CULTURE | 2019/05/14

元『R25』編集者が故郷・秩父で雑誌を創刊。地域の新たなブランディングを考える。【連載】友清哲のローカル×クリエイティブ(3)

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かつて首都圏を中心に人気を博したフリーペーパー『R25』の元編集者が、故郷である埼玉県秩父市で雑誌を立ち上げた。なぜ今、ローカルに題材を求めたのか? そして、制作や広告営業、流通の手配など、知られざる雑誌創刊の舞台裏を、『ちちぶmagazine』編集長、相馬由子さんに聞いた。

聞き手・文・構成・写真:友清 哲

友清 哲

フリーライター

旅・酒・遺跡をメインにルポルタージュを展開中。主な著書に『この場所だけが知っている 消えた日本史の謎』(光文社知恵の森文庫)、『作家になる技術』(扶桑社文庫)、『一度は行きたい戦争遺跡』(PHP文庫)、『物語で知る日本酒と酒蔵』『日本クラフトビール紀行』(ともにイースト新書Q)、『怪しい噂 体験ルポ』『R25 カラダの都市伝説』(ともに宝島SUGOI文庫)ほか。

相馬由子

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1976年、埼玉県秩父市生まれ。早稲田大学第二文学部卒。株式会社リクルートでフリーマガジン『R25』『L25』創刊、編集に携わった後、2010年に独立して合同会社ディライトフルを設立。2018年秋に『ちちぶmagazine』を創刊し、初代編集長に就任。

かつては嫌悪していた故郷の街

秩父市番場町生まれの相馬由子さん。昨秋、故郷を題材に『ちちぶmagazine』を創刊した

「昔は地元がイヤでイヤでたまらなくて、とにかく一刻も早くこの街を出たいとばかり考えていました」

そう明かすのは、自らの故郷である埼玉県秩父市を題材としたローカル誌、『ちちぶmagazine』の創刊編集長を務める相馬由子さんだ。

埼玉県の北西部に位置する秩父市は、県内で最も広大な面積を持つ、人口6万人強の自治体である。秩父山地に囲まれた立地ゆえ、どうしても雄大な自然のイメージが先行するが、秩父神社の門前町として栄えた歴史を持ち、古くからの文化が多く残された地域だ。

『ちちぶmagazine』は、そんな秩父にゆかりのある有志によって昨秋立ち上げられた定期刊行誌で、この春に2号目を発行したばかり。特定の地域を対象とするローカル誌は全国に数多存在するが、フリーペーパーやWebメディアの形態をとらず、書店やコンビニで流通する商業誌としてこの手の雑誌を成立させている例は意外と少ない。

それだけ多大な労力とリスクを伴うわけだが、相馬さんはなぜ、嫌悪していた地元をモチーフに媒体の立ち上げを思い立ったのか――。その疑問を解く前に、もう少し彼女の“地元評”に耳を傾けたい。

「私が通っていた中学校はけっこう荒れていましたし、周囲の大人たちを見ても、同級生のヤンキーがそのまま大人になったような人が多く、そのことに強い抵抗感を感じていました。一方、勉強ができる子は真面目なガリ勉ばかりで……。私もそう思われていた1人なのかもしれませんが(笑)、この街にはヤンキーかガリ勉しかいないのかと、どうしても馴染めずにいたんです」

あるいはこれは、秩父にかぎらず地方出身者の一部に共通する、“はしか”のような悩みなのかもしれない。とりわけ祭りが盛んな秩父では、威勢のいい大人の姿が目立ったことも、多感な時期にはネガティブに作用したようだ。

ちなみに当の相馬さんはといえば、「ヤンキーにもガリ勉にも属さない、サブカル好きなマイノリティ」というのが自己分析。周囲とあからさまに反目することはなかったが、常にどこか閉塞感を抱えながら、ひっそりと時間をやり過ごすように生きていたと振り返る。

「もちろん大人になった今は、彼らは“ガラが悪い”のではなくて、秩父という街ならではの“気質”だと理解しています。でも当時は、そんな環境から抜け出したい一心で勉強し、高校は熊谷市内にある進学校に進みました。そこで、ようやく映画や音楽の話題で盛り上がれる友達ができ、ホッとしたのを覚えています。もう秩父のコミュニティには戻りたくないと、心から思っていましたね」

かつては嫌悪していた故郷の街

秩父山地の風景。豊かな自然に囲まれるこの地域は、7世紀に武蔵国に組み込まれるなど長い歴史を持っている

いつか出版に関わる仕事に就きたいとの思いは、漠然とではあるが早い段階から携えていた。早稲田大学では文学部に進んだのも、そうした気持ちの表れだった。

しかし、団塊ジュニアにあたるこの世代の就職戦線は苛烈で、まだまだ花形であった出版業界は極端な狭き門。そこで正規ルートを断念した相馬さんは、在学中からアルバイトをしていた編集プロダクションにそのまま勤めることに。業界の一角にさえいれば、キャリアを積んでからの横移動は比較的容易だろうと目論んだからだ。

そして、編集者兼ライターとして3年ほど働いたところで、1つの転機が訪れる。

「ある女性誌の企画会議に参加したとき、何かにつけて『いや、普通のOLはそんなの興味ないでしょ』とか、『普通のOLはもっとこうなんじゃない?』などと言われ、普通のOLって何だろうと疑問に思ったんです。なにしろ自分自身にOL経験がないので、まるでピンとこないんですよ。だったら、出版の仕事はある程度覚えたし、一度はOLというものを経験してみようと考えました」

そこで退職を決意し、派遣会社に登録。紹介されたのが、求人情報誌など多くの雑誌を発行するリクルートだった。といっても、当初の職種は編集ではなく一般事務。これが性に合わず苦しかったと相馬さんは述懐するが、ほどなく社内で声がかかり、新たな媒体の立ち上げに参加することになる。それが『R25』の創刊準備室だった。

本創刊の前に、4週限定で発行された『R25』のプレ創刊号。ライトなノリと適度なボリューム感で人気を博した

『R25』は2004年に創刊した、25~34歳の男性サラリーマンをターゲットとしたフリーペーパーで、創刊号から1都3県で50万部を配布したビッグプロジェクトだ。通勤中に気軽に読めるボリューム感や、政治経済からカルチャーまで幅広い時事ネタを押さえている点が支持され、『R25』は瞬く間に人気メディアにのし上がった(※現在の『新R25』はサイバーエージェントが引き継いだ別メディア)。

やがて部数や配布エリアを拡大しながら、一方ではラジオ番組を手掛けたり、Web版を立ち上げたり、さらに女性向けの姉妹誌『L25』を創刊するなど、『R25』はメディアの世界を縦横無尽に席巻し続けた。相馬さんもまた、数少ない生え抜きメンバーとして忙殺される日々を送ることに。「普通のOL」を経験するつもりで出版の現場を離れたはずが、こうしてメディアの最前線で揉まれることとなったのは、面白い巡り合わせと言える。

「一生に一度は、自分で雑誌をつくってみたかった」

相馬さんがリクルートを去ったのは、2010年のことだ。激務に追われる毎日に、「こんな働き方でいいのだろうか。将来的には子供も欲しいし……」と、独立を決意したのだという。

実際、相馬さんはその2年後に出産を経験し、家事や育児を両立しながらフリーランスとして活動を続行。そんなある日、風の噂で小学校時代のクラスメートが、都内で出版社を経営しているらしいとの情報が飛び込んできた。

「まさか、私のほかにも出版の仕事に就いた人が地元にいたなんて、ちょっとびっくりしました。しかもその同級生、私の記憶では全く勉強ができるタイプではなかったんですよ(笑)」

噂の主である保泉昌広氏と再会を果たしたのは、昨年の正月に催された同窓会の場だった。夫婦でキラジェンヌ株式会社という出版社を営む保泉氏からしても、『R25』をはじめメディアの最前線でキャリアを積んできた相馬さんとの再会は、1つのキーポイントだったのだろう。旧交を温めた2人が、故郷・秩父という共通言語で盛り上がるのは自然な流れだった。

「秩父ではここ数年、一度は地元を離れた30代以降の若い世代が戻ってきて、カフェを開いたりビジネスを立ち上げたりするケースが増えているんです。お互いにそんな流れに注目していたことから、メディアを使って何かやれないかという話になりました。不思議なもので、あれほど嫌っていた街なのに、この歳になると“何か少しでも地域に貢献できることはないだろうか”と考えるようになるんですよね(笑)」

相馬さん自身、少しずつ活気を帯びつつある故郷をさらに盛り上げようと、この少し前から、自腹でフリーペーパーを立ち上げる構想を持っていた。両者の再会が、このアイデアを加速させることになる。

「保泉は早い段階から『うちならフリーペーパーじゃなく雑誌で出せるから、ぜひやってみようよ』と言っていましたが、最初は話半分に聞いていました。雑誌を立ち上げるのは大事業で、とても現実的とは思えなかったからです。それでも、次に会った時に保泉は詳細な企画書を手にしていて、彼がこの計画を本気で考えていることがわかりました」

この初期の企画書には、雑誌のコンセプトやターゲット層、さらに刊行後のプロジェクト案など、具体的なイメージが盛り込まれていた。これを目にしたとき、相馬さんは自身の中にも着火するものを感じたという。

「もともと心の片隅に、こうして編集者になったからには、一生に一度は自分で雑誌を立ち上げてみたいという思いがありました。これはたぶん、『R25』というメディアの創刊とその後の勃興に、間近で立ち会った経験が影響しているのでしょうね」

保泉氏との出会いは、まさに渡りに船のチャンスだったわけだ。かくして、相馬さんたちは秩父に地縁のある協力者を集め、本格的に雑誌づくりに乗り出すこととなる。

新雑誌創刊の前に立ちはだかる数々のハードル

秩父鉄道・秩父駅ホームからの風景。大自然を間近に臨むが、交通網が整備され、近年ではUターン組が後を絶たない

1つの雑誌を創刊するというのは、並大抵の事業ではない。コンテンツをつくって印刷、製本するだけで多額の固定費が発生するし、流通ルートを確保するのも決して簡単なことではない。

単に本をつくるだけであれば、出版社を経営する保泉氏にとってお手の物。誌面づくりに関わるライターやカメラマンといった人材集めに関しても、相馬さんのこれまでの人脈を駆使すれば十分に賄える。しかし、資金集めや流通など、まだまだ課題は山積みだった。

「そもそも、秩父の地域誌を謳いながら、東京の出版社が出しているのでは、読者の共感を得られにくいのではないかという懸念もありました。そこでまず、地元の経営者などに『ちちぶmagazine』の構想を売り込んで、出資を募ることにしました。その結果、約350万円の資金が集まったので、これを資本金に秩父シティプロジェクト株式会社という会社を登記して、発行元に設定したんです」

次の問題は流通だ。そもそも出版業界は、取次会社を介さなければ、全国の書店に商品を行き渡らせることができない仕組みになっている。しかし新雑誌の創刊となると取次会社は慎重で、すんなり認められることはまずあり得ない。毎号決まった期日に商品を供給できなければ、読者や書店の信頼を損なうため、十分な実績と信頼が求められるからだ。

しかし、保泉氏が営むキラジェンヌでは、すでに『veggy』という、ベジタリアン向けの雑誌を発行している。実績ある『veggy』の増刊号扱いとすることで、取次会社との取り引きは比較的スムーズに成立させることができた。これは出版業界ではよくある裏技だ。

こうして雑誌づくりの環境は順調に整いつつあったが、資金集め、つまり広告営業はやはり大きなネック。この時勢、雑誌に広告を打とうというクライアントを見つけるのは至難と言える。

「私たちの場合、まだ存在しない媒体についてプレゼンし、広告費を出してくださいとお願いしなければならないわけですから、なおさら困難でした。せめて見本として見せられる実物があればまだ営業トークもしやすいのでしょうが……。結局、創刊号については『とにかく1冊、つくっちゃおうよ』という保泉のひとことで見切り発車したところが大きいですね」

懸命な営業活動に奔走し、どうにか最低限の広告出稿を確保し、記念すべき『ちちぶmagazine』は2018年11月に産声を上げた。

創刊号の好評を受け、Vol.2は2万5000部を発行

多くのゲストを集めて催された出版記念パーティーの冒頭で、感謝の言葉を述べる相馬さん(中央)。なお、左が保泉昌広氏、右は『ちちぶmagazine』でマネージャーを務める佐々木信氏。いずれも秩父出身者だ

創刊号の発行部数は1万5000部。ローカル誌としては異例というべきこの部数に、取次会社が理解を示したのにはわけがある。

「既存の雑誌が秩父地域を特集すると、地元でよく売れるという話を地元の書店の方から聞きました。ひょっとすると、そういった過去の事例が追い風となったのかもしれません。取次会社の側に、この地域の住民は雑誌を読む習慣があるという認識がなければ、これほどの部数を成立させることは不可能だったのではないかと思います」

果たして、秩父エリアの書店やコンビニを中心に売り出された創刊号の反響は上々だった。売れ行きもさることながら、相馬さんの実家に感想の電話が寄せられるなど、地域から好意的に受け止められた。

「創刊号では、300年以上続く秩父夜祭の特集を組みました。市民にとって馴染み深いお祭りですが、謂れや歴史をちゃんと知っている人は意外と少なく、まして秩父神社の宮司に話を聞く機会などそうはありません。実際、あらためて自分が暮らす街のことを知る、いい機会になったという声を多数いただきました」

では、事業としての成否はどうか。大まかに考えて、1冊あたり300万円超のコストが必要となる。いくら良質のコンテンツを提供して市民を喜ばせたとしても、大赤字では継続できない。

「正直、私たち中心スタッフが役員報酬を得るには至っていませんが、収支としてはトントンですね。今はライターやカメラマン、デザイナーの皆さんに支払う人件費や印刷費などの制作費で精一杯。それでも、実際に1冊の雑誌として形になったことで、2号目以降の広告営業は格段に楽になりました」

去る4月に発行された『ちちぶmagazine』Vol.2は、さらに部数を増やして計2万5000部を発行。雑誌として立派な数字と言える。さらに目を引くのは、随所に掲載される大口スポンサーの広告だ。たとえば表2(表紙の裏面)の部分には、西武グループの出稿があり、2号目にして大手クライアントとのパイプを確立している様子が窺える。

「1号目をつくってみて、この地域で雑誌をやるなら西武鉄道と秩父鉄道の協力がなければ不可能だということを痛感しました。そこで2号目をつくるにあたり、西武グループが駅前で営んでいる温泉施設に飛び込み営業をかけるなど、さまざまなアプローチを試みましたが、そう簡単に事は運びません。考えうるかぎりのあらゆる人脈を駆使し、なんとか西武ホールディングスの方との繋がりを見つけて、直接広告の提案をさせてもらう機会をいただいたことで、今回の出稿が決まったんです」

地盤を支える鉄道会社の協力は、流通や取材対応など多方面で後ろ盾となるはず。編集長として、相馬さんはホッと胸をなでおろしたのだった。

地域の新たなブランディングを考える

出版記念パーティーには久喜邦康・秩父市長も登壇。スピーチで『ちちぶmagazine』への多大な期待を語った

去る4月20日(土)、秩父市内のレストランで『ちちぶmagazine』第2号の出版記念パーティーが催された。

制作関係者はもちろん、地域住民やクラウドファンディングによる出資者など大勢のゲストを集めて開かれたもので、相馬さんは会の冒頭ですべての協力者に対する感謝を述べた。このパーティーには秩父市長も出席するなど、『ちちぶmagazine』に対する地域の並々ならぬ期待を感じさせる。

ひとまず、『ちちぶmagazine』の創刊プロジェクトは大成功と言っていいだろう。かつてあれほど嫌悪していた故郷に対して相馬さんは今、次のように語る。

「やはり、地元を離れて初めて気づく魅力というのは多いですよね。秩父の人たちは謙遜も含めて『何もないところだ』と言うけれど、都心から近いのに自然が多く残されている点や、それなりの商圏があるのに観光地化され過ぎていないのは、間違いなく長所です。何より、これほど地元愛に溢れる人々が多く暮らしていることを、雑誌をつくる過程で初めて知りました」

次号の制作を前に、県庁からの逆アプローチもあるなど、今後は自治体を巻き込んだ新たな動きが見られるかもしれない。ゆくゆくは秩父シティプロジェクトを出版社として育て、発行も発売も秩父の会社で賄うという目標もある。

他方、メディアを通して相馬さんが新たに目指すのは、秩父の新たな魅力をブランディングすることだ。

「UターンやIターンなど、移住者の誘致については各自治体が躍起になって進めていますが、秩父は従来とはまた異なるブランディングが可能ではないかと感じています。たとえば、冷涼で首都圏からのアクセスがいい秩父は、都心との2拠点生活に適しているはず。移住となるとハードルが高くても、別荘感覚で気軽に使うスポットとしては、これほどバランスのいい地域は他にないのでは?」

地域の魅力を掘り起こし、発信し続けることで、この目標は遠からず実現するに違いない。その時、『ちちぶmagazine』はローカル誌の新たな可能性を切り開くモデルケースとして、いっそうの注目を集めるはずだ。


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