ITEM | 2018/05/14

デジタル革命後も歴史は繰り返す―「富の分かち合い」へ、茨の道を歩む【ブックレビュー】


神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏...

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神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

デジタル革命は産業革命に似ている?

ライアン・エイヴァント『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか』(東洋経済新報社)は、「人類の富をできる限り偏りなく行き渡らせるためには、寛容さ・心の広さが必要だ」ということを幅広い事例から教えてくれる。

題名にある「デジタルエコノミー」という言葉は、厳密に定義せずともだいたいどんなことであるか共通のイメージを持てるはずだ。私たちはデジタルテクノロジーによって経済活動が大きく変革する時代を生きている。ここまでの大変化は前例がないものの、「ローマは一日にして成らず」という言葉がある。ローマ帝国盛衰の歴史からいまだに教訓を得られるように、歴史から何かを学ぶことはできる。著者はまず、私たちの現在位置が産業革命当時に似ていると指摘し、その上で我々がどう振る舞うべきかを考察する。

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デジタル革命が産業革命とよく似ていると主張するのが本書だ。産業革命の経験が教えてくれるように、テクノロジーがもたらす新世界の果実を分かち合うための誰もが納得する社会制度が合意を得るまでに、社会は苦しい政治的変化の時期をくぐり抜けなければならない。残念ながら、経済変化から最大の恩恵を受ける層は、獲得した富を進んで分かち合おうとはしないものだ。(P22)

この記述を現代的文脈で考えるならば、例えばビットコインやブロックチェーン技術を熟知している人々が、子育て問題・高齢者問題・移民問題などといった社会全体の課題について、広く視野を持つことができているだろうかというような問題提起としてとらえることができる。

余剰をどうコントロールするかがキーポイント

著者はテクノロジーの進化によって一定の物事が自動化することには賛成していて、またそれによって多くの労働者が職を失うことを当然と考えている。人間は思いの外自由ではない。自由に選択して何かを購入したと当人は思っていても、その購買行動は社会的制約の範囲内にとどまっている。例えば、フレッシュ・マンゴスチンは日本でどう頑張っても食べることができない。植物検疫で生の状態での輸入が禁止されているからだ。

社会が変化していけば、当然暮らしぶりにもそれが波及してくる。自動化は非人間化ではなく、あくまで社会変化の一環だというのが著者の考えだ。

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テクノロジーが向上するにつれ、私たちはさらに踏み込んだ変化に惹かれていくだろう。車のない生活をするのも、学費の高い大学に行くのをやめてオンライン授業を受講するのも、お金がなくてやむをえずするがまんではなく、楽で自由度が高いからという理由で意志的に選ばれるものになる。 (P358)

本書のサブタイトルは「労働力余剰と人類の富」とある。労働力が余っているというのは、一見ぜいたくなことにも思えるが、「余っている」というのは状態であり変化ではない。加えて、余剰にもカテゴリーがあり、全てがすぐさま供給・消費を生み出すわけではない。AIやロボットを推進する立場からすれば、手が空いた分だけ別のクリエイティブな作業に時間を費やして、生活の質の向上に努めることができるというような考えに至るかもしれない。しかし、実際なかなかそうはいかない。全ての人がそうするとは限らないのだ。

「まとめあげる力」が、これからの世の中を動かす

著者は人と経済の関わりにおいて、そうした思い通りにいかない人の行動は経済学者が最も頭を抱える困難な点で、バラバラな志向はテクノロジーの発展と普及を妨げることを指摘している。

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失業した労働者のほとんどはむしろ、低スキルの仕事の奪い合いに追いやられる。そのような仕事に働き口を探す労働者の供給が増えれば、賃金は下がる。すると企業は人間の労働力をもっと使おうとするようになり、逆に本来ならできるはずの自動化の可能性を活用しなくなる。つまり。テクノロジーの進歩と生産性の向上はおのずと制約がかかるようになっているのだ。 (P85)

長期的な目線で競争優位を確保するための投資と言える最新のテクノロジーの導入。そして、短期的な目線で無難な策と言える安い労働力の確保。「合理的選択」として、後者を選ぶ企業が多いことは想像に難くない。しかし、世の中の流れは確実に、テクノロジーをうまく導入して組織内での合意形成に熱量を注ぐことが上手い方に軍配を上げている。著者は「企業文化」ということに着目して、アップル、バズフィード、エアビーアンドビー、フェイスブックなどの例を挙げてそれを書中で説明している。

上記の企業で何が共通しているかといえば、「社員が何をすればいいかという意志の共有できているとこと」だという。やっている仕事は社員各々でバラバラだ。しかし、ひとつの目的に向かっている。これは企業だけでなく社会にとっても必要な考え方で、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」と呼ばれることが本書で述べられている。

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生産の脱物質化は、ノウハウの重要性、つまり実行することそのものよりも、なにができるか、どのように実行すべきかの知識が重要になったことを意味する。脱物質化した経済では、情報の流れがすべてだ。ソーシャル・キャピタルは情報の流れを支配する人間プログラミングなのである。 (P179-180)

では、どのようにソーシャル・キャピタルを築けばいいのか。そのカギは、冒頭にも述べた「寛容になること」「広い心を持つこと」だ。移民の問題も取り上げられている。できるだけ多くの人を、移民も含め最大限受け入れる姿勢でなければいけないと著者は説く。他の国、出自の人の立場になって前提をくみ取ることができる。文化などの違いを目の前にしてもたじろがずまとめ上げていくことができる。そうした「人財」がこれからの社会では必要とされていくのだと、本書を読み進めるにつれて実感してくる。

「遠く」は遠いまま、「近く」も近いまま

テクノロジーは発展した。今や私たちは数秒でメールやビデオチャットさえも安価に地球の裏側に届かせることができ、絶対的な距離という尺度は縮まったかのように思える。そうした感覚に警鐘を発する著者の一言は、本書の目指す「寛容さ」「おおらかさ」を象徴している。

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逆に、私たちは距離を情け容赦なく殺そうとしているのが現実だ。私たちは一カ所で(必要に応じて数カ所で)すべてすまそうとしている。自分と他者の間の距離をいっさいなくし、距離を永久追放しようと決意したかのようだ。(P208)

「スマート」という名がつくモノ・コトが多くなったが、勘違いしてはいけない点は、スマートになったのはあくまで技術に関してで、人の心の通じ合いや精神そのものには全く関わりはないということだ。スマートなものを使ったからといって、私たちが即座にスマートになるわけではない。デジタルテクノロジーが物理的な距離を縮めるわけでもない。

私たちは、自分自身の意志で、心を広く開いていかなければならない。デジタルエコノミーを希望溢れる方向に進ませるための心構えを、本書を手にとって確認してはどうだろうか。