ITEM | 2019/09/02

日本人初の安楽死の現場から見えた未来の死とは?「安らかで楽な死」を通して「豊かな生」を考える【ブックレビュー】


神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏...

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神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

安楽死とは何か?―安楽死、尊厳死、セデーション

FINDERSではこれまでにも『Die革命』など、死・生をテーマに本を紹介してきた。今回は、宮下洋一『安楽死を遂げた日本人』(小学館)を紹介しながら、安楽死という切り口から死・生に対する価値観の変容について考えてみたい。

著者はフランスやスペインを拠点として活動するジャーナリストだ。スイス・オランダ・ベルギー・アメリカ・スペイン・日本、計6カ国における安楽死のあり方を取材して第40回講談社ノンフィクション賞を受賞した『安楽死を遂げるまで』(小学館)に続いて著者が選んだのは、安楽死をしたいと考える「日本人の想い」を分析するという内容だ。

「安楽死」という言葉はいまや誰もが知るものとなった。しかし、現状、日本で安楽死は法律上誰にも許されていない。

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まず医師が患者から、安楽死を要求されたとして、それを実行すれば、刑法199条の「殺人罪」で死刑か無期、もしくは5年以上の懲役を受けることになる。 安楽死の協力者や仲介者も法に問われる。刑法202条で人を教唆、幇助して自殺させたり、嘱託を受けて殺したりした者は、6月以上7年以下の懲役か禁固刑に処されてしまう。(P26)

安楽死と混同しやすいのが尊厳死だ。前者は精神的・肉体的苦痛から本人を開放するために、意図的・積極的に医療措置(致死量の薬物の投与)を講じる「安らかで楽な死」。後者は、主に延命治療の中止や手控えをする「尊く厳かな死」。つまり、意図的に死を訪れさせるのが安楽死、たとえ苦しみがあろうとも自然な形で死を訪れさせるのが尊厳死ということだ。

このふたつを介在するような医療行為としてセデーション(鎮静)がある。セデーションでは、最後の数日の苦痛を緩和するために最小限の鎮痛剤を投与して患者の意識を失わせるが、それをするかしないかは患者の意志ではなく医療従事者や家族の判断に委ねられる。

本書は安楽死を推進する立場では書かれていない。賛成も反対もしてない。著者は常に安楽死の意義や、それを望む患者の姿勢を疑ってかかっている。しかし、その現場を目の前にして心が揺れ動く。そのダイナミズムが本書の最大の見所となっている。

自分はどう死にたいか?「死の自由」が語られる時代へ

題名に「遂げた」と完了形で書かれている通り、著者はある日本人が安楽死を遂げるまでの過程を取材することに成功している。日本では違法の安楽死を可能にしたのはスイスのライフサークルという機関である。実際、本書に登場する人物たちの多くがスイスに渡航して安楽死をすることを夢見る。スイス国内で亡くなれば、日本の法律は適用されず罪に問われないからだ。

本書では多くの人物を取材していくというよりも、死を目の前にした少人数の心を深く掘り下げていく。死を目の前にした人の心と、まだその脅威が差し迫っていない人の心の間には容易に飛び越えることができない溝がある。前作『安楽死を遂げるまで』に読者としていち早く(10日後)に反応した末期ガン患者・吉田淳(仮名)と著者の距離感は、ファミリーレストランの「こちら」と「あちら」という座り位置で表現されている。

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私は世界中を移動し、それなりに自由な生活を送っている。吉田は、仕事もできなければ、遊びに出かけることもできない。同世代で、共通項もあるが、置かれた状況はまるで違う。テーブルを挟んで向き合うわれわれ二人は、もしかしたら何も理解し合えていないのかもしれない。(P123)

取材対象者の一挙手一投足を観察し、深淵をじっと眺め、湧き出てきた感情を軸に次の行動につなげていく。著者が自ずと自分に課しているこの行動規範が、本書の文体だ。吉田の場合、突然のガン宣告に同情するのではなく、彼が頑なに語ることを避ける家族関係に目を向けていく。

末期がんで余命を宣告された後もひたむきに仕事を続ける写真家・幡野広志も登場人物の一人だ。著者は幡野を「新たな傾向の死生観を持つ人物」として取材し、幡野の言葉は安楽死に懐疑的な著者の考えを揺り動かす。

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「自分が望む最期について、患者の意思が尊重されないのは問題ですよね。ならば結果として、患者を苦しめてしまう。自分の思い通りに死ねないわけですから」 (P137)

「人は人、自分は自分」という言葉自体は、いつからかは分からないがそれなりに昔からあるはずだ。しかし、今まで主にこの言葉は生き方に言及する際に使われてきて、死は平等に、不自由な形で訪れるものだった。1983年生まれの幡野の生き方を「新たな傾向」と著者が呼んでいるのは、医療技術が発展し、人の死が自由を獲得しようと欲しはじめていることを幡野が察知しているからだろう。

もちろん、何でもしていいのが自由ではなく、自由は諸刃の剣でもある。無差別殺人の果てに自分も死ぬという形で「死を遂げる」という決断に至ってしまうことが起こってしまっているのもまた事実だ。著者は、尖った剣の刃を注意深く持ち、その輝きと錆つきの両方を見ながらぼんやりとした輪郭の「死の自由」を具体的にしようと挑んでいる。

人を知ることと、自分を知ることの連鎖反応

「明日が最期の日だとしたら、今日何をしますか?」「残された時間が少ないと知っても、今の仕事を続けますか?」といった問いかけは、典型的ではありつつも、まるで命が永遠であるかのように日々を過ごす人々をしばしば立ち止まらせる。

筆者は以前東南アジアで動物に引っ掻かれて狂犬病のリスクに直面したときに、死の存在を目前に見たことがある。狂犬病は発症するとほぼ100%死に至る。発症するかもしれないし、発症しないかもしれない。しかし、100%という数字は、「いまの私」にとって大事なものを走馬灯のように私に思い起こさせた。その恐怖は、私を現地で病院に行かせ、帰国後に5回におよぶ曝露後ワクチンを海外旅行保険で受けさせた。

「生きるとは何なのか?」という問いかけ自体もさることながら、それを死という視点で考えることはなかなか日々の忙しい生活の中では難しい。だからこそ、本書でカギ括弧が出てきて取材対象者の言葉を目にする度に、読者は心を揺さぶられる。

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「分子は人生の濃さで、分母は生きた年数だとします。私の分子は、49歳で止まってしまったの。分母は51歳。でも結構、濃密な人生を歩んできたので、多分、分子は60歳くらいになるんじゃないかな。そうすると、60÷51で、まあ1点幾つにはなるんです。」(P210-211)

「自分の分子は分母を越えているのか」「そもそも自分の分母はいくつまで続くのか」と考えた方も多いはずだ。著者は取材対象者に無用な励ましや提案はせず、言語に堪能なため通訳を求められることもあるが手助けはしないという姿勢を必死に貫徹しようとしている。それでも、その足場が揺らいで、動いてしまうことが数度本書の中にはある。著者は、その瞬間も隠すこと無く素直に記している。

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「あまり自分を責めずに、もう少し、肩の力を抜いて、子供さんや妹さんたちと話をしてみたらどうですか。そんなに強い女性である必要もないんじゃないですか。正直に悩みを打ち明けたら、理解して手を差し伸べてくれるんじゃないですか」 出すぎた態度であることは分かっている。だが、それだけは伝えてみてもいいと思った。(P266)

「安らかで楽な死」を切望する人々に全身全霊をかけて対峙した結果、本書は安楽死のルポルタージュであるとともに、著者自身の心と体をも巡るルポルタージュになっている。安楽死の現場を巡る描写は、重々しい瞬間もある。しかし、あるひとりの人間にとって「他者」とはどんな存在なのかという普遍的な次元にまで押し上げられた本書の内容は、その重さをしっかりとした重心にかえて、一歩立ち止まって世界のありふれた美しさをじっくりと見つめる機会を与えてくれる。