CULTURE | 2022/04/30

「ロシアと大日本帝国は似ている」からこそ、日本人にしかできない仕事がある

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(32)

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ウクライナ政府のSNSアカウントが、ロシア・ウクライナ戦争における自分たちの正当性を国際社会にアピールする動画の中で、昭和天皇の画像をヒトラーやムッソリーニと並べて「打ち倒されたファシストたち」の例として使ったことが日本国内で「炎上」し、抗議が殺到した結果ウクライナ側が謝罪するという事件がありました。

結果としては当該動画を削除し、昭和天皇の写真を抜いてヒトラーとムッソリーニだけにしたバージョンを再アップロードしたようです。

インターネットで毎日繰り返される「炎上」小さな一件ではありますが、個人的には色々なことを考えさせられる事件でした。

今回の記事は、よく指摘される「今のロシアと大日本帝国」が似ているという話から、今後の国際社会に対して「日本人ならではの貢献」について考えるものです。

プーチンとロシア軍を「全く理解できない野蛮な敵」と断罪するのは簡単です。「彼らの行動を全く理解できない」という人も多いでしょう。

しかし日本人なら、自分の祖父母や曽祖父母の世代が集団的に実際にやったことに近いことから、もっと直接的にロシアを理解することもできるはずです。

そしてその「直感的に理解できる」ゆえに、第三次世界大戦もありえないことではなくなった人類社会に対して新しい視点を提供することも可能になるでしょう。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。

1:「雑などっちもどっち論」を乗り越えるには「本質的などっちもどっち論」が必要

とはいえ、まず誤解を避けるために言っておきますが、私は今回の戦争について「どっちもどっち」論的なことをしたいわけではありません。

この戦争に関してはロシアが絶対的に悪い。

れいわ新選組などが主張している「NATO東方不拡大の約束を西側が破った」という話についても、細谷雄一慶大教授によると「会議で一瞬そういう話が出ただけで確約などされていない」そうです。

東欧諸国にも主権があるわけで、それを否定するわけにもいかない。そもそも侵略戦争を仕掛けていいはずがない。民間人虐殺なんてさらに問題外です。

日本は平均的な日本人が考えている以上に「結構な大国」なので、G7の一員としてロシア制裁に一切加わらず、中立を守るなどという選択肢はありえません。

そんなことをしたら国際社会の制裁に巨大な穴が空いてしまいますし、「軍事力があればいくらでも領土を奪い取れる。糾弾されても突っぱねればお咎めなしに終わる」みたいな前例が許されたら人類社会に平和などありえない。

だから戦争に関して「どっちもどっち論」をやりたいわけではない。

しかし!です。

我々が考えるべきは、世界中でここまで「どっちもどっち論が湧き上がる真因」の方です。

「どっちもどっち」的な話をしているのはロシア人だけではない。

アメリカや欧州をはじめとする自由主義社会のあちこちで、主に「今の国際秩序」的な取り澄ました存在への反感から、プーチンに肩入れする感情が渦巻いている。

さらに「シリア内戦の時と国際社会の態度が違うじゃないか」的な意味で、第三世界には非常に冷めた感情が渦巻いてもいる。

結局「国際秩序」とか言ったって「欧米人に都合の良い秩序」ってだけでしょう?

…こういう感情的反応が人類社会全体で渦巻いているからこそ、「どっちもどっち」論を止められなくなるわけです。

だからこそ今必要なのは、

「もっと本質的などっちもどっち論」

であり、

「国際秩序」に対して「これは皆のためのものだ」と立場を超えて思ってもらうためのメッセージの送り方を真剣に考えること

です。

2:「鬼滅の炭治郎」のような解決方法が必要

『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎は、鬼を斬ることに対して決して容赦はしませんが、「鬼が鬼になってしまった理由」を慮ることも同時に深くやります。

この2つは「どちらか」でなく「両方」やらなければいけない。

「一つの秩序を安定させる」には、「その秩序形成によって負け組になる側の感情的課題」を繋ぎ止めるための深い配慮が不可欠であるはずが、今はここが一切顧みられていない。

「完全なる善」が「悪」を排除した状態で無理やり秩序形成をしてしまうので、その秩序の「辺境」において溜まりに溜まった反感がいずれプーチン的存在を押し上げてしまう。

以下の図は私の著書でずっと使っている図なのですが…

グローバルに共通なルールを普及させて人類社会を一体的に統御しようとする力と、現地社会の独立性を担保し、ローカルな細かい事情を丁寧に拾い上げて統治をするための事情がぶつかりあっている。

ソ連崩壊以降、アメリカが人類唯一のスーパーパワーであった時期には右側から無理やり押し込むこともできましたが、今や「アメリカ」と「非アメリカ」の力が拮抗してきてどちらにも押しきれなくなってしまっている(そもそもアメリカ国内ですらこの注射器の左右に分かれて強烈に争っている)。

上の図で言えば、注射器の「針先」に穴が空いていないので、両側から押し込んだエネルギーの行き場がなくなってしまっている。

古代イラン帝国の王は、「すべてのイラン人と非イラン人の諸王の王」を名乗ったそうですが、この表現はなかなか含蓄があるなと私は思っています。

今の欧米による国際秩序を代表する存在だけでなく、それ以外の存在も共に「代表」することを引き受けるような振る舞いが、このロシア・ウクライナ戦争以降、人類社会には切実に求められることになるでしょう。

とにかくどんな立場の人だろうと認めないといけないことは、

どう言い訳しようと国際社会はロシアとのコミュニケーションに失敗した

…という厳然たる事実です。

もちろんそれはいわゆる「アメとムチ」の両面があります。

「もっと強くNOと言うべきところもあった」こともあるでしょう。

そして同時に、「無意味にロシア側の感情を逆撫でし、プーチン的存在を押し上げる結果になった西側の態度」自体を反省することも当然必要なはずです。

そしてこの「アメとムチ」は相互に結びついており、どちらかだけでは上手く機能しない。

炭治郎くんの例で説明したように、「鬼を斬る」を徹底してやるためにこそ「慮る」ことも同じだけ必要になる。

片方だけでは決して押し切ることはできない。

「慮る」の感情問題の方を放置したまま「斬る」だけをやろうとしても、世界中で「どっちもどっち論」が巻き起こり徹底的にやりきることができなくなってしまうからです。

「慮る」を徹底するからこそ「鬼を斬る」ことも徹底できる、そういう「本質的などっちもどっち論」こそが今必要なのです。

そしてそれは、「両側の納得を得ることよりも、誰かを土下座させたい」という暗い欲望が激しく渦巻く人類社会に対して、新しい視点をもたらすことになるでしょう。

その課題を真剣に考えられるのは、背負ってきた歴史的経緯から言ってまさに私たち日本人の役割と言ってもいいのではないでしょうか。

3:覚悟無く相手を土下座させるような態度には、より大きな報復が襲いかかる

今回、ウクライナ政府アカウントが投稿したTwitter動画への抗議については、「当然のことをしたまでだ!」と思っている人も日本には結構いそうです。

一方で、「今まさに戦争中で必死になっているウクライナの弱みにつけこんで自分たちの意見を押し込んだ」案件だと言う人もいるでしょう。もっと端的に「歴史修正主義案件」として批判する立場の人もいるでしょう。

私は、こういう問題で日本人の多くが切実に不満に思っていることを「ちゃんと言う」→「受け入れられて訂正される」格好になったこと自体には結構ポジティブな思いを持ちました。

欧州人にもわかるようにするには、

こういう時に東条英機の画像を使うのはいい。しかし昭和天皇を使うのは良くない。それはイタリアの首相とローマ教皇の関係性に似ていて、そこに起こる宗教レベルの摩擦を覚悟してやるならいいが、そこまでの感情的対立を引き受ける覚悟がないなら避けるべきだ

…というような話だということにしておけば「とりあえずの理解」は成立するように思います。

もちろん、上記のような論理に対して、ローマ教皇と昭和天皇の違いについて例をいくつも挙げて反論する人たちはいるでしょう。

しかしだからといって、上記のように主張したい日本人の集団がそれを主張する権利が消滅するわけでもないですし、切実に言いたいことなら溜め込んでないで言うべきです。

私はいつも思うのですが、ここで「この程度のことすら言わせない」で「相手の立場を完全に消滅させるような地点を目指す」からこそ、もっと深刻な歴史修正主義ムーブメントを止められなくなっているのではないでしょうか。

色々な立場の人の納得を吸い上げて共通了解を立ち上げていくよりも、唯一の正解を持ってソレ以外の立場を圧殺し土下座させたいという決着のさせ方が、人類社会における永久の火種を生み続けている。

私はそう考えています。

4:「ロシアと大日本帝国は似ている」からこそ、日本人にしかできない仕事がある

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今回の戦争について、ロシアの振る舞いと大日本帝国との振る舞いの共通点を指摘されることが多いです。

確かにロシアが強権的に「共和国」を樹立した東部ウクライナはまさに満州国のようです。

そういう「傀儡国家」ができてから、新しい国境付近で「テロリスト(ロシアや大日本帝国から見た場合)」的存在が散発的に暴発することが導引となって、さらなる軍事侵攻への歯止めが効かなくなっていく様子も、事態の進行とともに国内世論と国際世論がかけ離れていくところもそっくりです。

だからこそ、日本人なら、他の国際社会の人々とは違う視点でロシアを見ることができるのではないか?

日本以外の国の人は「ロシアの行動」をまるで「別の惑星から来た生物」のように理解できないかもしれない。一方で、我々なら自分の祖父母や曽祖父母あたりが実際にやったことに似た側面があるところから直接的に理解できるかもしれない。

その視点から、国際社会におけるロシアとのコミュニケーションがどういうものであるべきかについて何らかの新しい視点を持つことが可能になる道がある。

それは、もう80年近くなりつつある第二次大戦後の歴史の中で、日本社会がもがき苦しみつつ探求してきた課題に正面から向き合うことでもあるでしょう。

5:「断罪する」「戦争被害者を追悼する」「大日本帝国の最低限のメンツを残す」全部同時にやるべき

日本では毎年夏になると、テレビや新聞で「なぜ私たちはあの破滅的な戦争にのめり込んでしまったのでしょうか?」といったドラマやドキュメンタリーが大量に公開されます。

しかしそうしたコンテンツの大半は「歴史好き以外も驚く新しい情報」が出てこないし、いつも同じ「一億総懺悔」的なトーンが抑圧的すぎて日本人からこの課題に対して考える機運を失わせ、過剰に右翼的な言説を勢いづかせていもいるように感じています。

私が提案したい「毎年夏に考えるべき課題」は、

「国際社会がどのタイミングでどういうメッセージを発してくれれば、戦争は起きずに済んだのか」

…という視点を取り入れることです。

これこそ「日本人にしかわからないこと」だし、現代社会においても今最も実用的に考えられるべき課題ではないでしょうか?

そもそも欧米文明的秩序が、非欧米諸国における社会秩序を果てしなく掘り崩してしまうがために、強権的な政権で埋め合わせることが必要になる…というのは、当時も今も世界中で起きていることですよね。

それを単に

「欧米人は優秀で文化的だけど、非欧米人は民主主義という高度な制度を乗りこなせない欠陥人間ばっかりだよね」

…みたいな理解で終わらせておくのはまさにレイシズム(人種差別)だと考えられるべきです。

・欧米文明が無意識的にローカル社会の心理的紐帯を引きちぎってしまうメカニズムをキチンと対象化し、その圧迫を減らすこと

・ローカル社会の自律性を尊重しながら、人権や民主主義といった国際社会が普遍的と信じる価値を、現地社会の人心と溶け合わせながらいかに無無理に普及させていくべきか?について、丁寧な議論をしていくこと

これらこそが今の時代真剣に考えられるべき課題ですが、それは単に日本人が「一億総懺悔」的なことをしていても見えてこない。

先日、SNSで「エレベーターの中で女性が見知らぬ男性と一緒になると脅威を感じてしまう」という話が炎上ネタになっていましたが、こういう時に「男性側が何もしていなくても、脅威を感じてしまうこと自体は事実」なんだから対応をしましょう…というのが今の時代の「政治的正しさ」なはずですよね?

「欧米文明VS非欧米社会」においても、そこであと一段深い配慮が必要なのではないでしょうか。

それはロシアや中国やアフガンの暴虐を許すということではありません。

「鬼を斬る態度を断固としたものにするためには鬼を慮ることが必要だ」という「炭治郎くんの解決法」のために必要なのです。

ロシアの戦争や、中国がその辺境において行っていると見られる少数民族に対する抑圧の部分を本当に「斬る」態勢を整えるためには、同時に「慮る」の方も徹底的に必要なのです。

ロシアや中国の人にも「この“国際社会”という集団は“自分たち”のことをも代表してくれている」と感じさせる態度をいかに取れるかどうかが重要になってくる。

この時に、安易に「無垢な現地の民衆たちは本当は国際社会の味方なのだが、“悪の独裁者”に騙されているのだ」的な見方をするのは事実に反するんですね。

そういう「わかりやすい弱者」にだけ絶対的に着目して反省してみせるムーブメントが、「それでも微動だにしない欧米諸国の政体の特権性」を利用し、「辺境」社会の安定性を過剰に圧迫してしまうメカニズムについて、我々は意識的になるべき時期が来ていると思います。

例えば中国の国家的強権は色々な問題をはらんでいますが、結果として「GAFA」以外のIT経済圏を確保することに成功した数少ない事例になったという側面が明らかにある。

ロシアのオリガルヒや中東の宗教政権は批判されがちですが、彼らがコワモテの政権を作っていなければ、それらの地域で産出される資源は欧米の資源メジャー会社に良いように搾取されていた可能性もあります。

なによりオリガルヒや中東の宗教政権はその地域の人心をちゃんと「文化的に代表」してくれますが、「国際資本」は「遅れている土地」としての無意識的な蔑視感情を振りまきながらやってくる。

大日本帝国についても、そもそも19世紀に欧米列強が全方位的な酷い侵略をしてなければ、国家予算の三割も常に軍事費に割き続けるような必死の運営をする必要はなかったわけです。

大日本帝国に罪がないと言っているのではありません。

最終的に暴走し災禍を巻き起こしてしまった罪の原因を、大日本帝国だけに負わせるのは不可能だということです。

「人類全体が生み出す構造的な罪」を「特定の個人・特定の集団」に負わせて決着させようとするから永久に歴史修正主義的な反発が生まれてくることになる。

人類社会の歴史で途切れなく続いている作用・反作用の流れの中で「欧米文明から見た辺境」で感情的反感が募っていって暴発する…というこの「全体のメカニズム」自体を対象化して真剣に考えなくては解決できない。

この課題に対するドイツのやり方が「お手本」として長年称賛されてきましたが、それは結局

「西欧文明の一員としての特権性に引きこもり、ナチスだけをトカゲの尻尾切り的に排除し、その課題を“欧米から見て辺境の社会”に押し付けた」

…だけに過ぎない。

この「ドイツのやり方」の欺瞞性に向き合うことからしか人類社会の「次」は決して見えてこない。

要するに「叩きやすいヤツをかっこよく叩いてるだけ」みたいなのではダメだということです。

これを「人類全体の罪」として、「こういう連鎖が起きないように」真剣に考えるべき時なのです。

大日本帝国がアジアの民族自立のための聖なる戦いをした…みたいなことを言いたいわけでもない。行く先々で戦争災禍を起こしてしまったことを否定したいわけでもない。

しかしとめどなく連鎖していく人類社会の歴史の中で、大日本帝国による必死の挑戦がなければ、欧米社会は非欧米社会をもっと良いように搾取し続けていたことも明らかに事実でしょう。

その「たった1点分のメンツ」を認めることと、「侵略を起こしてしまった罪」を認めることと、「戦争被害者への謝罪を行う」ことは三位一体であり、どれが欠けてもその本質的なアンフェアさゆえに人心を安定的に引きつけておくことはできないのです。

「東条英機なら断罪してもいいが、昭和天皇を断罪するなら覚悟しろ」というような反発が象徴的に意味しているのは「そういう部分」だと私は考えています。

これはもっと象徴的に言えばこういうことです。

フランス革命の「理想」を私たちは人類社会全体に普及させたい。しかしそのためには、フランス革命の「熱狂」が生み出したギロチン祭りや、その結果軍隊に攻め込まれて酷い目に遭った外国の事情から目を背けてはいけない時代になったということです。

大日本帝国について「100%の断罪」をする勢力と、「100%何も悪いことをしていない」という勢力がぶつかりあっていても永久に解決できない。

大日本帝国についての「彼らが彼らであるたった1点のメンツ」の部分をフェアに理解できる土壌を用意すれば、「大日本帝国が犯した罪」に対してもっと広く安定的に共有できるようにもなる。

「人類全体の構造的な罪」を「特定の個人・特定の集団」におっかぶせて自分は全然関係ないという態度自体がもたらす歪みが、たまり溜まってこういう戦争になるのだということを知るべき時だと言えるでしょう。

6:月に咲く花のように「糾弾の自己目的化」を超える道を探していこう。世界はそれを必要としている

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喫緊の国際政治的課題については、日本は今回の戦争において欧米側と協調して制裁に参加する以上のことはやりようがありません。そもそも欧州での出来事ですし、軍事支援など憲法的に不可能なのだから、粛々と「国際社会の一員としての義務」を果たしておけばいい。

しかし、もっと本質的な「解決」を人類社会が必要とするとき、それは日本人が過去80年弱の間苦しんできた「矛盾」に真摯に向き合う中から生み出されてくるものがその答えとなるでしょう。

もちろん、「叩きやすいヤツを叩くだけのムーブメント」はこれからも世界で吹き荒れるでしょう。

その方がインスタントでわかりやすいですし、自分は絶対善で、あいつらが絶対悪だ!という構図に酔うのはとても気持ちが良いですからね。

そしてもちろんそういう風潮が、今まで光が当たらなかった人類史の側面に光を当てる効果があることも事実なので、とりあえずその流行自体は行くところまで行く意味はある。

しかし、先述したようにそういう風潮自体が、「欧米文明が自己反省しているようで、欧米と非欧米社会の間にある権力格差を利用し、非欧米社会の安定性への過剰な攻撃になっている」メカニズムがある。

それが人類社会の不安定化をもたらし、そもそも「欧米的理想」自体を全否定するようなムーブメントに押し流されそうになってしまっている。

結局、このポスト・トゥルース時代にありとあらゆる立場の個人が「真実」を必死に守りきろうとぶつかりあう時代には、「欧米的価値観の高みから、叩きやすいヤツを叩く」ムーブメントが維持不可能になっていくことは明らかです。

そのとき、もっと本質的な多面性を含んだ世界への視座を人類社会は必要とするようになるでしょう。

例えば今回の記事で何度も例に出した『鬼滅の刃』のヒット自体が、何らか「常にその辺境に敵対心を巨大に育ててしまうような現行の国際秩序」に対する日本人の本能的対処の姿勢から生まれてきていると言えるかもしれない。

「鬼滅」のような有名作品だけではありません。

日本の漫画には唖然とするほどの作品が多々あって、例えばたまたまネットで紹介されて読んだ伊藤悠『シュトヘル』などは本当に名作だと思いました。

これはモンゴル帝国がユーラシア全体を征服していく中で、征服される側の西夏という国の人々が自らの文字を残そうとする必死の意志が現代に繋がっていく壮大なドラマなのですが、単純に「モンゴル=悪」「西夏=善」だと描いているわけでもありません。

モンゴルがもたらす巨大な商圏の成立によってあらゆる立場の人間が受益している事実も描かれているし、一方で被征服者側の「意地」を歴史の中で守り抜くことの価値も描かれている。

終戦後、人類全体の構造的な歪みをある意味で「押し付け」られたまま生き延びてきた日本人の切実な思いが、「本当の課題」への真剣さとなって脈々と作ってきた思潮が存在する。

征服者の事情も、被征服者の意地も、「同じ一つのナラティブ」の中で多面的に響かせるような作品を作っていくこと。

単純な勧善懲悪のカタルシスに逃げないこと。

「糾弾の自己目的化」ではなく、人類全体の作用・反作用の不可避の流れをいかに良い方向に持っていくかについて立場を超えて考えていくこと。

それこそが、毎年毎年の「一億総懺悔」に嫌気が差した先で、日本人が「普遍的価値」に対して貢献できる道となっていくでしょう。

欧米文明の「辺境」で起きる現象について多面的に描いたドストエフスキーなどの19世紀ロシア文学が、「グローバルに語り得ぬものをグローバルに語るプラットフォーム」として世界的に受け入れられたように。

「グローバルと反グローバル」がぶつかりあう最前線で起きることについて、「どちらの側も等しく代表する」立場からの答えを紡いでいくこと。それをやりきれば、19世紀ロシア文学が果たした役割をさらにアップデートした人類に欠かせない共有軸となっていくでしょう。

日本人は、自らに課せられた歴史的経緯ゆえに、この「難しい課題」に向き合うことができる。

東欧や中東の人から、

「日本はあのアメリカと戦った国だから俺たちの仲間だ」

…というようなことを言われた経験のある日本人は多いでしょう。

「一方的に断罪してくる欧米中心の国際秩序に対する、非欧米社会の反感」を直接的に理解できる一方で、欧米的秩序が持つ価値観の素晴らしさも理解している。「欧米側」の陣営として長く生きてきた蓄積もある。

そういう国だからこそできることがある。

「欧米社会に圧迫される側の感情」を理解することで、「欧米社会が掲げる理想」が吹きとんでしまわないように繋ぎ止める道が生まれる。

古代イラン王の名乗りのように、

「すべての欧米側の国の人の気持ちと、非欧米側の国の人の気持ちを代表する」

そういうムーブメントを時間をかけて紡いでいきましょう。

「ロシアと大日本帝国は似ている」からこそ、日本人が今後の人類社会に対して果たしていくべき使命がそこにはあるのです。

単に「自分たちは何も悪いことをしていないぞ!」と強弁するのではなく、もっと普遍的に「自分たちの歴史」を弁護する視点を、世界は必要としているのです。

「現状の欧米中心主義的な世界観から叩きやすいヤツをカッコよく叩いて終わり」的な暴風が吹き荒れる時代の中で、月に咲く花のように「その先」を紡いでいきましょう。

「全部自分と逆側で生きている人間のせいにする」ムーブメントが人類社会のあらゆる場所から放出され続ける混乱が行くところまで行ったとき、日本人が紡いでいるその「新しい視点」は人類社会に「発見」される事になるでしょう。 そしてその道をやりきることによってのみ、「いわゆる歴史修正主義」的なムーブメントを乗り越えることも初めて可能となるでしょう。

今回の記事で書いたように、19世紀ロシア文学が果たしたような「世界的な意義」を、さらにアップデートしたような価値を日本文化が担える可能性が見えてきていると私は考えています。

欧米文明と非欧米社会を完全に等価に対置し、現地社会の事情を汲み上げつつも欧米的理想が吹きとんでしまわないようにする思想的立場を作っていく試みとして、私は思想家の東浩紀氏の仕事をベースにした「誤配がもたらすメタ正義」運動を立ち上げたいと思っています。

以下のページにその「発起文書」的なものがあるので、ご興味のある方はぜひご参加ください。

『誤配がもたらすメタ正義』宣言=『ロシアの悪事』をキッチリと断罪するために、ロシア現代思想を読み解くのは日本人がやるべき役割かもしれない。(前編)

戦後80年近く、ただ問答無用に断罪されてきた人類社会の歪みを正し、しかし単なる自己弁護でなく「新しい普遍性」を目指す試みを、世界は切実に必要としています。

またそれに関連して、すべてを「敵と味方」に分けて延々と糾弾する事に熱中し、社会の逆側に巨大な恨みのエネルギーを溜め込んで常にバックラッシュに怯えることになる「改革」ではなく、「感情的な共有基盤」を育てていきながら「本当に社会を変える」ための有意義な議論をする方法について、私のクライアント企業で10年で150万円もの平均年収を上げることに成功した事例などを起点としつつ、徐々に社会全体の大きな課題解決の論点整理にまで踏み込んだ本を出しました。

日本人のための議論と対話の教科書

上記リンク↑で「序文(はじめに)」を無料公開しているので、この記事に共感された方はぜひお読みください。

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