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「こんなに酸素レベルが下がると助けられない」大学病院のICUで3週間呼吸停止し死にかけた話【連載】アクティビスト・小玉直也の「こんな人生があるのか!?」(5)
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  • 2022.09.18
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「こんなに酸素レベルが下がると助けられない」大学病院のICUで3週間呼吸停止し死にかけた話【連載】アクティビスト・小玉直也の「こんな人生があるのか!?」(5)

入院中の様子。喉の部分には酸素チューブがつながれていました

小玉直也

特定非営利活動法人アースウォーカーズ代表理事 フリーカメラマン

1971年宮崎県生まれ。大学まで宮崎で育ち1994年大阪で就職。3年後に退職してNPOやNGOに関わり2003年~04年イラク戦争中のバクダットに行き現地病院の医療支援や日本とイラクの学校の橋渡しや平和交流などに携わる。また現地で米軍に拘束され尋問を受ける。その年の朝日新聞広告賞入賞カメラマンに選ばれる。

2005年スマトラ沖大地震の津波支援で東南アジアへ、2007年中越沖地震では新潟県柏崎市へ、2011年東日本大震災では南三陸町、石巻市の支援に入り、4カ月後の7月1日から原発事故のあった福島県の子どもたち支援のため常駐し、現在も毎月福島入りし子供たちの支援を継続。2016年は熊本地震の支援に入り、2019年は西日本豪雨の広島県呉市に入る。各地の支援に学生など若者をのべ1000人以上派遣し若者がボランティアで現地に行き支援に関わる機会を作り続けている。

聞き手:神保勇揮(FINDERS編集部)・神田桂一 文・構成:神田桂一

医者が自分の親に「難しい」という話をするほど差し迫った状況

新型コロナウイルスのパンデミックが世界を震撼させ続けていますが、2009年には新型インフルエンザ(H1N1)によるパンデミックが起きていました。私は実はこれにかかってしまい生死の境をさまよったことがあります。

日本では2009年9月から広がり始めて一時期関西空港を封鎖し、大阪のホテルで感染者が出たらそのホテルを封鎖してホテルの従業員、宿泊者を一歩も外に出さないとか、ある意味今の対策よりも厳しくやっていました。

その時には、メキシコで発生し同国とアメリカで1万人を超える人たちが亡くなり、日本国内でも200人ぐらい亡くなっているんです。

最初、どんどん熱が出始めて39~40℃になって、最後43℃まで上がりました。途中から呼吸も苦しくなって痰に血が混じって血痰になっていくんです。血だらけのティッシュが部屋に散乱している状態で。慌てて病院に行き、検査をしました。鼻の粘膜で検査、診断をしてもらいました。でも、僕は検査に引っ掛からなかったんです。近所の病院でも引っ掛からず救急病院に運ばれた時も引っ掛からず、ちょっと入院させて欲しいと言っても「風邪じゃ入院できませんよ」と帰されてどんどん悪化していくんです。

そして、翌々日に近所の病院にもう一回かかりに行ったらそのまま救急車で運ばれて。呼吸レベルがかなり低い状態で近所の病院から救急車で国立宮崎東病院へ。呼吸器科の専門医に「こんなに酸素レベルが下がると助けられない、手の施しようがない」と言われ、今度は別の救急車で宮崎大学附属病院に運ばれて、ICUで3週間意識不明だったんです。

人工呼吸器を入れていたんですが、肺機能が停止していたので、酸素を吸って酸素を吐いている状態で……。酸素がない状態で血液が回ると、色んな細胞が死んでいくんです。脳死してしまうと復活するのが難しいので、酸素を回すために人工心肺装置を使って、股のところにある大動脈から血液を抜いて機械の中で酸素を入れて、酸素の入った血液を頸動脈に入れて脳に酸素を回していく。その機器が新型コロナでもよく名前が出るECMOで、通常は心臓移植や肺移植などに使うものです。6時間から10時間は耐えられるそうですが、ずっと酸素レベルが60%を切っている状態が続いていく中で、3週間意識不明だったんです。その時にドクターは自分の両親に「小玉さんの状態は難しい」という話をしたそうです。

最後、ICUで担当していた看護師さんがかつて一緒に宮崎で波乗りしたりしていた女性で、意識不明の僕に対して「小玉くん、私は夜勤明けで明日仕事休みだから明後日来た時は会えないと思うけど、今まで一緒に波乗りしてくれてありがとう。さようなら」とお別れを言って帰ったそうです。2日後に来たら「あ、こいつまだ生きてる!」(笑)と思いながら看病をずっとしていたんだよと話してくれました。それぐらい生死の境をずっとうろうろしていたんです。

初期段階でタミフルを投与していたらここまでの状況にはならなかったかもしれません。でも、何の検査にも引っかからなくて、とうとう遺伝子レベルの検査をしたらH1N1だったのが発覚したんです。その時に、「結果が出ていないけどH1N1だと疑ってタミフルを先に投与しよう」と医師が言って、意識不明で錠剤が飲めないので、点滴でタミフルの投与を始めたんです。それがあったのでギリギリ助かったかもしれません。H1N1の遺伝子レベルの検査結果が出たのが三日後だったので、それからタミフルを投与していたら間に合わなかったかもしれない。ちなみに治療費が2ヵ月で1500万円ぐらいかかりました。もちろん高額療養費制度があるので、実際は数十万円かしか払ってないですが。保険制度の有り難みがわかりました。

意識不明の時、長い夢を見ました。バグダッドで支援活動をしてたんです。何でバグダッドの夢が出てきたか分からないですけど、空爆があって銃撃もあって僕が撃たれたか爆発に巻き込まれたかで結構重症な状態で病院に運ばれて、もうここで助けられないと言われて、このチグリス川を渡って向こうに行ったら戦争をやってない地域だから、向こうに行ったら助かるよと言われたんです。

それがいわゆる“三途の川”だったかなと思うんですけど、戦争がない地域にいて楽をしようとしなかったんです。「いや、こっちに残って子どもたちが大変だから自分の命がある限りはとりあえず出来ることをやる。こっちに残る」と言ってサポートをし続けたんです。そうしたら、助かっていたんです。

ほかにも衝撃的な夢をいくつか見たし、なにより筋肉細胞がかなりダメージを受けていて、一生寝たきりになると言われたんです。最初のリハビリでは1gの綿のボールを移動させるのも筋力がなく大変な体験をしました。本当にそのころは苦しくて自分で車椅子に乗れないし、お尻すら自分で拭けなくて医療従事者のみなさんには感謝です。

作業療法士と理学療法士の女性2人のリハビリテーションに励まされ会えるのを楽しみにしながら乗り越えた、涙の苦しいリハビリでした。その後ようやく歩くリハビリが始まるのですが、三半規管がダメージを受けていて平行感覚がとれず酔って食事を嘔いてしまうなど、一つ乗り越えてはまた一つ苦しいリハビリの連続。退院直後は車椅子に酸素ボンベから鼻に酸素を入れながらの生活でした。意識不明で死にかけていた時の話をICUで看病してもらった看護師さんに聞きながらデートに誘ったのですが、見事に断られましたね(笑)。

そして医師に難しいと言われていたのですが、前回記事で伝えた2010年のサッカーワールドカップで南アフリカを訪れました。その頃は死にかけていてリアルな夢を見ているのか?布団から起きて生きているのか?半信半疑な日々でした。その後はボランティアに明け暮れる日々で原発事故後の福島やイラクの難民や子どもたちなどの被災地の支援をしながら今月はウクライナの支援に行く予定です。

一回死んでしまった人生だからこそ、お金や自分の欲望を優先するよりも一人でも多くの人を助ける道を歩みたいですし、困窮した人が人間らしい生活を送れるような社会になって欲しいと思っています。被災地の支援とか紛争地の支援とか関わりだしてから、月収8万円、年収96万円ですけど、色んな生き方があってもいいなと思いながら生きてます。

私が運営するNPO法人アースウォーカーズでは、福島県を中心とした東日本大震災の被災地域への支援を長年続け、最近ではウクライナの難民支援活動なども行っています。ぜひマンスリーサポーターになっていただけると幸いです。


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