11月7日に行われた「MASHING UP Vol.3」の「新たな夢への飛び込み方」をテーマにしたカンファレンスでは、会社員からまったく異ジャンルの道に飛び込んだお2人が登壇。
1人目は、長年企業戦士としてIBMに勤務し、なんと退職後の65歳の時に一念発起して保育士になった髙田勇紀夫氏。そしてもう1人は、東大、ハーバードビジネススクールを経て、大手外資コンサル企業マッキンゼー・アンド・カンパニーで勤務後、華道家の道を選んだ山崎繭加氏だ。
MCを務めたのは、こちらも外資系企業や「ほぼ日」のCFOなどのさまざまなキャリアを重ねてきた、篠田真貴子氏。
思い切った転身のきっかけ、そして、飛び込んだ先のやりがいやキャリアプランとは? 当日のイベントから一部抜粋・編集の上、レポートしたい。
取材・文:庄司真美 写真:織田桂子
髙田勇紀夫
保育士
1951年千葉県生まれ。東京都立大学経済学部卒業後(現・首都大学東京)、日本アイ・ビー・エム株式会社に入社。SEや営業課長を経て、常務取締役補佐、富山営業所長、業務改革推進担当、北アジア太平洋地域の需給管理担当、米国IBMでオプション・モニターの需給管理担当、社長室CS(お客様満足度向上)担当、ビジネス・コントロール(内部統制)担当などを歴任。定年退職後の2017年に65歳にして保育士資格を取得し、都内で保育士として勤務。著書に『じーじ、65歳で保育士になったよ シニアたちよ、待機児童のために起ち上がれ』がある。
山崎繭加
華道家
東京大学経済学部を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニー、東京大学助手を経て、ハーバードビジネススクール(HBS)日本リサーチセンターで勤務。2010年からは、東京大学医学部特任助教として、グローバル人材育成にも関与。現在は華道家として活動しながら、ハーバード・ビジネス・レビュー特任編集委員、宮城県女川町研修アドバイザー、慶應大学公衆衛生大学院非常勤講師などを務める。著書に『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか』がある。
篠田真貴子
モデレーター
1968年、東京都生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、日本長期信用銀行(現・新生銀行)に入行。1996年ペンシルバニア大学ウォートン校でMBAを、ジョンズ・ホプキンス大学で国際関係論の修士学位を取得。1998年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。2002年ノバルティスファーマに転職。産休・育休を経て、メディカル・ニュートリション事業部の経営企画統括部長に就任。2007年、ネスレによる買収により、ネスレニュートリション株式会社に移籍。2008〜2018年まで 東京糸井重里事務所(現・株式会社ほぼ日)の取締役CFOを務めた。
大胆な転身のきっかけは?
篠田:今でこそ髙田さんは保育士、山崎さんは華道家に転身されましたが、学校を出て就活を経て企業に入社したのは、多くの人との共通体験だと思います。1社目に入社したときの動機はいかがでしたか?
モデレーターを務めたのは、糸井重里事務所(現・ほぼ日)の元CFO 篠田真貴子氏。
山崎:大学時代は日米学生会議の活動をしていたのでとにかく忙しくて、就活の準備が大変なところはエントリーできなかったのですが、唯一受かったのがマッキンゼーだったんです。
篠田:その後も東大やHBSなどでもキャリアを積まれましたが、どんな部分で仕事に熱中しましたか?
山崎:マッキンゼーにいた頃はひたすらハイテンションに働き、頭を動かしまくってインパクトを出すことに、東京大学では、私が珍しく民間出身のスタッフだったので、それを生かしながら大学を変えていくことに熱中しました。HBSでは日本を代表し、日本について研究してもらったり、教材を作ってもらったりすることに熱中していました。
東大やハーバードビジネススクール日本リサーチセンター勤務を経て、華道家として活躍する山崎繭加氏。
篠田:だんだん視野が広がり、ご自身のテーマが見えてそれを追求していく流れだったのですね。髙田さんはいかがでしたか?
髙田:私が社会に出たときはちょうど高度成長期で、IBMでは社長以外の仕事はひと通り経験しました。営業時代は都市銀行の担当になり、挨拶に行ったら名刺を破られ、出入り禁止にされたことも(笑)。歩合制だったので、本店ビルの喫茶店に通い詰めて役員たちにどうにか顔を売り、経理部長から発注いただいたのを突破口に、2年目にしてようやく出禁が解けました。
篠田:当時は世の中全体にヒエラルキーがあって、特に都市銀行は序列社会の最たる組織でしたよね。私自身も外資出身で、外資は序列外で少し下に見られるところがあったので、やりにくさがよくわかります。土日もエネルギッシュに仕事に熱中して、家事や育児は奥様という役割分担だったのですか?
髙田:まさにその通りで、平日は毎晩夜遅くまで、土日も仕事に明け暮れるような生活でした。今は反省していますが、まさに昭和の男ですから、当時は、男は外で稼いで女性は家を守るものという価値観を持っていました。
篠田:その考えが変わるきっかけはなんでしたか?
髙田:4年前、保活に失敗した女性が仕事を失うという新聞記事を見て、衝撃を受けました。保育園が見つからずに仕事を失うなんて、私のそれまでの人生では想像もしなかったことです。その3カ月後、別の起業家の女性が念願の子どもができたものの、保育園が見つからず、自殺さえ考えたという雑誌の記事を読んで、これは大問題だと思いました。政府はだいぶ前から育児のインフラ整備について手は打っているものの、改善していないのが現状。ならば自分ができることをしようと決意したのが、保育士になろうと思ったきっかけです。
外資系企業をリタイヤ後、65歳で保育士となった髙田勇紀夫氏。
篠田:髙田さんと同じように昭和の時代からエネルギッシュに働いて定年を迎え、同様のニュースを見た男性は大勢いると思います。それを自分事として危機感を持ったのはなぜですか?
髙田:「何かをしないとまずい」という内側から沸き起こる問題意識がありました。頭で考えるよりもやってみようと思ったものの、幼稚園と保育園の違いさえわからない、ピアノも弾けない、ないない尽くしでしたね。子育てを妻任せにしてきた贖罪の気持ちも少なからずありましたが、妻の大反対にも遭いました。
趣味を仕事にするまでの「価値観」の変化
篠田:働きながら、細々と何かを趣味で続けている人は多いと思います。ただ、それを職業にするのはまったく別の話です。山崎さんが華道家になろうと決意したきっかけは何でしたか?
山崎:華道は格式張った保守的な世界で、業界の平均年齢は70歳。いくら生花が好きでも、既存の世界で先生になるのは違うなと思っていたんです。でも、ある時、1日に2回生花のお稽古に行ったとき、地に足が着き、その日を「生きた」という強い実感がありました。生花は私にとって大切で、一番私が私らしくいられるということがわかりました。
篠田:HBSで教材を開発しながら日本を売り込む仕事をしていた頃ですよね?
山崎:はい。ただ、HBSで売り込むのは日本の企業や社会問題がメインで、やっているうちに、日本企業を世界に売り込むことに限界を感じるようになりました。一方で、生花は価値があるものだと信じて、実験的に生花セッションをやってみたところ、とても評判がよくて手応えを感じたんです。たまたま結婚相手も「すぐかたちになるよ。やってみなよ」と楽観的だったことも、後押しになりましたね。
篠田:職位が上がれば部下が増えたり、大きな仕事を任されたりします。私の場合、そのご褒美を次第に喜べなくなってきました。そんな時、外資系の大企業に勤める友人に「俺は部下が10人より50人、50人より500人になる方が嬉しいよ」と言われて、はっきりしました。大企業で偉くなるのは、純粋にサイズを大きくすることを楽しめる人だと思うんです。そうはなれないと悟った時に、「ほぼ日」で働くチャンスに恵まれました。現在、「ほぼ日」の役員を辞職しましたが、今後は、おそらくこれまでやったことのないことに飛び込むんだろうなという気がしています。
異ジャンルへの転身に、立ちはだかるハードル
定年後の65歳にして保育士となった髙田氏だが、保育士になる方法は2通りあるという。国の指定保育士養成施設を卒業するほか、諸条件をクリアした上で独自に国家資格をとる方法だ。髙田氏は後者を選択し、さっそく教材を取り寄せて、試験までの期間と必要な勉強量を逆算して愕然。期間は、たった4カ月しかなかった。
9科目あるので、1科目を2週間で勉強しないと終わらないことがわかり、日に8時間の猛勉強の末、見事筆記試験に合格した髙田氏。
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髙田:筆記試験はどうにかパスしましたが、実技試験の音楽が一番辛かったですね。実は妻がピアノ講師なのですが、その傍らで課題曲の練習に四苦八苦していました(笑)。
さらに第3の関門として待ち受けていたのは、年齢制限の壁。人材派遣に登録しようとしたら、そもそもフォーマットに60歳以上の年齢の欄がありませんでした。
篠田:しかも家庭のことや育児は妻にほぼ任せていらした中で、いきなり保育の現場に飛び込まれたわけですよね。
髙田:水泳のコーチにはなったものの、一度もプールには入ったことがないのと同じです(笑)。恥ずかしながら、無事保育園で働けるようになっても、おむつの前と後ろの区別さえつきませんでした。
篠田:よく思い切って保育の現場に飛びこまれましたね(笑)。大変なことも多々ありながらさまざまなハードルを越えた今は、現場でどのような実感をお持ちですか?
髙田:毎朝保育園に行くと、子どもたちが「じいじ先生、紙芝居やって」「おすもうやって」と飛びついてくるとき、保護者の方に「よろしくお願いします」と頼りにされるときに、保育士になってよかったなと心から実感します。それから、お遊戯会で去年はできなかった踊りが踊れるようになった子どもの成長に涙する保護者を見て、うるっとくることもありますね。
篠田:話を伺っていて、私も思わずうるっときてしまいました。山崎さんは、いざ華道の道に進んだときに「こんなはずでは」と思う瞬間はありましたか?
山崎:教室を開いたらすぐに生徒さんが集まると思っていましたが、全然来なくて、こんなものなんだなと思いました。徐々に3人の生徒が5人になり、口コミなどで増えていきましたが、歩き出さないと人はついて来ないので、やめたいと思ったことはなかったですね。
篠田:自分の確信が揺れなかったゆえんはどこにありましたか?
山崎:高齢の女性がやるものと思われていた生花ですが、20〜40代の女性が集中してすばらしい作品を作り上げるのを毎回見ていますし、このスタイルで生花の魅力を伝えられるのは私しかいません。華道家としての姿を見せないと人はついて来ないので、これからも歩き続けるしかないなと感じています。
篠田:お2人とも、誰からも頼まれていないのに不思議ですね。最後に、次なる課題について教えてください。
髙田:最初に危機意識を持っていた、育児をする保護者と子どものために役立つことはできるようになりました。次の課題は、保育士の幸せ向上ですね。現場で働く保育士は出会いも少なく、自分自身が家庭を持てるかどうか不安を持つ人が多いんです。婚活の仕組みなどを作ることで、お役に立てたらと思っています。
篠田:現場から、さらにケアをしていく対象が広がっているなんてすばらしいですね。山崎さんはいかがですか?
山崎:現在、華道家としてこうしてお話しさせていただいていますが、私自身、数年前まで自分がやりたいこともよくわからず、起業する人を見てすごいなと思っていました。今振り返ってみると、その時が来れば歩き出すものなんだなと実感しています。もし今迷っている人がいれば、迷っていること自体も尊いし、その先にきっと新しく見えてくるものがあると、私のこれまでの経験を通じて力強くお伝えしたいです。
篠田:「迷うことが尊い」なんてなかなか言えないことですね。今日はお2人の価値観の変化をつぶさに伺いました。若い頃ほど“自分らしさ”にしがみつきがちです。でも、価値観の変化は、予定してなくても変わることもあるということが、お2人の話でよくわかりました。
価値観が変わったことで、職業や生き方も変わるわけですが、その内面が見えない外野の人たちは驚くことでも、ご本人はその道がどんなに大変でも信じて進めるのだと思います。
「新たな夢への飛び込み方」とは、まずは価値観の変化が起きて、夢ができる。そこから新たに夢に向かって歩みなおすことなのではないでしょうか。お2人とも、今日は本当にありがとうございました。