EVENT | 2021/04/12

マイクロソフト日本法人・初代社長が70年代アメリカに単身飛び込み感じた、コンピュータ業界の「熱狂」【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(1)

古川享(サム古川)氏と言えば、アスキー取締役を経てマイクロソフト日本法人の初代社長に就任、退任後は慶應義塾大学大学院で活...

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古川享(サム古川)氏と言えば、アスキー取締役を経てマイクロソフト日本法人の初代社長に就任、退任後は慶應義塾大学大学院で活躍した「ビル・ゲイツが最も信頼した日本人の1人」「国内コンピュータ~インターネット業界の生き字引的存在」として知らぬ者はいないほどのレジェンドであるが、本連載は同氏に「インターネットの歴史教科書」たる口伝をお願いしたものだ。

第1回は古川氏がアスキーに入社するよりも前、秋葉原のマイコンショップでアルバイトに精を出していた1970年代後半のエピソードから始まる。古川青年はいかにしてコンピュータ業界に活路を見出したのか。当時の熱気がありありと伝わる描写をお楽しみいただきたい。

聞き手:米田智彦 構成:友清哲 写真:神保勇揮

古川享

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1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年(株)アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役、1986年3月同社退社、1986年5月 米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。1991年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。2005年6月同社退社。
2006年5月慶應義塾大学大学院設置準備室、DMC教授。2008年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)、教授に就任。2020年3月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科を退職。
現在の仕事:N高等学校の特別講師。ミスルトウのシニア・フェロウ他、数社のコンサルティング活動
http://mistletoe.co
Think the earth, NGPFなどのNPO活動
http://www.thinktheearth.net/jp/
https://www.thengpf.org/founding-directors/

UNIXの日本語化から始まったインターネットとの縁

まずは僕とインターネットの出会いについて振り返ってみることにしたい。

ご存じのように僕は、マイクロソフト日本法人の初代社長というのが、世間的に最も通りのいい肩書きではないかと思う。しかし、実際にインターネットと関わりを持つようになったのはWindowsが登場するよりもさらに前の1983年のことであり、大きなきっかけのひとつはUNIX 4.2BSD、つまりBerkeley Software DistributionバージョンのUNIXの日本語化を手掛けたことだろう。

当時、僕はアスキーのソフトウェア開発本部に所属していたが、このBSD版UNIXはアスキー社内開発や業務用途だけでなく理経など複数のルートを通じ、松下電器(現・パナソニック)の中央研究所や東大の計算機センター、東京銀行(現・三菱UFJ銀行)、さらには発足時の慶應義塾大学・湘南藤沢キャンパス(SFC)に於いてSONY NeWSワークステーションやV A Xに搭載され導入されてS F Cの第1期生から利用されている。時代で言えば1983年〜1990年のことである。

こうしてUNIXを日本に持ち込み、それが当時のPDP-11やVAX-11/780などのマシンで活用され始めたことは、そのまま日本におけるインターネット史のオリジンの一つと言っていいはずだ。そして僕自身、この時の仕事を通じて、その後の長い年月を共にすることになる、インターネット界の様々な人たちと繋がりを持つことができたのだ。

3浪して大学へ進学するも、将来に大きな不安が

僕には社会に出る前、アメリカ遊学の経験がある。1977年に8カ月のことではあるが、僕とインターネットの関わり合いを説明する上で、半生とともに少し詳しく説明しておく必要があるだろう。

東京生まれの僕は少年時代、決して成績優秀な子どもではなかった。なにしろ麻布中学・高校という都内では知られた進学校に進むものの、大学進学に3浪を要する体たらく。原因はわりと明確で、とにかく英語が苦手だったことに尽きる。学年300人中、常に下から3番目くらいの成績だったから、大学受験の際に枷になるのも当然だった。

1年、2年と時間が経ち、同級生たちが次々に東大や京大、あるいは早慶へ進んでいく中、僕は3年を勉強に費やしたところで、和光大学への入学を決める。これは心理学や精神分析を学びたい一心からのことである。もともと中学時代からこうしたジャンルに関心が強く、いつもみすず書房の書籍を小脇に抱えていたのを覚えている。

しかし、和光大学の人間関係学科に籍を置いたはいいものの、かつての同級生たちと比べて“3周遅れ”であるという事実が、徐々に重くのしかかってきた。僕がようやく大学生活に突入した矢先に、現役で大学へ進んだ友人たちはまもなく卒業を控える立場であり、それぞれ社会人としての進路を決め始めていた。

この調子でいくと、結婚や出産などのライフイベントにおいても、自分は彼らに大きく遅れをとることになるだろう。そう考えると、どんどん気持ちが沈んでいくのがわかった。このままではいけないという焦りは日増しに募り、僕は結局、大学を後に中退することになる。

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