「オランダ発スロージャーナリズム」と称して始めたこの連載。2回目にして、さっそくの逸脱です。すいません。今回はオランダではなくイタリア発です。というのは、今回イタリア北部、バルサミコやチーズなどの農産物、畜産物で有名なレッジョ・エミリアに行く機会に恵まれたからです。
レッジョと言うと、パルミジャーノ・チーズなどが有名です。イタリア料理のレストランなどで、粉にしてパスタなどにかけるチーズとして、日本でもお馴染みではないでしょうか。
しかし実は同じくらい、あるいはそれ以上に世界的に注目されているのが、レッジョ・エミリアという街全体で行われている、独特の教育アプローチです。レッジョ・エミリア・アプローチ、レッジョ・エミリアの教育法などと呼ばれています。
1990年代に「世界で最も優れた10の学校」などに選ばれたことから、2000年代にかけて世界的に注目を集めることになりました。そういう意味では、比較的新しい教育方法なのか?と思いきや、そんなことはまったくないということが今回の訪問でわかりました。
というのは、レッジョ・エミリアでは長年に渡って、このアプローチを教育に取り入れていたのです。国立大学などが一般的であるように、国が主導するというヨーロッパの教育方針に対して、レッジョ・エミリアという街自体がいわばレジスタンスだったようで、現在のように国にも認められ、世界的にも名が知られるようになるには、関係者の大変な努力が実ったものだ、ということでした。
実際、レッジョ・エミリア・アプローチの特徴は、第二次対戦中のファシスト政権下のレジスタンス活動の中から生まれました。実はこのエリアは、そもそも社会主義色の強い場所であったため、ファシスト政権下で抑圧の対象になっていたのです。そんな背景から、宗教色を持たず、アートを重視するという傾向が生まれたようでもあります。
現在のレッジョ・エミリア・アプローチの大きな特徴といえば、子どもたちの自主性、個性、感性などに重きを置き、表現力やコミュニケーション能力を高めることを重視したアプローチです。そして、これをレッジョ・エミリアという街全体で行っていることが特徴的です。これは文字通り「社会の真ん中に子どもがいる」と称されることもあります。生徒、教師、保護者の関係を対等と捉えていることも特徴的です。具体的な活動としては、プロジェクト学習、芸術活動、それらを記録するドキュメンテーションといったあたりが注目されています。
吉田和充(ヨシダ カズミツ)
ニューロマジック アムステルダム Co-funder&CEO/Creative Director
1997年博報堂入社。キャンペーン/CM制作本数400本。イベント、商品開発、企業の海外進出業務や店舗デザインなど入社以来一貫してクリエイティブ担当。ACCグランプリなど受賞歴多数。2016年退社後、家族の教育環境を考えてオランダへ拠点を移す。日本企業のみならず、オランダ企業のクリエイティブディレクションや、日欧横断プロジェクト、Web制作やサービスデザイン業務など多数担当。保育士資格も有する。海外子育てを綴ったブログ「おとよん」は、子育てパパママのみならず学生にも大人気。
http://otoyon.com/
「レッジョ・エミリア」は教育方法ではなく、環境である
筆者は、一応、保育士免許の保有者でもあるので、予備知識を持ってレッジョ・エミリアにある「ローリス・マラグッツィセンター」を訪れました。
ここはこのアプローチを最初に確立、実践したと言われる教育者ローリス・マラグッツィの名前を冠した教育センターで、展示やワークショップなどを通して、具体的にどんなアプローチが行われているのか?ということを学べる場所です。最初の印象は「学校というより、アーティストのアトリエ、または科学館や博物館、あるいは今風に言うとデザイン・ラボ」という印象でした。
干からびたカボチャが成長の過程を追って並べられていたり、大小、さまざまなワイングラスが整然と並べられていたり、光と影で実験ができる装置、鏡や透明ファイルを使って色を作ったりする装置などなどが並べられています。
他には、あらゆる種類の黒の紙や色鉛筆などが揃えられているテーブル、またあらゆる種類の色鉛筆が並べてあるテーブルなど、数多くのテーブルが並んでおり、ここにいるだけで思わず、何かを描いたり、作りたくなってしまう環境が整えられていると感じました。
そして、これら陳列そのものがすべてアートに見えてくるから不思議です。
実は、8歳になる私の長男も同行したのですが、色鉛筆や紙にはほとんど反応しなかったものの、グラスや光と影の実験装置などには自然と反応していました。
ここで気付いたのですが、レッジョ・エミリア・アプローチというのは、教育方法ではなく、環境なのではないか?ということです。レッジョ・エミリアでは「教え方」や「教育」が特別だから注目を浴びているのではなく、この「環境づくり」だけに徹している点が、斬新なアプローチと捉えられているのではないか?と思いました。
アートを意識した環境の中に、子どもを置いておくだけで、あとは自主性や感性に任せるというアプローチは非常にヨーロッパ的だなと感じました。例えば、北欧やドイツでも盛んな「森のようちえん」という、森の中で活動を行う保育方法がありますが、これはレッジョ・エミリアがアートの環境の中に子どもを置いているのに対して、森という自然の環境の中に子どもを置くというアプローチです。
レッジョ・エミリアも当然、16〜17世紀に建てられた建物が街中に存在していますし、イタリアには、ヨーロッパの他の国から訪れてもアート感覚が歴史的にも進んでいたことを実感できる建物、作品などが溢れています。こうした環境にいるので、自然とアート感覚に溢れる環境を作る、ということになったのではないでしょうか。
日本では、ついつい子どもに用途が決まっている遊具を与えたり、遊び場を提供したりすることが多いと思います。そして、それらを使ってさまざまなことを教える。まさに「教えて」「育てる」。これが「教育」であり、そのやり方が「教育法」として話題になります。
しかし、英語の「Education」の語源とされるラテン語の「Educare」には、元々「外に引き出す」という意味があったとされています。一説には、そうした意味はなかったとするものもありますので真偽のほどは分かりませんが、いずれにせよ「元々持っているものを外に引き出す」のが、元来の教育だと考えると、レッジョ・エミリア・アプローチが「環境」と捉えることも分かりやすくなるのではないか?と思います。「教えて」「育てる」でのはなく、子どもが自分の内側に元々持っているものを、アートという環境を作って「引っ張り出す」だけ、ということなのです。
「学校」は暇な人が行くところ?
このセンターを訪れて思い出したことが、もう1点あります。それは「学校」を意味するラテン語の「エコール」という単語がありますが、これは元来「暇」という意味を持っていた、ということです。つまり、学問というものは暇なときにするもの、あるいは暇こそが真の学問を生み出す、ということでしょうか。
アートも学問と同じように考えられていますよね。アーティストの方には失礼ながら、特に現代ではなおさらではないでしょうか。
暇な子どもを、アート感覚溢れる環境に置いておくだけ。あとは勝手に自分たちの内面から溢れ出てくるものを保育士と保護者が、適度な距離を持ちながら子どもたちの感性と自主性を重んじてサポートしていく。
これがレッジョ・エミリアの真髄ではないか?と感じました。
そしてこの時に、レッジョ・エミリア・アプローチで大事にしているのが「クリエイティブ・アクシデント」という考え方。これは創作活動を行う上では、「偶然に起こる失敗すらも、何かを生み出すかもしれないので大事にする」という考え方のようです。
最近では「セレンディピティ」などと言うことも多く、偶然の出会いや予想外の出来事などを大切にするという考え方ですが、これはあらゆる創作活動において非常に重視されます。イノベーションの源泉になることもあるでしょう。
20年以上、クリエティブ活動に関わってきた筆者の経験から言っても、このセレンディピティ、つまりクリエイティブ・アクシデントを引き出すために環境は非常に大切な要素です。
暇な子ども時代を、あらゆるクリエイティブ・アクシデントが起こりうる環境の中で、のびのびと自由に、感性の赴くままに満喫できるとしたら、こんな幸せな子ども時代はないのではないでしょうか?
もちろんお受験や、将来良い会社に入るためだけの勉強なんかしませんから、こうした環境で育つイタリア人が、大人になってやっぱり楽し気に人生を満喫しているように見えるのは納得せざるをえません。
オランダも「世界一子どもが幸せな国」と言われていますが、レッジョ・エミリアの子どもたちも、全く引けを取らず、非常にイキイキと幸せそうだったのが印象的でした。
イノヴェーティブな子どもを育てるためにも、彼らがもともと持っているものを引き出す、なんてことを意識してみると、子どもへの接し方も変わるかもしれません。今、世界ではこんな育ちをしている子どもたちが求められている気がします。