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タモリ倶楽部でも特集された「作者の気持ちを答えよ」問題にまつわる根強い誤解|矢野利裕
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  • 2018.12.20
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タモリ倶楽部でも特集された「作者の気持ちを答えよ」問題にまつわる根強い誤解|矢野利裕

Fast&Slow / PIXTA(ピクスタ)

矢野利裕

批評家/ライター/DJ

1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。

blog:矢野利裕のEdutainment

「作者の気持ちを答えよ問題」は入試に存在しない

じわじわと入試シーズンになりつつある時期です。12月7日(金)放送の『タモリ倶楽部』では、現代文入試を題材にした「作者の気持ちを作者は解けるか」という企画が行われました。ライターの武田砂鉄氏の文章を採用した花園大学の入試問題を「作者」である武田氏を含めた出演者陣で解く、というものです。『タモリ倶楽部』は好きで、毎週欠かさず観ているのですが、この回は特に、現代文の教員として興味深く、また楽しく観ました。

参考:受験業界震撼の問題企画「作者の気持ちを作者は解けるか」作者本人が入試問題に挑戦し採点者とバトル!! #タモリ倶楽部
https://togetter.com/li/1296287

この手の話題の際、しつこく強調していることがあります。それは、現代文の問題として広くイメージされているような、「作者の気持ちを答えなさい」という設問は実際にはない、ということです。現代文の問題で求められることは、基本的に、文章として与えられている情報を読み取ることであり、書かれていない「作者の気持ち」を問うなんてことはありえない。「気持ち」が問われることがあるとすれば、それは、小説における作中人物の心情でしょう。いずれにせよ、本文に根拠を求めるのが大前提です。国語教育につきまとう「作者の気持ちを答えなさい」的なイメージを指して、一部では(?)「非実在国語問題」と言われていました。

もっとも、評論文の場合、文意を問うにあたって、「筆者の主張」「筆者の考え」という言い方をすることはあります。便宜的な意味合いも含まれているので、この言い方に異論がある向きはあるかもしれません。また、こんなことを書いておきながらアレですが、実は昨年、僕の評論が某私立大学の入試に採用されたのですが、その問題の中に「筆者の意図」を選択肢で問うものがあって驚いた、という経験もあります。小説ではなく評論文の読解なので、もちろん正解を絞ることが可能なものだったのですが、それが「筆者の意図」という言い方で問われたことに違和感を覚えたのは正直なところです。

したがって、問い方について個別のケースで議論の余地があることは確かでしょう。また、テストで示された正答に対して疑問符がつく、という問題も、常に起こりうるでしょう。あるいは、正解主義的かつ道徳主義的な国語による「道徳的に「正しい」心の動き以外は「まちがい」だとされる」(石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書)ことへの反発もあるかもしれません。国語教育が抱える問題もたくさんあるので、そのような個別の批判はあってしかるべきです。しかし、少なくとも国語教育全体の立場として、書かれていない「作者の気持ち」を問うということはないのだ、偏見まじりのイメージなのだ、ということは強調しておきます。

このような偏見まじりの物言いは、国語教育に対する雑な嫌味として見かけることが多いので、国語教育に関わる立場からすると腹立たしくなるときもあります。その意味では、今回の「作者の気持ちを作者は解けるか」という企画タイトルも、そのような偏見を再生産するところがあり、その点は複雑な気分ではありました。さらに言うと、ゲストの武田砂鉄氏も、かつて著書の中で、東京オリンピック・パラリンピックの宣言文に言及する際、若干嫌味たらしく「「現代文のテストにありがちな問い、「以下の文章を読み、書き手が最も伝えたかったことは何だったのか、二五字以内でまとめなさい」に臨むつもりで宣言文をゆっくりと精読していただきたい」(『紋切型社会』朝日出版社)と書いていたことがあったので、観る前は、「偏見まじりの国語教育批判に向かったらイヤだな」と少し不安なところもありました。

しかし、実際に観たら、そんなことはなくとても楽しかった。なにより良かったのは、出題側である花園大学文学部の今井隆介准教授が出演していたことです。この今井氏と武田氏のやりとりが笑えて、とても面白かったです。笑えるだけでなく、「作者」側/入試作成側双方の立場と論理が示される意義深いものでした。

国語教育は「自由な小説」の敵なのか

さて、議論が噴出するのは、やはり小説。以前、小説家の磯崎憲一郎氏は、自身の著作『鳥獣戯画』をめぐる対談の中で、次のように言っていました。

小説というのは、同じ文字で書いてあるけれども新聞とか論説文の仲間ではなくて、絵とか音楽の仲間なんですよ。小説は、論理とか、差異の体系であるところの言語におさまりきらないものを言葉というものを使ってあらわしている芸術だから、まさしくそこを描かないといけないんですよ」と述べたうえで、次のように言っています。(中略)みんなそこのところを間違えていて、いまだに傍線部の作者の意図を書きなさいという問題が中学、高校の現代文のテストには出るわけです。作者の意図なんて、作者だってわからないのだから、そこを設問にしてはいけないのです。(磯崎憲一郎・中島岳志「「与格」がもたらした小説」『群像』2017.12)

このように、小説の自由を強調するために、中等教育の「現代文」が不当に批判をされているのを見ると、やはり腹立たしさを感じます。時期的に、まさに『鳥獣戯画』の「音楽」的な魅力を賞賛した書評を書いたところだったので、なおさらでした。くり返しますが、誰にもわからない「作者の意図」を問うことはないのです。ましてや、小説において。だから、事実誤認です。「言語におさまりきらないもの」という領域をブラックボックス的に想定して国語教育と対立させる、という構図が先立っている印象を受けます。一般的に、教育が自由を抑圧するという疎外論的な図式は、あまりにも単純で不誠実なものだと思っています。

とは言え、「現代文」のテストが読解の枠組みなり方向性をある程度誘導してしまうのは、確かでしょう。個人的な経験としても、表現の優れた小説であればあるほど、例えば読解に関わる選択肢で本文の言葉を別の言葉で言い換えるという行為に、出題側の暴力性を実感することがあります。その意味では、磯崎氏のいらだちも理解できます(その上で、やはり不当だとは思いますが)。

では、「現代文」という教科は、どのような読解の方向性を与えるべきなのか。抜本的な改革がありうるのか。このことは、今後も考えていくべきことです。というか、大学入試共通テストと新学習指導要領の導入によって、「現代文」に限らず、今まさに中等教育の現場は大きく揺れています(参考:中村高康『暴走する能力主義』、紅野謙介『国語教育の危機』、ともに、ちくま新書)。そこでは、適度にナショナリスティックでありつつグローバルな資本主義にも適応可能な、コミュニケーション能力に長けた主体が、ますます要請されている印象を受けます。そのこともまたいずれ。


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