CULTURE | 2020/03/02

辰吉丈一郎は真冬でも水のシャワーを浴びる!共感を呼ぶ「持論」の価値【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(4)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在はアジア最大の「ONE」を主戦場とし、ライト級の最前線で活躍。さらに単なる格闘家としての枠を超え、自ら会社を立ち上げるなど独自の活動を行う。

そんな青木は、自らの人生を「物語」としてコンテンツ化していると明かす。その真相はいかに? 唯一無二の価値観を貫く異能の格闘家の連載がFINDERSでついに始まる。

聞き手:米田智彦 構成:友清哲 写真:有高唯之

青木真也

総合格闘家

1983年5月9日生まれ。静岡県出身。小学生の頃から柔道を始め、2002年に全日本ジュニア強化選手に選抜される。早稲田大学在学中に、柔道から総合格闘技に転身。「修斗」ミドル級世界王座を獲得。大学卒業後に静岡県警に就職するが、二カ月で退職して再び総合格闘家へ。「DREAM」「ONE FC」の2団体で世界ライト級王者に輝く。著書に『空気を読んではいけない』(幻冬舎)、『ストロング本能 人生を後悔しない「自分だけのものさし」』(KADOKAWA)がある。

第一線で活躍する人は皆、怖がっている

格闘技やスポーツにかぎらず、パフォーマンスを発揮するためにはメンタルコントロールが重要だ。それはビジネスシーンにおいても同様だろう。

ただ、メンタルコントロールを語る際は「恐怖にいかに打ち勝つか」、「プレッシャーをどう跳ね除けるか」といった点にフォーカスが当たりがちだが、僕の考え方は少し違う。恐怖やプレッシャーを感じているなら、それを受け入れる準備をするべきだ。

格闘家や経営者など、目的に向けて“何か”と戦っている人は、総じて「怖い」と口にすることが多い。傍目には華やかな世界で悠々と生きているように見えていたとしても、第一線で活躍している人は皆、必ず怖さと背中合わせの状態で頑張っている。

恐怖やプレッシャーは原動力の裏返しであり、強い決意があるからこそ、敗北や失敗を恐れている。逆に、一切の恐怖を感じないのであれば、その場所はすでに安住の地であり、それ以上のステップアップは望めないだろう。その意味ではむしろ、恐怖を感じない方が怖いと僕は思う。

確固たる目的があるなら、その過程で生じる恐怖と並走する感覚を持つべき。僕自身、こうした考え方が言語化できるようになったのは最近のことだが、今にして思えば、戦い始めた当初から得体のしれない恐怖と向き合い続けていたのは間違いない。しかし、若い頃は恐怖を感じている現実を弱さと捉えていたから、それを認めることができなかったのだ。

もし僕がこの先、どんな対戦相手を前にしても恐怖をまったく感じないほど達観することがあるなら、それはもはや戦う理由を失ってしまったことを意味している。

メンタルケアは小手先の理論に過ぎない

こうした精神性は、特定の誰かに師事して得たものではない。最近ではメンタルケアを取り入れるアスリートも少ないが、僕は昔から、メンタルトレーナーという存在が大嫌いだ。なぜなら、彼らが口にするロジックはどれも、小手先の技術に思えてならないからである。

それで強靭な精神力が手に入るなら苦労はない。そうした机上の理論に頼るよりも、誰かが苦しみに苦しみ抜いて生み出した創作物に触れる方が、よほど得るものは多いと僕は思っている。あるいは自分自身が苦しみ抜いて、自分なりの解を見つけ出すしかないのだ。

僕がDEEPで格闘家デビューした時にお世話になった中井祐樹さんなどは、傍目には恐怖心とは無縁の、達観した人物に見えるかもしれない。しかし、これはまた特殊な例で、僕に言わせれば中井さんは達観しているのではなく、単なる無責任の究極形だ。

全方位外交を崩さず、自らは何も担わず舵も取らない。このスタンスを徹底するのはなかなか真似できることではないが、これも1つの型だろう。

僕たち当事者からすれば、何も教えてもらえず、一切守ってもらえない関係性は時に軋轢の元となったが、あの頃があるから今の自分があるのは間違いないところだ。おかげで、こうして恐怖心と向き合うことの重要性を知ることができたのだから。

たいていの問題は、生きていればなんとかなる

そもそも格闘家とは、本来そういう生き物であるはずなのだ。メンタルケアの理論に薄っぺらな救いを求める奴が、大成するわけがない。

また、戦い続けることで、恐怖やプレッシャーに慣れることなどあり得ない。精神力の強さに個人差があるというのも幻想だ。個人差があるのはそれぞれの度量であり、人は分相応なプレッシャーと向き合いながら生きていくものである。10の能力しかない人が、100のプレッシャーに襲われることなど、まずないだろう。

そこで悩んだり落ち込んだりした時は、何かを必死にやり遂げた人の成果物から学べばいい。それが人にとって一番のメンタルヘルスになると僕は信じている。

格闘技もまた、人々にそうした学びや刺激を与えるコンテツであるはずだった。ところが、いつの頃からかスポーツと同化し始め、爽やかなエンターテインメントに成り代わりつつあるのは、少々残念な現実だ。それは格闘技ファンが本当に観たいものと一致しているのだろうか。

極論すれば、たいていのことは死ななければ解決できる。どれだけ借金を背負おうが、周囲から総スカンを食おうが、生きていればなんとかなる。苦しみながらも生きていればその人の勝ちで、敗北は生きることを諦めることでしかない。

僕がリング上から伝えたいのは、まさに「とにかく生きろ」というメッセージに他ならない。逆に、そうした強く伝えたいメッセージがあるからこそ、今日まで戦い続けることができたとも言える。

格闘家は思想と持論に生かされる

格闘家と言えども、そうしたメッセージを持つことは大切だろう。なぜなら、これだけ物や情報が氾濫している世の中において、本当の価値を生むのは「共感」であるからだ。

たとえば、「チョコレートが食べたい」と思ったら、最寄りのコンビニへ行けば100円で手にすることができる。一方で、銀座では何千円もする高級チョコレートに人々が列をなしている現実がある。これはその味やブランドに対し、消費者の共感があるから成立している現象だ。

格闘技も同様である。そのファイターの思想に同意し、共感を得たからこそ人はファンになって応援してくれるもの。つまり、この世界で生き残っていくためには、思想や持論を持つファイターでなければならないはずだ。

先日、辰吉丈一郎さんのドキュメンタリーを目にする機会があった。辰吉さんといえば、90年代に活躍したカリスマボクサーだが、2009年3月の試合を最後にリングに上がる機会を得ていない。しかし彼は、50歳を目前に控えた今もなお、自分は現役だと主張して、日々のトレーニングを続けている。

コミッションから引退勧告を受け、海外での試合すら禁じられている八方塞がりの状態において、彼の挑戦は絶望的だ。映像で見ているかぎり、トレーニング内容も決して科学的とは言えないし、次の試合が組まれる望みは薄い。それでも僕が思わず辰吉丈一郎という存在に惹きつけられたのは、そこに確固たる持論が見て取れたからだ。

一例を挙げると、辰吉さんはトレーニングを終えた後、真冬であっても水のシャワーを浴びることを日課としている。一体なぜか? 本人の答えは極めてシンプルで、「(体を冷ませば)喉が乾かへんやろ」と言う。つまり体重維持のためというわけだが、もちろん理屈としては間違っている。

それでも、昨今これだけ思想や持論のない選手があふれる格闘技界において、その存在感は出色だ。彼は自分なりに磨き上げてきた思想と持論で万全の体制を維持しながら、今も世界タイトルへの挑戦を諦めていない。与えられた試合に勝利を収め、ただ「嬉しいです」と笑顔を見せるだけの選手と比べれば、人がどちらに共感するかは言わずもがなだろう。

虚勢を捨てることで生まれる勇気

ただし、持論が生まれにくい世の中になりつつあるのは確かだ。SNSで独自の意見を発信すれば、すぐに揚げ足を取られ、方々から否定の集中砲火を浴びることになりかねない。しかし、格闘技を価値あるコンテンツとして守っていくためには、ファイターたちが自分の思想や持論を展開し、物語を創る意識を持たねばならない。

これだけ「多様性」や「ダイバーシティ」といった言葉が広まりながらも、まだまだ特異な人は受容されにくいのが世の中の現実。でも裏を返せば、器が整っていない今だからこそ、尖った人物にスポットが当たりやすいとも言えるだろう。だとすれば、これはチャンスだ。

誰しも、自分の強い部分ばかり見せたがるのは自然なこと。だから、皆一律に虚勢を張って生きている。しかしそれは、自分の本当の姿ではないはずだ。

僕自身は昔からリング上で喜怒哀楽をはっきり表すタイプだが、若い頃は諸先輩方からよく、「すぐ泣くんじゃない」と窘められたものだ。でも、もう虚勢を張って得をする時代ではない。

あえて弱い部分を見せることで、生きづらくなる側面もあるだろう。その半面、自分の弱い部分をさらけ出すことで得られる共感というのもあるはずだ。何より、虚勢を張って自分を強い人間だと嘘をつかなくてもいいとなれば、恐怖やプレッシャーとの向き合い方だって変わってくるに違いない。

つまるところ、人は虚勢を捨てることで逃げ出さない勇気を獲得し、自分自身の物語の完成に近づくことができる。これは格闘技にかぎらない、今の世の中ならではの本質であるはずなのだ。


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