FINDERS

人口1万5000人のリゾート地で5000冊の小説を売る。ベストセラー作家が仕掛ける書籍×観光マーケティング【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(31)
  • GLOBAL
  • 2022.07.29
  • Twitter
  • facebook
  • LINE
  • はてブ!

人口1万5000人のリゾート地で5000冊の小説を売る。ベストセラー作家が仕掛ける書籍×観光マーケティング【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(31)

毎年新刊を出版し、毎週のサイン会に行列ができる「夏の女王」

ナンタケット島の閑静な町並み

なぜヒルダーブランドの本はこれほど売れるのだろう?

私がそんな疑問を抱き始めたのは、ナンタケット島という接点があったからだ。私は結婚してすぐの1991年に、夫と一緒にこの島を初めて訪問し、小さなコテージを買った。ヒルダーブランドがナンタケット島に移住したのは1993年で、ヒルダーブランドがまだ作家として有名ではなかった頃に何度か早朝のジョギングですれ違ったことがある。私たちは当時東京在住だったということもあり、コテージのローンを払うためにも夏の間は貸別荘にしていた。ナンタケット島を舞台にしたヒルダーブランドの本は、わりと初期からコテージを借りた人のために本棚に揃えていた。他にもナンタケット島を舞台にした小説を書く作家はいたが、その中でヒルダーブランドだけが飛び抜けて有名になっていった。

ヒルダーブランドの本が売れるのはもちろん面白いからだが、活動を追っていくと彼女自身がマーケティングの努力を欠かしていないがわかる。

現在のヒルダーブランドには「The Queen of Summer(夏の女王)」というニックネームがある。暑い夏にビーチやプールサイドで軽く読む類の本をアメリカでは「beach read(ビーチリード)」と呼ぶのだが、そのジャンルでの代表的な作家とみなされているからだ。「夏の女王」の特別なブランドは、彼女が住んでいるナンタケット島だ。

日本では『白鯨』(ハーマン・メルヴィル著)の舞台として知られるナンタケット島は、海岸の観光地ケープコッドから約50km 沖にあるアメリカ最東端の小さな島だ。数多くの富豪や有名人が数十億円もする別荘を持つ避暑地として有名であり、冬の人口は1万5000人ほどだが、夏には別荘を訪問する人と観光客で一時的に8万人ほどに膨らむ。富豪の別荘を訪問する有名人をあちこちで見かける場所でもある。宿泊費が1泊10万円以上のホテルは珍しくなく、それでも夏の間は予約がほとんど取れないほど「高級リゾート地」として人気がある。

ヒルダーブランドは子供時代、毎年夏にはケープコッドのビーチで過ごしていたという。だが、父親が飛行機事故で亡くなった次の年からは、夏の間は工場でアルバイトをしなければならなくなった。そのときに「将来は何をしてでも、夏をビーチで過ごす」と決意したという。そんなヒルダーブランドは、ナンタケット島を初めて訪問したとき、ここに住むと決めて仕事をみつけた。その後、ナンタケット島の旧家の息子と知り合って結婚し、子供も産んだが、本を書きたいという気持ちはずっと抱いていた。

ナンタケットは以前から「オールドマネー」の避暑地だったが、最近では一般人が一度は訪問してみたい「憧れの高級リゾート地」になってきている。ヒルダーブランドの知名度は、ナンタケット島の人気と一緒に上昇していったところがある。

少なくとも毎年1冊は初夏に新刊を刊行するヒルダーブランドは、ナンタケット島のインディペンデント書店「Mitchell’s Book Corner(略称「ミチェルズ」)」で本の販売とサイン会を行う。書店を取り囲むような長い行列が出来ていると「ああ、今年もこの季節がやってきた 」と思う。今年もヒルダーブランドは夏の間は毎週水曜日にMitchel’s Book Cornerで本の販売とサイン会をするというので、一度私も行ってみた。毎週やっているから20分前に行けば楽勝だろうと思っていたらすでに大きな行列ができていた。

人口が少ないナンタケット島で存続が危ぶまれていた由緒ある書店を、新しいオーナーのウエンディ・ハドソンとマーケティング・ディレクターのティム・アーレンバーグが復活させた

サイン会が始まる前から長い行列ができていた

待っている間に並んでいる人たちにヒルダーブランドの魅力を質問してみたところ、「ナンタケット島が舞台」というのが重要な要素だとわかった。

高校生のときから毎年夏にナンタケット島を訪問してきたというデボラ。小学校教師の職を引退してハワイに家を購入した後でもこうしてナンタケット島を訪れている。ヒルダーブランドの本はサインしてもらう新刊以外はすべて読んだという大ファン

他にもナンタケット島を舞台にした小説を書く作家はいるが、その中で最も「自分もナンタケット島に住んでいるような、インサイダーの気分にさせてくれる」のがヒルダーブランドらしい。

ご主人のお姉さんがヒルダーブランドの大ファンで、その影響で『The Blue Bistro』を読んで自分もファンになったという20代後半のオリビア。ナンタケット島が舞台だというのが魅力だと語る。ミレニアル世代にもファンが広まっていることを示している

ハードカバー版には、Kindle版やオーディオブックにはない「Blue Book」というおまけがある。本の最後の方に、ヒルダーブランドによるナンタケット島のお薦めホテルやレストランの情報がガイドブックのように記載されているのだ。それらの場所が彼女のどの本に登場するのかも教えてくれる。ヒルダーブランドは実存のホテルやレストランをモデルにした架空の場所を小説の舞台に使うことが多く、例えば新刊の『The Hotel Nantucket』は実存のホテルNantucket Hotel、初期の人気作品『The Blue Bistro』(2005年刊)は実存のレストランGalley Beachをモデルにしている。ヒルダーブランドのファンは、これらの場所で登場人物になった気分を味わえるというわけだ。

このように、ファンに「インサイダー」の心理を抱いてもらい、長続きするファンダムを作ったのがヒルダーブランドの成功の秘訣である。

Hotel Nantucket のモデルNantucket Hotel。夏のシーズンには1泊10万円から20万円以上にもなる

ヒルダーブランドの初期のベストセラー『The Blue Bistro』のモデルになったGalley Beachレストラン。予約を取るのが非常に難しいことで知られる

次ページ:人口1万5000人の島で5000冊の本を売り切るマーケティング努力

< 1 2 3 >
  • Twitter
  • facebook
  • LINE
  • はてブ!
  • FINDERS_twitter

SERIES

  • 大麻で町おこし?大麻博物館のとちぎ創生奮闘記
  • あたらしい意識高い系をはじめよう|倉本圭造|経営コンサルタント・経済思想家
  • ゲームジャーナル・クロッシング|Jini|ゲームジャーナリスト
  • 高須正和の「テクノロジーから見える社会の変化」|高須正和|Nico-Tech Shenzhen Co-Founder / スイッチサイエンス Global Business Development
  • 阿曽山大噴火のクレージー裁判傍聴|阿曽山大噴火|芸人/裁判ウォッチャー
  • 幻想と創造の大国、アメリカ