EVENT | 2023/08/11

「100億円の壁」は突破できるのか。『君たちはどう生きるか』の「宣伝しない宣伝」を映画マーケティング専門家が読み解く

『君たちはどう生きるか』ポスタービジュアル (c)2023 Studio Ghibli
宮﨑駿監督によるスタジオジブリ...

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『君たちはどう生きるか』ポスタービジュアル (c)2023 Studio Ghibli

宮﨑駿監督によるスタジオジブリの新作『君たちはどう生きるか』は「公開日までポスタービジュアル1枚を公開する以外、一切の情報公開や宣伝をしない」という、異例の“宣伝をしない宣伝”を行い、公開前後にはSNSでも大きな話題となった。興行通信社のウェブサイト「CINEMAランキング通信」によると、公開から約3週間が経過した8月6日時点で累計動員数361万人、興収54億8000万円を突破したという。

では、この戦術は果たしてどれだけ、どのように作用したのだろうか?

もちろんまだ劇場公開が続いている以上、「結果」は誰にもわからないが、マーケティング・PRの側面からはどのように映っているのだろうか。

エンタテイメント業界に向けてデータ×デジタルマーケティングサービスを提供する、GEM Partners代表取締役/CEOの梅津文氏に話をうかがった。

取材・文:神保勇揮(FINDERS編集部)

梅津文

GEM Partners株式会社代表取締役 / CEO

1997年、東京大学法学部卒業後、警察庁入庁。都道府県警察研修修了後、国際犯罪、中央省庁再編に係る予算・組織・法令などの企画業務に携わる。2000年にニューヨーク大学ロースクールにてLL.M.(法学修士)取得。2002年にマッキンゼーに入社。通信・メディア業界研究グループにおいてマネージャーとして新規事業、マーケティング、組織・オペレーション変革プロジェクト推進に携わる。
2008年にGEM Partners株式会社を設立・代表取締役就任。

一切の「宣伝」をせずとも認知率が右肩上りに

ーー 現時点での興行成績は、近年のヒット作と比べてどのような動き方をしていると捉えられるでしょうか?

梅津:滑り出しは非常に好調です。その意味では今回の「宣伝しないという宣伝」は成功したと言えると思います。

2022年以降に劇場公開された作品の公開週末(金土日)興行収入のデータをみると、『君たちはどう生きるか』はトップ10に入っており、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』と『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の間に位置し、『THE FIRST SLAM DUNK』よりも上です。さらに、当社が行っている公開週末の興行収入シミュレーション値よりも、実績はだいぶ上回りました。これは本作を「観たい」と思った人のなかで実際に劇場に足を運んだ人が過去の類似作品と比べて多かったことを示しています。

また、当社では「CATS作品別詳細オンライン」という有料サービスを展開しており、過去1年間に映画館で1本以上映画を見た人に対してインターネット調査を行い、公開12週前から毎週末ごとの作品認知や来場意欲などを聞いた結果を利用者向けにレポートしています。

このグラフは『君たちは〜』を含む過去1年間に公開された話題作の認知率推移ですが、大量にメディア露出や宣伝があった他作品と比べても遜色のない結果になっています。『君たちは〜』は公開12週前に約20%を獲得していますが、世の中に知られていない作品の場合、10%以下となります。本作は早い段階から作品認知が広がっていたことがうかがえます。その後も公開に向けて認知率は上昇していっています。特に公開前週から公開週にかけての伸びが顕著で、大作シリーズものや有名原作の映画化作品と並ぶようなレベルに達しています。

ーー 作品内容は確かに公開日まで伏せられていましたが、6月28日には米津玄師さんのツアー会場で宮﨑監督・鈴木敏夫さんの連名で祝い花が届いていることが判明、7月6日にはNHK NEWS WEBで鈴木敏夫さんのインタビューが公開されましたし、スタジオジブリのX(旧Twitter)アカウントも毎日何かしら投稿をしており、話題作り自体は結構ありましたね。映画は興行収入100億円を越えるかどうかがよく話題になりますが、本作はそこまで行くでしょうか。

梅津:興行収入100億円は、「その年を代表する映画」に選ばれるラインとしても一つの区切りとなる数値として注目されますね。現時点で100億円を突破できるかはまだわかりません。今後どうなっていくのかはまだ不明瞭です。

ーー 「なぜ今後はまだ不明瞭なのか」については後でお聞きしたいと思います。御社は劇場公開作品の浸透度に関する調査を定期的に行っていますが、「宣伝しないという宣伝」をした本作は、過去のジブリ作品と比べて何か数値に違いが出ているのでしょうか。

梅津:当社が保有している調査データの中から、過去6作のジブリ映画において公開週に「作品を知っている」と回答した人が、どこからその情報を入手したと答えたかをまとめたデータを抽出してみました。

『君たちは〜』について際立っているのは、SNS経由での認知獲得が圧倒的だということです。TVCMはなくとも、ニュース番組などで「いよいよ今週公開です」などと扱われることはあったので、テレビ番組経由でもそれなりに獲得しています。なお、現時点でTVCMを公開していませんので3.3%の「TVCMで知った」という回答はテレビ番組での紹介を含めた勘違いですね。

このグラフだけ見ると、他のジブリ作品に比べて認知獲得が弱いようにも感じられますが、先ほどの認知率の推移比較のグラフを改めて見てください。すると、公開週において『THE FIRST SLAM DUNK』より高い認知率を獲得できていたことが分かります(同作も比較的宣伝は控え目で、内容の情報開示を意図的にセーブしてはいましたが、TVCMは打っています)。

また、今年の話題作におけるX(旧Twitter)でのツイート回数を比較したデータもありますので、こちらもご覧ください。

映画の興行収入は、公開前にどれだけ期待と好奇心を煽れるコンセプトなのか、見た観客をどれだけ驚かせることができる作品なのか、公開前、公開後含めて語りたくなる材料を定期的に提供できるか、その3つの掛け算で決まります。特に100億円を超えるようなメガヒットとなるためには、公開後の継続的な話題性の喚起が重要です。公開日以降にツイート数が増えているのは、入場者特典の発表や変更、映画賞の受賞、興行収入の発表といった関連ニュースが継続的に発信されていた作品です。

では、『君たちは〜』はどうだったのか。ここでは出していませんが、本作の公開12週前から公開週にかけてのツイート数は『風立ちぬ』よりも多いです。『君たちは〜』はジブリファンが褒めるというより、はっきりとした賛否両論になっていましたよね。つまり驚きはあったし、語り口もあった。事前に内容に関する情報はほぼなかったわけなので、公開直後では見るものすべてが驚きでちゃんとネットでバズった。あのシーンをどう解釈するかなどいくらでも語れた。プロモーションの組み立てとしては教科書通りと言ってもいいぐらい完璧な構造になっていたと思います。

「100億円の壁」突破のカギは、継続的な話題作りを維持できるかどうか

ーー となると、それではなぜ「興行収入100億円が突破できるかはまだわからない」という見立てをされているのか気になります。

梅津:現在の累積興行収入から100億円に至るまでには、ここからまだまだロングラン上映が必要ですが、それは先ほどお話してきた「公開後もSNSの口コミやメディア記事の発信が継続して行われる」かどうかがまだ見えていないからですね。

ーー 確かに鈴木敏夫さんがジブリ作品の宣伝論を記した書籍『ジブリの仲間たち』を読むと、これまで公開後のプロモーション、話題作りにもかなり力を入れていたと記されていましたが、ちょうど8月7日に「11日にパンフレットを販売開始する」という情報が発表されました。やはり仕掛けてきましたね。

梅津:そうですね、お盆の時期は1年でも最も多くの方が映画館に来場する時期の一つです。その時期でのパンフレット販売開始の発表は、今一度作品の認知と話題度の喚起につながるでしょう。すでに観た方の中にこれをきっかけにもう一度観に行こうと考える方も多そうです。

ーー X(旧Twitter)では「都市部の映画館は埋まっているかもしれないが、それ以外の地域では苦戦している(だからマス向け宣伝もすべきだった)」という意見を時おり見かけますが、それについてはどう見ていますか?

梅津:データで見ても実際にその傾向はあると思います。数字を出せなくて恐縮ですが、ジブリ作品も含めて興行収入100億円を突破するような作品は、意欲率調査において首都圏・関西・中部よりも「その他」の地域の方が「観てみたい」と回答する割合が高い傾向にあります。『君たちは〜』については首都圏の方が少し上回っています。ただ、この辺りは本当に厳密に予測を立てようとするとシネコンでの上映回数も加味する必要があります。

また、公開1週後、7月22・23日に行った劇場鑑賞者調査「作品別ポストサーベイ レポート」において、「『君たちは〜』は誰と観ましたか」という設問があるのですが、「1人」が約40%で、「子ども・孫と一緒に行く」は6%程度となっていました。現状ではやはり、オールターゲットのファミリームービーにはなっていないと言えると思います。

ーー 今後、同じように有名作家の作品ではこうしたPR手法は増えていくのでしょうか?

梅津:現時点ではまだ結果が出ておらず、結論づけるには早いと思っています。ですが、映画会社や広告代理店・PR会社からすれば「これまでと同様に広告費をかけて内容をアピールしていくことは手段であり、より重要なのはきちんとフェーズごとの筋道立った作戦を立てる目的に照らした手段を選択していくこと」を再確認する機会になったのではないでしょうか。

今回、ここまで情報を伏せるケースは新鮮に感じられましたが、それでも、『君たちは〜』の宣伝・PR活動の目的は成し遂げられています。先程挙げた3つの掛け算を実現する方法の一つとして、「宣伝をしない」という選択肢が今回当てはまったということです。どれだけ作品が浸透し、好奇心や驚きを掻き立てる要素があり、公開後も注目し続けてもらう切り口を用意できるかというのは、どの作品でも同じ。そのためには多くの作品の場合、なんらかのかたちで宣伝が必要で、それなりの宣伝予算を投じて露出を増やし、浸透度を上げなければならないケースのほうが大多数でしょう。

一方で、『君たちは~』の件は、新しい手法に挑戦することの後押しになるのではないでしょうか。これをきっかけにこれまでにない大胆な手法をやっていこう、という機運につながればますます映画興行は面白くなるのではないかと期待しています。