、結果的に自らの政治的な偏りに鈍感であるおそれはある。「よりアツく、より一体感を」という「マーケティング」が、結果的にベタとも思える「愛国歌」を生み出した、という事態は、ナショナリズムをめぐる微細な力学を考えるうえで興味深い。
歌詞だけに注目しすぎてはいないか
そのうえで、ここではもう少し違う水準での音楽と政治の関係について考えたい。というのも、上記のような音楽と政治の話は、いずれも歌詞の話が中心になってしまいがちだ。しかし、政治的な内容の歌詞を歌うことが音楽の政治性なのであれば、音楽は特定の政治的主張をするための容れものとしてしか捉えられなくなってしまう。歌われた詞の内容のみを云々することは、論壇での意見交換とあまり変わらない。歌詞というのは音楽のほんの一部である。音楽と政治について考えるとき、言葉に回収されない部分を見るべきではないか。
例えば、『ミリタリズム~軍国ジャズの世界~1929-1942』(ぐらもくらぶ)という、資料的な価値の高い、かつ音楽的にもゴキゲンなコンピレーションCDがある。このCDに収録されている曲は、どれも愛国的な歌詞だったり戦争賛美の歌詞だったりする。にもかかわらず、その背後には、スウィングの軽快なリズムが鳴らされている。当時、ジャズは敵性音楽として禁止されていたはずなのに。
1937年の日中戦争開始以来、ジャズは「頽廃的若しくは軽薄的なもの」(『読売新聞』1937.7.25)として規制の対象とされた。しかし、スウィングのリズムに魅了されたジャズメンは、そのような環境の中でもたくましくジャズを演奏していた。この時の様子は、前述の『ミリタリズム』の解説も手がける毛利眞人氏の著書『ニッポン・スウィングタイム』(講談社)に詳しい。毛利氏によれば、戦時下のジャズ自粛のさなかにあって、「「サクライ・イ・ス・オルケスタ」がセミクラシックの曲目や「愛国行進曲」を杉井幸一のジャズアレンジで演奏する、という巧みな韜晦でニッポン・ジャズの新たな局面を拓いた」という。
極めつけは、作曲家として有名な服部良一氏だ。服部氏は戦時中にもっともジャズへの情熱を燃やしたひとりで、ジャズを演奏するために当局をだましたりもしていた。そんな服部氏は、毛利氏によれば「洗練されたハイブロウなサウンドを時局にまぶすことで、現代社会とジャズの離れがたい結びつきを示したのである」。服部氏が作編曲した、コロムビア・リズム・ボーイズ「荒鷲さんだよ」(『ミリタリズム』収録)などは、そのひとつである。当時のジャズメンは、軍国主義的な歌詞を口実にすることで、戦時中にジャズを演奏する自由を確保したということだ。
「どんな状況下で何を鳴らすか」にこそ音楽の政治性が宿る
『ミリタリズム』に収録されているような「軍国ジャズ」を聴くと、歌詞こそ軍国主義的なものであっても、その軽快なサウンドには、時局に対する屈折した思いや、あるいは抵抗の姿勢をも感じ取ることができる。そこでは、歌詞とサウンドの緊張関係にこそ政治性が見いだせる。「軍国ジャズ」においては、軍国主義的な歌詞がむしろ、規制の波に逆らってジャズを演奏するための一躍を担っているのだ。
そう考えた時、個人的には、歌詞のみを取り出して音楽の政治性を議論することに、あまり重要性を感じられない。僕はどちらかと言えば、歌詞に政治的なメッセージを込めることより、閉塞的な時代に自由に音楽を奏でることの解放感の方が、より政治的なアクションだと思うタチだからだ。『ミリタリズム』を聴いて心弾んでしまうことは、はたして良いことなのか。それとも、不謹慎なことなのか。わからない。しかし、歌詞とサウンドの結びつき、あるいはその分裂に目を向けてこそ、音楽の政治性は問われるのではないか。
プラトンはかつて音楽と政治について……、なんて講釈を垂れるつもりはない。ただ、音楽が政治的であるのは、それが、音楽の「調べとリズム」(プラトン)がすでに、歌詞の内容とは無関係に感情をふるわせるからだとは思う(プラトンは、感情を「真似」する、と言う)。音楽の政治性を語るとき、そこには、無方向的に感情をふるわせるサウンドの水準がある。理性的な言葉の水準ではなく、無方向的なサウンドの水準にこそ音楽の政治性は宿っている。あらかじめ討議の場に参加できるような理性的な言葉に政治は宿っていない。むしろ、それまで声だと認められなかったような声なき声を討議の場にデリバリーすること。それこそがラディカルな政治のありかたである。ジャズ、ロック、パンク、レゲエ、ヒップホップ……。理性とは別の水準で人々を振り向かせる新しいサウンドは、黒人や労働者階級など抑圧された存在が表現をし、声を発する場所となっていた。
改めて言うが、フジロックの季節である。「音楽に政治を持ち込むな」と叫んで、政治性と無縁に音楽を楽しむという態度はありえない。とは言え、個人的には、討議の場としての「アトミック・カフェ」に参加することが、そのまま「音楽に政治を持ち込む」ことにもならないと思っている(主催者側の意図は別に存在するので、これは難癖で申し訳ないが)。そうではなくて、一瞬前までノイズだったものが心躍るサウンドとして聴こえる瞬間に耳を澄ますこと。言葉ならぬざわめきが言葉になる瞬間を見逃さないこと。そういう瞬間にこそ、音楽の政治的ポテンシャルは感じられる。