聞き手:米田智彦 構成:友清晢
古川享
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1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年(株)アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役、1986年3月同社退社、1986年5月 米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。1991年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。2005年6月同社退社。
2006年5月慶應義塾大学大学院設置準備室、DMC教授。2008年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)、教授に就任。2020年3月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科を退職。
現在の仕事:N高等学校の特別講師。ミスルトウのシニア・フェロウ他、数社のコンサルティング活動
http://mistletoe.co
Think the earth, NGPFなどのNPO活動
http://www.thinktheearth.net/jp/
https://www.thengpf.org/founding-directors/
僕がマイクロソフトを出禁になったワケ
僕が1978年から出向し、副社長を務めたアスキーマイクロソフト株式会社は、主にMS-DOSやBASICのライセンス、また、80年代以降にはMSXの販売を手掛ける会社だった。マイクロソフトの資本が入った会社ではなく、あくまで日本国内の総代理店という立ち位置の会社だ。
ところが、この会社を立ち上げた西和彦さんというのは、マイクロソフトの基本ソフト領域で素晴らしい功績を数々打ち立てた人物ではあるものの、契約法務事務や金勘定といったことになると、てんであてならないことで有名な人でもある。なにしろアメリカ本国から次々に魅力的な案件を取っては来るものの、その後の契約締結、納品などはほったらかし。アメリカに送金しなければならないお金をいつの間にか他の目的に使ってしまっていたこともあったし、気がつけば何期分も税金を滞納していた、なんてこともあった。
MSXはそれなりに売れてはいたが、まだまだ事業規模は知れていて、僕がアスキーマイクロソフトに出向した時点で、なんと9億円もの借金を抱えている状態だった(新卒で入社したばかりで後に社長を務めるスティーブ・バルマーの初仕事)のだ。まずはこれをどうにかすることが、副社長としての僕の務めだった。
とにかく稼がなければならず、あれこれ商材を考える。使い勝手がよく、売上げが伸びそうなものに次々に手を出し、たとえばC言語で書かれた「Informix」というアメリカ製のデータベースのライセンスを売ったり、ジャストシステムという会社とワープロソフトの開発を進めたり、僕は様々な事業を動かした。ちなみにこの時、ジャストシステムが開発していたのが、「一太郎」の前身となる「JS-WORD」である。
しかし、本国のマイクロソフトからすれば、「Wordがあるのになぜよその企業にワープロを作らせているのか」となるし、データベースにしても、すでにAccessの開発を進めているタイミングだったから、微妙な思いで僕の動きを見ていたはずだ。
もっとも、こちらからすれば、Accessのようなソフトで本格的な業務運用を目指すのは無理があり、だったらUNIXの上でデータベースを稼働させるほうが理に適っているという言い分があった。要は、AccessとInformixの棲み分けは可能であると考えていて、実際この当時、日本でのマイクロソフト製品のPCメーカー向けOEMライセンスの売上げは、世界のどの国よりも良かった(WordやExcelなどの小売商品に限っては、 仏、独、英に次ぐ4位)のだ。
1984年、シアトルのフォーシーズンホテルのガラルームに、マイクロソフトの関係者300人ほどが集められて、盛大なクリスマスパーティーが催された。そこで僕の姿を見つけたビル・ゲイツが、つかつかとこちらに歩いてきて、30センチほどの距離まで顔を近づけて突然こう言った。
「裏切り者! ここから出ていけ!」
てっきり業績を褒められるのかと思っていたので、この不意打ちには心底驚いた。これ以降、僕は2年にわたってマイクロソフトを出禁になってしまった。
32歳でマイクロソフト日本法人の社長に
すっかりビル・ゲイツを怒らせてしまった僕はその後、ソフトウェア開発本部という部署で、独自のソフトの開発にあたることになるのだが、転機が訪れたのは1986年のことだ。
この年、マイクロソフトは8年間に及んだアスキーとの代理店契約を解消して、日本法人マイクロソフト株式会社を設立することを決めていた。そこで慌てて日本法人のトップを務める人材を探さなければならず、僕は数名の人物をリストアップして提案したが、どれもビル・ゲイツのお眼鏡には叶わず。
最終的には彼の方から、「やっぱりマイクロソフトの事業をよく理解していて、心から愛してくれているのは、サム、お前なんじゃないか」と言い出して、僕は初代社長の命を受けることになる。2年前の剣幕がうそのような穏やかな表情に、いささか戸惑ったものである。
この時、1つだけこちらからビル・ゲイツに強く要望したことがある。
「マイクロソフト・ジャパンという会社名だけはやめてくれ。マイクロソフト株式会社という名前だったら社長をやる」
というのも、当時すでに外資系企業の日本進出が相次いでおり、どこもかしこも「○○ジャパン」という会社名で溢れかえっていたからだ。おまけに外資系特有の厳しさで、成果がでなければ給料がもらえない、何かあればドライに解雇されるという、冷たい社風に世間はあまり良いイメージを抱いていなかった。
だから、マイクロソフト日本法人の初代社長として語られることが多い僕だが、登記上は先に、マイクロソフト・ジャパンの社長がシアトル本社に存在している。僕はあくまで、マイクロソフト株式会社の初代社長ということだ。
なお、ネット上では僕がアスキーから十数名のスタッフをマイクロソフトに引き抜いたと都市伝説的に囁かれているが、それは事実ではない。
マイクロソフトの社長に就くにあたり、アスキーの役職を降りなければならず、その時にアスキーの人事部が、「古川が離職して独立するが、付いていきたい者はいるか」というインタビューを全員に行なった。そこでYESと回答した人材を、出向扱いでマイクロソフト入りさせたというのが真相である。これが。僕が32歳の時のことだ。
これらのアスキーとの代理店契約を解消し、直接子会社を設立することになった事実背景は、マイクロソフト本社が米国の証券取引所に提出した「上場目論見書」に詳しい。
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