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ピコ太郎やオリラジの音楽は「笑えるから不真面目」と言い切れるのか。『コミックソングがJ-POPを作った』著者によるセルフライナーノーツ|矢野利裕
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  • 2019.05.16
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ピコ太郎やオリラジの音楽は「笑えるから不真面目」と言い切れるのか。『コミックソングがJ-POPを作った』著者によるセルフライナーノーツ|矢野利裕

思わず笑ってしまう、そして口ずさみたくなる歌詞や、キレのあるパロディや風刺、宴会芸としてマネしたくなる格好、振り付けなどが魅力的な「コミックソング(欧米では「ノベルティソング」と呼ばれる)」の数々。古くはザ・ドリフターズ「いい湯だな」、イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」、もう少し年代が近くなると、はっぱ隊「YATTA」、岡崎体育「MUSIC VIDEO」などなど枚挙にいとまがないですが、こうした音楽たちはユーモアにあふれる一方、「本格派」な音楽と比べてどこか一段低くみられている節があります。

そうしたコミックソングたちは「二流の音楽」ではない、明確な魅力があり、かつそれまでなかった新しい音楽ジャンルをお茶の間にも広めるにあたって節目節目で重要な役割を果たしてきたのではないか、と指摘するのが、4月24日に発売された矢野利裕さんの新著『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』(ele-king books)です。

明治時代に流行した「オッペケペー節」からピコ太郎「PPAP」まで、100年以上にわたる、あまりまとまったかたちで振り返られることのなかった日本コミックソングの歴史をいま考えることがなぜ重要なのか。その魅力を著者に直接紹介してもらいました。

矢野利裕

批評家/ライター/DJ

1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。

blog:矢野利裕のEdutainment

「音楽について書く」とはどういうことか

いま、音楽はどのように聴かれているのでしょうか。定額配信サービスの隆盛によって、かつてのようにCDが買われなくなったと聞きます。YouTubeでMVをチェックすることが多いという人もいます。そのような反動からか、一方ではモノとしてのレコードやカセットテープの存在感が増してもいます。10年くらいまえ、坂本龍一さんが自身のラジオで、「これからは音楽がどんどんデータ化される。モノとしての魅力が大きいレコードは残りそうだが、CDはメディアとして中途半端だから厳しいのではないか」といったことを予想していましたが、そのような状況に近いのかもしれません。

そんな音楽をめぐる状況が日に日に変化しているさなか、音楽について書くというのはどういうことなのでしょうか。ポピュラー音楽を取り巻く状況や環境を書くことでしょうか。楽曲構造を分析的に書くことでしょうか。あるいは、アーティストの考えていることを掘り下げることでしょうか。個々の音楽の影響関係を取り出すことでしょうか。どのアプローチもそれぞれに必要だと思いますし、それぞれの領域で意義深い成果があります。

しかし、僕は次のように考えがちなところがあります――すなわち、どんな人においてもどんな状況においても、いつだって音楽は歌われ、演奏され、踊られるのだ、と。歴史的に見ても、あらゆる地域において、それこそ文化の誕生とともに音楽がありました。宗教儀式、口承芸能、レコード、CD、ストリーミング……。発現のしかたはさまざまなれど、歌い、踊るといういとなみ自体は変わりません。現在のわたしたちも、その延長で音楽の喜びに触れているのだと思います。だとすれば、そのようにあらゆる状況のなかで奏でられる音楽の喜びをどのように言葉にできるのでしょう。

シビアな時代だからこそ「軽薄」について考えることの大切さ

先日、上梓した『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』(ele-king books)は、そのような漠然とした、しかし拭いがたい問題意識とともに書きました。僕は音楽をそれなりにマニアックに聴き込むほうだと思いますが、とは言え、新しい音楽に触れた最初の最初、その歴史的な意義や新しさを理屈で捉えていたわけではありません。とにかく、わけのわからない衝撃のようなものを身体に感じていた気がします。僕にとってそれはヒップホップやソウルミュージックだったりするわけですが、リズムやメロディも含めたその過剰で異形のミュージシャンの振る舞いに心を奪われた気がしました。

その後、それらの音楽を深く聴き込むためにも、黒人文化や公民権運動のことなどを勉強し、ブラックミュージックの社会的な意義も見出すことになるのですが、そのような解説は一方で、Bボーイの振る舞いをマネしていたような、ややイタい感すらあった僕の最初の衝撃とは乖離しているようにも感じられました。

ブラックミュージックに限らず、ロック少年だって、パンク少女だって、少なからずそうだったのではないでしょうか。なにかの音楽に衝撃を受けたとき、考えることは、「自分もやってみたい!」ということではないでしょうか。そのような「「夢」別名「呪い」」(ライムスター「ONCE AGAIN」)に強くとりつかれた人は、そのまま自分も表現者になるでしょう。そこまで行かなくとも、素敵な音楽を聴いたその人は、気分のいいときに鼻歌を口ずさんでみたり、カラオケで熱唱してみたりするでしょう。あるいはもっと軽薄に、笑いを含んだかたちで替え歌として歌ったりするでしょう。情熱の度合いはさまざまかもしれませんが、そのどれもが、新しい音楽を聴いたときの喜びの発露のかたちです。

そう考えると、わたしたちの生活には、どれだけ音楽の喜びがあふれていることか。誰かの調子のいい鼻歌、カラオケでの熱唱、あるいは近所の学校から聞こえる吹奏楽部の演奏、その他、街中に流れるあらゆる音楽。音楽について〈真面目〉に考えているわきで、そのように〈軽薄〉にたくましく伝播する音楽のありかたがあります。それは、もっと逼迫した戦前の状況においても、あるいは戦時下だって変わりません。それぞれの立場の人が、それぞれの状況のなかで、音楽の喜びを求めていたのだと想像します。

だから本書は、〈軽薄〉という主題とは裏腹に、戦前における軽音楽規制の話、戦地慰問の話、占領下における演芸の話など、それなりにシビアな内容も含んでもいます。本書は、シビアなときこそ、そのシビアな状況を打開するような〈軽薄〉さが重要なのだ、という立場の本でもあります。

新しい音楽が広まる過程には、往々にして「笑い」がある

このような音楽の〈軽薄〉さについて考えるために設定されたのが、「コミックソングがJ-POPを作った」というやや振りかぶり気味のテーゼです。というのも、冗談半分でマネされ歌われ〈軽薄〉に消費されるコミックソング/ノヴェルティソングは、おうおうにして、わたしたちの音楽の入口になるからです。あるいは、コミックソング/ノヴェルティソングは、おうおうにして、新しい音楽の実験台になっていたからです。

古くはエノケンとジャズソングの関係、あるいは、YMOにおける笑いへの興味、スチャダラパーのコミカルな振る舞いなど。最近では、オリエンタルラジオがEDMをお茶の間に届けたと言えるでしょうか。新しいジャンルの音楽が人々に広まっていくさい、そこには少なからず〈笑い〉がありました。

このように、誰も知らない新しい音楽は、その滑稽さや違和感ゆえに〈おかしさ〉(=滑稽・奇怪)とともに受容され、〈笑い〉とともに広がった、という面があり、そのような〈軽薄〉の音楽史とでも言うべきものを紡いだのが本書ということになります。それは、ポピュラー音楽の歴史に新しい光を当てるとともに、僕にとっては、音楽の喜びそのものを言葉にする作業でした。いや、歴史化を拒むように無方向に拡散していく音楽の広がりの、その一端を、かろうじて自分なりにつかまえただけかもしれません。したがって、書ききれなかったこともたくさんあるという思いも、正直あります。

このような作業においては、かつて大瀧詠一さんがラジオや誌面、あるいは実作でおこなっていたことをかなり意識しています。大瀧さんは、有名な「分母分子論」などにおいて、いかにも〈日本的〉だと思える曲も、実際は海外の音楽の影響を色濃く受けているのだ、ということを指摘しました。そのことを踏まえて、芸人・ミュージシャン・俳優のマキタスポーツさんは、「ポピュラー音楽はおしなべてノヴェルティソングである」という見立てをしました。本書は基本的に、ポピュラー音楽をめぐるそれらの議論の蓄積のうえで書かれたものでもあります(輪島裕介さんによる『踊る昭和歌謡』(NHK新書)も、おおいに参考にしています)。

したがって、そこで取り上げられるミュージシャンは、白人中心主義的とも言えるロック中心のポピュラー音楽史とは少し異なったものになるでしょう。無限に広がっていくポピュラー音楽の一側面だと考えてもらえたら幸いです。

「軽薄」な音楽と、罪深き危うい魅力

ここまで軽薄軽薄と、なかば自嘲的(かつ戦略的)に書いてきました。しかし、理性とは無関係に〈軽薄〉に移ろう感情のありかたに注目することは、現在において、けっこう重要な気もします。というのも現在、そのような〈軽薄〉さを見ないような、悪い意味で理性的すぎる意見が多いと思えるからです。誰でも感じたことがあるのではないでしょうか。

〈正しさ〉はある面においてはとても退屈です。良くない考えで凝り固まってしまった人が目のまえにいるとして、その人に対して、こちら側の〈正しさ〉を言い募るだけでは対立は深まるばかりです。そうではなくて、必ずしも理性的ではなく、移ろいやすくて軽薄な、その人の感情や欲望のほうまで降りていったうえで対話をすることが必要だと思うのです。あるいは、自分のなかにある〈軽薄〉な、必ずしも良くない感情や欲望に目を向けることが大事だと思うのです。抽象的になってしまいましたが、音楽の〈軽薄〉について考えることは、自分にとってそういうことを意味していたような気もします。

音楽とは、その感情の揺さぶりという機能において、とても危ういものだと思います。音楽による感情の揺さぶりが、ある面において反戦のエネルギーになったかと思えば、ある面において戦意高揚につながります。例えば、その両極を行ったり来たりしていたのが、演歌師の添田唖禅坊や作曲家の服部良一でした(詳しくは、ぜひ本書で)。

また本書において重要な人物のひとりである爆笑問題・太田光さんは、ラジオで、電気グルーヴ作品回収に対する批判的言説――「作品に罪はない」に対して、次のように批判していました。いわく、電気グルーヴ作品回収は自分もやりすぎだと思う。しかし、「作品に罪はない」は嘘だ。音楽は人をおかしく(可笑しく!)させてしまう罪深いものだ、と。僕も同感です。僕が音楽に魅了されるのは、音楽が罪深き危うい魅力にあふれているからです。少なくとも、音楽の喜びについて謳っている本書においては、そこから目を背けたくはなかった。いろんなことに冷静になれず、移ろいやすい〈軽薄〉な感情に支配されがちな人に読んで欲しいです。もちろん自分も例外ではありません。

細かな目次内容はele-kingのサイトで確認して欲しいですが、さしあたり、上記に関わる部分を引用・紹介します。少しだけポレミックに映るかもしれませんが、どうでしょうか。

以前、とあるトークイベントにおいてサウンドデモについて話すなかで、出演者のひとりから「もし認めがたい主張(例えば、ネトウヨによるヘイトスピーチのような)をしている人の音楽が良かったら、その音楽も認めますか」と質問されたことがある。質問をしたミュージシャンはとても誠実に「自分は認められない」と言った。僕の答えは、葛藤ありつつ「認める」である。やはり、音楽の本領は、作った人や演奏した人の思いをわきに置いて、好き勝手にマネされ歌い継がれる点にあると思うからだ。(「第2章 戦前・戦中――ジャズと演芸と戦争」より)

さまざまな論点の詰まった、というか、〈軽薄〉な音楽のようにまとまりのなさを許容した部分もありますが、ご興味の向きがあれば、『コミックソングがJ-POPを作った』、ぜひご一読ください。


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