ソーシャルメディア、コンテンツのマネタイズにブルーオーシャン…。濃密な対話から文字に起こした単語はいかにもありふれたビジネス用語のようだが、さにあらず。その実、深い含蓄にあふれている。なぜなら今回のインタビュイーは、懐かしきiモード全盛の時代からスマートフォン時代にわたって、数々のコンテンツを大ヒットに導いた人だからだ。
「アニマックス」「AXN」といった衛星放送チャンネルや、ソニー・デジタルエンタテインメントを立ち上げ『The World of GOLDEN EGGS』をはじめとするデジタルコンテンツを生み出した福田淳氏。
カリスママーケッターの本質に迫る貴重なインタビューの前編では、彼をかたちづくった少年時代の原体験から、ビジネスにおける薫陶を授けた大恩人からの教えまでを追う。
聞き手・文:米田智彦 写真:神保勇揮 構成:年吉聡太
福田淳(ふくだ あつし)
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1965年大阪府生まれ。日本大学芸術学部を卒業後、東北新社を経て1998年よりソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントでスカパー!「アニマックス」「AXN」を立ち上げる。2007年にソニー・デジタルエンタテインメント・サービスを創業し社長に就任。2017年に同職を退くまでに、数々のモバイルコンテンツを大ヒットに導いている。11月には『SNSで儲けようと思ってないですよね? 世の中を動かすSNSのバズり方』を小学館より上梓。
お金にコミットする映画少年
FINDERS編集部オフィスで行ったインタビュー。弊誌編集長・米田(写真左)は2017年11月に刊行された福田の著書刊行パーティにも出席した。
−− Facebookでは世界中を駆け巡っている福田さんのお写真を拝見しているのですが、福田さんがいったい何者なのか、いまひとつわからないんですよね。
福田:本当ですよね。こんな寒い日本にいるのは久しぶりです(取材が行われたのは2018年1月)。
−− Facebookで、いつもリゾーチ地など世界中てパーティピーブルに囲まれてポーズを取られている写真を見ていると、さらにわからなくなってきます(笑)。
福田:ついさっも、DMMの片桐(孝憲)さんから「福田さんって何をやって暮らしているんですか?」って言われましたよ(笑)。
−− そもそも、学生時代には映画監督を目指してらしたんですよね?
福田: 14歳くらいのときに『スター・ウォーズ』や『ヤング・フランケンシュタイン』『グリース』を観てハリウッド映画の虜になったんです。それで映画監督を目指すようになって。
通学路に街のカメラ屋さんがあったんですが、そこで中古の「シングルエイト」(富士フイルムが開発した8mmフィルムの規格名と、その撮影カメラの通称)が3,000円で売ってたんです。当時の僕のお小遣い3カ月分くらいで買えたんですが、いざ買うまでフィルムと現像代が必要だってことを知らなくって。
−− (笑)。
福田:近所のダイエーで期限切れのフィルムが100円で売っていたので、まとめ買いをして。現像には1本あたり300円かかるので、撮影しているとだんだん懐がキツくなるわけです。最初は家族を撮ったりしていましたが、「これはフィルムを大切にしなきゃいけない」ということでドラマをつくり始めたんです。このあたりからすでに発想がビジネスマンなんですけど、ドラマをつくって賞をとって箔を付けないとファイナンスがないなと思ったんですね。
−− 中学生でエンタメのファイナンスを考えるとはかなり早い!
福田:早いでしょう? 何本か撮って、そのまま立命館大学の映画研究会に入ったんですよ。なぜ中学生を入会させてくれたのか、今となってはさっぱりわからないけど。
当時、大量の作品を撮りましたが、中には高く評価されるような短編ドラマも生まれたんです。中3のとき、それらをお金をとって上映しようと企てました。ただ、無名の自分がやっても集客がないのは分かっていたから、『砂の女』(安部公房原作・勅使河原宏監督、1964年)を16ミリで借りて同時上映にしたんです。そしたら雑誌「Lマガジン」(関西の「ぴあ」みたいな存在だった)が取り上げてくれて。お客さん1人あたり300円くらいとったんですけど、結果黒字でしたね。
高校生になってステップアップしたくって、いろんな映画監督に手紙を出しました。大林宣彦さんとか大森一樹さんとか…。そのなかで、高林陽一さんが僕の映画を観て面白いと言ってくれて。「16mmを撮りたいんです」と言ったら、30万円を出してくれたんです。
−− すごい!
福田:ただ、その映画は完成させられなかったんです。僕にとっては大きな挫折で、熱を出して寝込んじゃったくらい。挫折のままに大学受験をするんですが、大学では日芸に行って16mmを撮り始めました。当時は大学生でも8mmどまりでした。でも、今度は演劇に目覚めたりして。
つまりは、堪え性がないんですよね。最近では「プランド・ハップンスタンス・セオリー(Planned Happenstance Theory)」なんていって、偶然に身を任せるキャリアでいいという考え方も出てきていますが、そういうことなのかなと。ひとつのことを続けてきたわけではないけれど、演劇でも映画でも、人を楽しませたいとか豊かな気持ちにさせたい、潤いを提供したいという気持ちは同じです。だから、8mm映画制作が僕の原点になっているのかな。
夢と数字の両方をパッケージにしないとビジネスは成功しない。
−− 大学を卒業されてからはどうされたんですか?
福田:東北新社という制作会社に採用されて、CMのプロマネ(プロダクションマネジャー)をやっていました。当時はバブル全盛で、コカ・コーラのCMのほとんどをやりましたね。
−− 東北新社は映画配給会社でもありますね。東北新社には何年いたんですか?
福田:9年間ですね。最後の3年は、創業者・植村伴次郎のカバン持ちをやっていました。この方が、僕のビジネスの原点。LAからパリ、カンヌと世界中連れていってもらいました。ものの考え方や経営からインテリアデザインまで、全てにおいて植村さんから影響を受けていて、この方がいなかったら今の僕はありません。
−− ビジネスマンという点で、植村さんから何を学ばれましたか?
福田:植村さんは元々、新橋でバー「COMO」を経営されていたんです。その店には、当時まだ売れない役者だった黒柳徹子さんたちがいらしていて。
−− 1950年代のお話ですね。
福田:その他にも浅利慶太さんをはじめとする劇団四季の人たちが来ていて。植村さんはそのときエンタメ業界に触れて、自分も何かできるんじゃないかと考えたそうです。
当時テレビでは『ララミー牧場』や『スパイ大作戦』といったアメリカのドラマが放送されていましたが、業界は草創期。日本語吹き替えというのはまだ「産業」になっていませんでした。植村さんはみんなのギャラが安いという話を聞いて、『ララミー牧場』の吹き替えを引き受けるとテレビ局に営業に行ったそうです。当時、テレビ局は1日1本収録してらお終いというつくり方をしていたんですけれど、植村さんはみんなにギャラを2倍払うから3本まとめ撮りさせてくれと交渉したんです。コストを抑えながら売上を上げる手法で東北新社は大きくなったんですね。
−− 非常に合理的に考える方だったんですね。
福田:植村さんは誰も気づかないことをビジネスにして大きくする天才。彼からは、細かいことから大きなイマジネーションを生む発想力を教わりました。
−− 当時のことで何か印象的なエピソードはありますか?
福田:たとえばVHSが出たとき、「福田君、私は毎朝起きたらVHSを何とか事業化することを考えているよ」っておっしゃっていました。当時はレンタルビデオのサービスが始まったばかりで、映画館に行かずに映画が観れるだけですごいという時代。でも、植村さんは、コンビニで売っている雑誌にビデオを付けたら「未来のマガジン」になるんじゃないかなんてことを考えていたみたいです。
−− それは先進的ですね。
福田:VHSのプラスチックのケースをつくるのに原価が高すぎるので、アメリカに飛んで安くて分厚い紙を探してくるなんてこともやりました。それが軌道に乗ってくると、今度はダビングだってことで東京の等々力にVHSのダビング工場をつくって。「クリエイティブとビジネス」という観点からすると、こうした事業は必ずしもダイナミックな話ではないかもしれません。ただ、これは「日常を細かく見る」ってことなんですよね。それと、植村さんは数字が大好きでした。
−− 数字が大好き、ですか。
福田:それも生半可な数字好きじゃなくて「1の単位」まで言えないと本物じゃないとおっしゃるくらい。映画の買い付けにカンヌに行ったときにも、買った金額やどれくらいで売れるかをそらで言えないと怒られました(笑)。やっていることと数字を一体で言えるようなビジネスマンに育ててくれましたね。特に数字の裏にあるものが何なのかと考えるようになりました。
−− 数字の裏とは?
福田:植村さんは、数字に限らず人の心の裏側が一瞬でわかるような方だったんです。だから、嘘はいけない、隠しごとをしてはいけないと思って、都合の悪い情報でも早く伝えるようにしていました。「ここで失敗して2億円損しました、この損失はこうカバーしようと思います」と言ったら、「なら、それで進めて」となる。さらに、「こうすれば、さらに3億円の利益を出せるんじゃないの?」ってことにもなる。ビジネスをジェネレートしていくことがクリエイティブであり、そのゴールにあるものが社会にとっていいことになるってことだけを考えていらしたんです。
経営者の中には夢で語る人もいれば数字で語る人もいますが、その両方をパッケージにしないとビジネスは成功しない。僕はいっぱい失敗しましたけど、プラスマイナスでいったらかなり成功していると思います。
情報を鵜呑みにせず、まずは「行ってみる」
LINEスタンプとして販売されている「偽フクダデスガ」。販売ページには「ホンモノのフクダが困っている。偽フクダデスガが、好き勝手にパーティ行って食い散らかしたり、酔って騒いでダンスしているからだ」とのキャプションが。ちなみに価格は120円。(C)Sony Digital Entertainment
福田:僕という人間は、遊んでばっかりな人。遊んでいると、同じように街で遊んでいる友だちがいて、彼らは新しいものが好きなわけです。2011年に『LINE』が世に出たときも、「やってみたら?」とiPhoneに勝手にダウンロードされました。「メールで十分だよ」って言っていたんですけどやってみると面白くて、翌週にはNHN Japan(現:LINE)に行っていました。
−− 実際に足を運ばれたのですね。
福田:僕は、用事があればすぐに行くんです。それこそ世界中どこでも。それは植村さんと同じです。植村さんは、ミラノに素晴らしい生地があると聞くと次の週には足を運んでいましたからね。好奇心があればそのまま表現していく。
LINEの場合、僕は「これはもしかしたら絵文字の進化系がスタンプなのかな」とすぐ分かりました。「ブルーオーシャン」という言葉もありますが、その「もっと前」ですよね。そこに何もないと思ったとき、マーケットがないだとか様子を見ようと考えるのではなくて、実際に行く。それを繰り返してきただけです。
−− 福田さんはご著書(『SNSで儲けようと思ってないですよね? 世の中を動かすSNSのバズり方』〈小学館刊〉)でも「一次情報が大切だ」と仰ってますよね。
福田:そうです。そして、一次情報って街にしかないんですよね。世界には70億人いるけれど、ネットにつながっているのはせいぜい25億人。街の情報は、生で触れて五感で分かるものです。現場に行かないで誰かが言ったことを鵜呑みにしていると、自分で考える力がなくなるんですよね。僕は常に「これは本当なのかな」って疑いますがそれは、ある種の好奇心だと思います。
−− 植村さんの下での3年間を終え、そのままソニー・デジタルエンタテイメントを立ち上げるわけですか?
福田:いやいや。東北新社を辞めたあと、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(以下ソニー・ピクチャーズ)が「JスカイB」(スカパー!の前身)に資本参加するタイミングで、コンサルとして参加しました。そのままビジネスデヴェロップメントの責任者としてヴァイスプレジデントになったのですが、立ち上げた「アニマックス」「ANX」がすぐに黒字化したところで、ちょうど「iモード」がスタートするわけです。
−− 1999年のことですね。
福田:ならばゲームのライセンスや待ち受けの部門をつくろうということで、「ソニーピクチャーズモバイル」という部門をつくったんです。
−− 2つの事業を掛け持ちされていたんですね。
福田:同じころ、JスカイBにおいて、邦画と洋画の売れ筋が逆転するんです。アニマックスでアニメは売れるけど『007』シリーズは売れないという現象が起きてくる。しばらく経ってからハリウッドのソニー・ピクチャーズ本社から「君は日本のアニメを売っとるらしいな」と言われました。「はい」って答えると「(日本のアニメは)要らない」「じゃあ辞めます」と言って2007年につくったのが、ソニー・デジタルエンタテインメントです。ただ、初年度の売り上げは1,000万円。全然儲からなかったんですね。
−− そのとき社員は何人くらいいらっしゃったんですか?
福田:4人くらいでしょうか。決算書の読み方を本で読んで勉強することから始めるくらい、何も知らなかったんですが、2年目から大黒字になるんです。それは『The World of GOLDEN EGGS』(2005年1月より本放送開始)という大ヒット作が生まれたから。プラスヘッズというクリエイティブハウスとMTVと組んでつくったアニメーションなんですけど、大ブームになって。音楽ライヴを赤坂BLITZでやったらチケットは速攻売り切れ、グッズも大売れ。何をやっても大売れなんです。iモードでは3キャリアがお金を集めてくるので、営業マンもいらないんですね。だから、ヒットコンテンツさえ出せばこっちのもの。社員も20人くらいまで増えましたが、死ぬほど儲かりましたね。
−− すごいですね!
福田:でも、第2シーズンまでつくったところでいろいろ上手くいかなくなって、第3シーズンはやらないって話になっちゃった。でも、同じアニメーターが『低燃費少女ハイジ』という日産自動車のCM向けのアニメをつくって、これも大ヒットした。それに関連するマーチャンダイジングなどで再び儲かったけれど、CM契約が終わると同時に、売り上げはゼロ。
−− 山あり谷ありですねえ。
福田:折しもスマホが出始めの頃で、パケット代が加算される世界から定額制の料金体系へと移行するタイミングです。いま思えば、このとき初めて広告モデルとモバイルインターネットがつながったんですよね。無料モデルを考えた末に、クライアント営業を考えるようになりました。広告関係にはツテがありましたから、さあこれからはクライアントワークをやろうと動き出したわけです。
iモード関連事業を一緒にやっていた人たちの多くはそのまま船に乗り続けましたが、その船はみんな沈みました。あのとき課金ビジネスにしがみついていたら、僕もたぶんダメだったでしょうね。
−− 先を見渡すことに長けていらっしゃったわけですね。
福田:その判断も、誰かが教えてくれたわけではありません。あえて言うなら、それはやはり植村伴次郎という人の存在が大きかった。彼は、常に1つの分野で3本の矢を放っている状態にしておけと言っていました。3つの柱を残すためには、それこそ8個、12個の事業をやっておく必要があるんです。
それから、これをやるからと言って人を集めるモデルと、ここにいる人たちが得意なモデルだと、成功する確率は後者の方が高い。これは、今、叫ばれている働き方改革にもつながる話だと思いますが、組織って、つくってそれに人を合わせるんじゃなくて、来た人によって仕事をつくるべきなんです。それがいま、やっとわかってきましたね。
(後編に続く)