ITEM | 2018/05/07

世界は地道な努力で変えられる―ナンバーワンを目指す兄弟の奮闘録—【ブックレビュー】


神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏...

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神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

デンマークで生まれ育った日本人兄弟が、南米のアルパカに至るまで

皆が平等に幸せになることはできないのか。そう思う誰しもが、その実現不可能性を目の当たりにして絶望する。井上聡・井上清史(取材・執筆:石井俊昭)『僕たちはファッションの力で世界を変える』(PHP研究所)は、それでも幸福を分かち合うことを追求してきたファッションブランド「ザ・イノウエブラザーズ」によるものづくりの足跡から、勇気を得られる一冊だ。

本書の大半は、取材によって井上兄弟の過去を客観的に描写した文章で展開される。取材者の石井氏は、彼らとその時間全ては共にしていないにも関わらず、歴史小説家・塩野七生の『ローマ人の物語』シリーズのように、あたかも時間を遡って二人の横にいたかのように細かい心の揺れ動きまで掬いとっている。合間合間には井上兄弟が書いた文章や、母が書いた文章が挿入される。ザ・イノウエブラザーズを知る人も知らない人も、彼らの実像を描くことができる構成となっている。

井上兄弟は、ガラス工芸家の父と航空会社に勤める母との間に生まれ、デンマークの首都・コペンハーゲンで育った。兄・聡はグラフィックデザイナーに、弟の清史はヘアデザイナーとなり、それぞれコペンハーゲンとロンドンで活躍している。そして、その利益をザ・イノウエブラザーズの運営資金にしている。

ブランド創始のきっかけは、2000年代に入ってからムーブメントとなっていた「ソーシャル・デザイン」という考え方だった。人間の持つ想像力で、社会の課題を解決することを志向していく生き方だ。

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表層的なデザインではなく、そこに奥深い価値を見出し、もののつくり手やつくり方に敬意を払いながら、ビジネスとして成立させる。聡と清史が、懸命に探し続けながら、なかなか見つけられずにいたのは、そんな社会にポジティブなインパクトを与え、かつ、”自分たちしかできない”仕事だった。(P31)

哀れみ・同情を捨てて、対等に接することの難しさ

デンマークで二人が生まれ、出身地にも関わらず常に「異邦人」として暮らさなければいけなかった生い立ちは、二人の問題意識に大きく影響を及ぼしている。

そして、ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)として活動の方法を模索していた彼らの人生を変えた地はボリビアだった。彼らの意志を知った旧知の友人・オスカが、ボリビアにアルパカを見に行こうと誘ったのだ。オスカは大学院時代にアルパカに関する論文を書き、先住民の支援活動に携わっていたことがあったのだ。

先住民たちによるハンドクラフトやアルパカの毛並みを見て二人は感動するとともに、貧しい暮らしにも関わらず強く生きる先住民たちの姿に心を揺さぶられた。

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頭では、幸せがお金で買えないことはわかっていたつもりでも、ここにはそんな自分たちの思い込みや、さらには自分たちの思い上がりを凌駕してしまう”前向きな力”があった。(P66)

エコノミーとエコロジーは、ともに「家・家庭」をあらわすギリシャ語の言葉が語源となっている。兄・聡は本書のまえがきでそのことを紹介しているが、経済と環境保全を両立させるという彼らの目的に合致する対象と、こうして出会ったのだ。

その後、井上兄弟はボリビアでアルパカの毛を使ったニット製品などをつくり、一定の成功を納め、生産の拠点をボリビアからペルーに変えた。製品のクオリティと生産性を追求した上での、悩みに悩みぬいた決断だった。しかし、チャリティではなくサスティナブルなビジネスを志向すると心を決めていた彼らは、同情を切り捨てることに成功した。一度ビジネス・パートナーを変えることは永遠の別れを意味しない。あくまでサイクルの問題で、互いが成長してまた合流すればよいのだ。そのメンタリティはこのような言葉で綴られている。

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取引がなくなってしまった人たちと、どうしたらこの先また一緒に仕事ができるのかをいつも考えている。それはチームだから。兄弟ふたりだけではなんにもできないから。みんなの協力が結実してはじめて理想のコレクションができる。(P171)

自分の信念に従って、地道に行動と感情を積み重ねる大切さ

そんな井上兄弟にとって大きな転機になった出来事のひとつは、多くの人たちもそうであるように、東日本大震災である。震災後は東北の織物の歴史を学び、「東北コレクション」として織物をあしらったTシャツをつくり、工場の再建を支えた。

「豊かさ」とは何なのか。「幸せ」とは何なのか。東日本大震災、福島原発事故による大惨事を目の当たりにして、彼らだけではなく、日本、そして世界の多くの人々がそのことについて考えた。その結果、井上兄弟が至ったのは「ニュー・ラグジュアリー」という考え方だ。

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過去には、きらめく宝石が紛争の資金調達のために利用された歴史もあるし、様々な希少な産物は常に争いの原因になってきた。でも、そういうものは絶対にラグジュアリーと呼んではならない。つくる人も、売る人も、それを着る人も、みんなが幸せな気持ちになれるのが、本当の意味でのラグジュアリーだ。(P227-228)

こうした彼らの考え方は、世界各地へ足を運ばせるきっかけとなる。スカンジナビア、ボリビア、ペルー、南アフリカ、ナミビア、パレスチナ。本書に取り上げられている地名の中だけでも、縦横無尽に世界中を駆け回る姿を想像できる。

本書で特に強い悲しみが描かれているのは、パレスチナの状況だ。公然と民族的な嫌がらせが行われているが、権力によって誰も声を上げることができない。真っ直ぐな心の持ち主である井上兄弟は、その光景に涙する。

行ってみなければわからないこと、というものが世の中には数多くある。ニュースで紛争地と報じられている場所でも、実際に行ってみると何千、何万の人々が日々の暮らしを営んでいる。当たり前のことではあるが、様々な情報が次々と押し寄せてくる現代社会では、そうしたことは忘れがちだ。弟・清史自身の言葉で、行動を起こすことの大切さをこう表現している。

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人生において本当に大切なことは、きっと誰も教えてくれない。自らが行動を起こしてそこから学ぶことが唯一、自分にしかできない未来を切り拓くためのヒントとなるのだ。 (P273)

ザ・イノウエブラザーズのファンも、これから彼らを知る人も、その真っ直ぐな生き方に必ずや心を揺り動かされる一冊だ。