映画『Winny』のポスター
3月10日公開の映画『Winny』が好調だそうです。私も観てきましたが非常に良い作品だと思いました
ただ、私はWinny事件のことを単に
・天才プログラマーを無理解な日本の国家権力が潰してしまった話
・日本はWinnyを潰したが、アメリカはYoutubeを育てた
・日本は開発者の自由な発想を頭の固い老人どもが認められないから衰退したのだ
…というストーリーで理解するのは反対で、そういう「安易なストーリー」でしか理解できない風土があるからこそ日本ではIT分野でのイノベーション競争に勝てなかったのだすら考えています。
とはいえ、「この映画もそういう安易なストーリーなのではないか?」と思い警戒しながら観に行ったのですが、それだけではない内容に仕上がっていて私はかなり好感を覚えました。
勿論そういう「安易なストーリー」に落とし込もうとする製作者の意図は感じられたものの、実在の人物である金子勇氏のリアリティがその「安易なストーリー」を超えた存在であるために、作品を一段大きな普遍的存在へと引き上げる効果を持っていたのではないかと思います。
今回記事では、この映画の紹介をしつつ、「日本はWinnyを潰したが、アメリカはYoutubeを育てた」の間にある違いは、いったい何なのか?日本がイノベーションを潰さないで活かしていく国になるために必要なことは何なのか?について書きます。
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。
1:Winnyに関する基礎知識と今回の映画について
Winnyは2002年に開発されたファイル交換ソフトで、著作権を無視して映画や音楽、アニメやパソコンソフトなどを無料で共有してしまえるプラットフォームとして人気を誇っていました。
また、大容量ファイルの流通によるネットワークの混雑、児童ポルノ・リベンジポルノの流通、PC内のファイルを勝手に公開してしまうコンピュータウィルスの媒介、それに伴った個人情報や機密情報の流出などが問題視されていた。
結果として開発者の「47」こと金子勇氏が2004年に逮捕され、06年に地裁で有罪判決を受けてしまう事態に発展してしまいます。
「包丁で殺人を犯す人がいても包丁を作った人の責任ではない(この例え話は実際には使われていないそうです)」のと同じで、「違法行為はそのソフトを“使った者”の問題であってそれを“開発した人間の罪”は問えない」というのが当時も今も国際的な法律運用であり、それを踏み越えて有罪判決が出た(後に最高裁で無罪確定したにせよ)ことには批判が多いです。
映画『Winny』は、実際にこの事件を担当した弁護士である壇俊光氏のブログを基にした小説が原作であり、Winny開発者の金子勇氏が逮捕されてからの取り調べ、地裁での法廷劇、そして無罪を勝ち取ったあと心臓発作で亡くなるところまでが描かれます。
当時の時代を思わせる小道具類も、一部で金子氏の遺品や壇氏の私物を使うぐらい凝っていて、ソフトウェア開発をしているシーンや匿名掲示板「2ちゃんねる」に書き込んでいるシーンなどパソコンの画面はプロのエンジニアによる監修を入れ、変に演出されずにそのまま再現されており、特にいわゆる「オタクっぽい技術マニア」の人たちに対して、よくある偏見を持った戯画化をすることなく肯定的に丁寧に描かれていることが「当時のオタク」たちから見ても好感されている完成度になっているようです。
2:「無理解な国家権力が潰してしまった」だけでいいのか?
この記事の冒頭でも書いたように、映画『Winny』のSNS上での感想を見ると、「天才プログラマーが無理解な国家権力に潰されてしまった話」という理解の人が多く、実際金子氏という才能ある開発者を逮捕してしまったことが、日本のIT産業が立ち遅れた元凶なのだと考えている人もかなりいます。
実際映画の劇中では、もうひとりの主役である弁護士の壇俊光氏が、YouTubeが世界中で人気になっているというウェブ記事を見つけて(YouTubeが急成長を遂げたのは2006年なので、時期的には地裁で有罪判決が出てしまう前後ぐらいだと思われます)、「Winnyを潰した日本、YouTubeを育てたアメリカ」という対比で慨嘆するというシーンがあります。
しかし私は、この「純粋無垢な開発者VS無理解な国家権力の横暴」という理解には違和感があり、むしろこういう「安易なストーリー」でしか理解できない風潮こそが、日本を本当のイノベーションから遠ざけていると考えています。
…というのは、いくら金子氏にその意図がなかろうと、実態としてWinnyはほぼ著作権侵害の違法ファイル共有に使われており、種々の社会問題を引き起こしていたのは事実なわけです。そしてそれは最初期のYouTubeも同じだったし、そのことを問題視する風潮はアメリカでも等しく存在しました。Winnyより少し前に「無料で音楽ファイルを交換できる!」サービスとして人気を呼んだNapsterは開発者こそ逮捕されていませんが、米レコード協会やアーティストから提訴されて一度倒産させられてますしね。YouTubeも米メディア大手のバイアコムから著作権侵害をしているとして2007年に10億ドルの訴訟を起こされました(地裁で2度YouTube側が勝訴したのち和解)。
しかしその後なぜYouTubeは成功したかといえば、「新しい技術と著作権保護を両立するためにはどうしたらいいか?」について比較的初期段階から真剣に考えて話し合いの場を持ち、具体的なビジネス上の枠組みを作っていったからですよね。日本のニコニコ動画だって非常に近い道筋を辿っています。もっと言えばWinnyと同時期にアメリカで発表されたファイル交換ソフト「BitTorrent」も数多の違法ファイルが流通し、日本人含めアップロード者が何人も逮捕されていますが、2005年に開発者が映画業界の違法ファイル撲滅への協力宣言を出しています。
この辺りの話まで考えて初めて、「同じように金子氏に違法ファイルの流通を防ぐ措置を要請するやり方じゃいけなかったのか、警察が逮捕するのはやりすぎではないか」という論点にたどり着けるのではないでしょうか。
NHK放送文化研究所が発行する専門誌『放送研究と調査』の2007年6月号に掲載された記事「“YouTube現象”は何を問いかけたのか?」を読むと当時の国内テレビ業界の温度感も垣間見えて非常に興味深いのですが、既に「Napsterが訴訟で潰された」ということは業界内ではよく知られていましたし、しかも日本ではWinnyの開発者が逮捕されていたわけで、何の対策措置も行わずに著作権違反のコンテンツを流通させるのはこの時点ですら「プラットフォーマーだからと何もしなければ無傷では済まない可能性が高い」とわかりきっていたわけです。
そうやって「消えていった存在たち」と「生き残って世界的インフラになったYouTube」との違いを改めて考えてみて下さい。
単に著作権侵害を放置することなく、実際そこで使われた音楽や動画の著作権者にお金が行き渡る仕組みを社会が真剣に作り込めたことで、YouTubeはコンテンツの違法共有の場ではなく社会にとって大事な新しいプラットフォームに進化することができました。
そういう「アメリカの成功」の背後にあったのは、単に違法アップロードによる著作権侵害を英雄視するような論調ではなく、むしろ「新しい技術と著作権保護を両立するにはどうしたらいいか?」についての議論を徹底してやる風土だということになります。
言ってみれば「子供の自由な発想」と「成熟した大人な議論」の両方が大事だったわけで、単に「純粋無垢な開発者を潰してしまった無理解な国家権力」という「安易なストーリー」では“物事の半分だけ”しか理解できていないことになる。
アメリカの成功の背後にあるのは、「“子供”的な自由な発想を否定しない」部分ではなくて、それを実際のビジネス的構造に繋げる「大人の議論」の部分にあるはずです。
3:「Winnyを潰した側の正義」をも取り込めないとYouTubeにはならない
この映画についての評として、フリープログラマーの吉岡直人氏が以下のように書かれていました。大変有意義な指摘だと思います。
この流れ、京都府警のやりかたは実に強引でいかにも悪役らしい悪賢さで、映画の面白さにつながっています。でも僕はちょっと不満でした。逆に京都府警側の「正義」をもっと掘り下げて欲しかった。劇中の金子氏が「日本を良くしたい」という思いを何度も口にするように、このときの京都府警も、同様に日本を良くしたいと必死で捜査していたはずです。その正義はどこに向いていたのか。
映画では、何か明かされない「動機」が京都府警の裏にあったかのように話が進むのですが、本当の動機は最後まで分かりません。Winnyで警察の内部情報を流出させる事故を起こした愛媛県警のサイドストーリーで、警察内部の不祥事が外に漏れるのを嫌ったのではないか? という仮説がほのめかされるだけで断言はされません。ついでに言うと金子氏の逮捕で盛り上がり、ヒステリックに騒ぎまくる様子だけが映画では描写されるマスコミも何かの正義のために仕事をしていたはず。丁寧な造りで完成度の高い映画ですが、もしこのあたりをもっと彫り込めていたら、多面的で一層素晴らしい作品になったのではないでしょうか。
吉岡氏が言う「京都府警の側の正義」とは何でしょうか?
それはまさに「著作権の尊重」という社会の大事な仕組みを守ることですよね?それが雲散霧消してしまっては、誰もちゃんとコストをかけてソフトウェアや音楽や映像コンテンツを作れない社会になってしまいます。
開発者の逮捕はやりすぎだったし無理解も多々あったはずですが、しかしそこに対処が必要な問題があったことだけは否定しようがない。
アメリカでは、この「著作権侵害問題」と「新しい技術」がぶつかった時に、「どちらの正義も否定しない。両方尊重できる仕組みを作る」解決策を見出したことでYouTubeを生き残らせました。
私はこういう議論の進め方を「メタ正義感覚」と呼んでいます。著作権保護の仕組みが重要なのは一方の「ベタな正義」であり、新しい技術的可能性を実現したいというのももう一方の「ベタな正義」としてどちらも否定しようがない妥当性が同程度にあるので、片方側から無理やり押し切ることは不可能になる。
ここで、「両方実現する具体的な方法論」に議論を集中するように持っていくのが「メタ正義感覚」です。アメリカはYouTubeを成功させ、日本ではWinny(に限らずですが)などの技術的アイデアをうまく社会インフラとして着地させられなかった違いは、その「メタ正義」的発想の不足が原因であったと言えるでしょう。
「メタ正義的発想」が足りずに「ベタな正義」同士が延々と非妥協的にぶつかりあってしまう結果として、日本ではこういう時に、「徹底的にとにかく悪である無理解な国家権力VS完全な善である純粋無垢なプログラマー」というファンタジーか、逆に「社会を混乱させた金子とかいうけしからんヤツなど捕まって当然」というような暴論か、両方の極端な視点のみが交わらずに放置されてしまいがちです。
「日本はWinnyを潰してしまったが、アメリカはYouTubeを育てた」という問題について私たち日本人が考えるべきは、「子供の自由な発想を尊重できないこと」ではなくて、それを「実際の社会の仕組みとしてOKなものに転換する大人な議論(メタ正義感覚)」が機能不全化していることであると言えるでしょう。
4:「子供の発想と大人の論理」が手を組めなければ陰謀論に行く手を阻まれる
日本における「子供の発想と大人の論理との連携」は、この十数年ほどは本当に機能不全という感じでした。
しかし、その少し前ぐらいまでは、日本のイノベーションが世界をダントツで先駆けていた時期もあったんですよね。
例えば世界ではたいていテキストメール程度しかできなかったガラケーの時代から、携帯でインターネットを閲覧できたりテレビを見れたり、Suicaとの連携でお財布ケータイができたり…というのは、2007年のiPhoneの発売以前では世界中から異次元的なイノベーションだと思われていました。
当時は、色々な「子供の発想」が、「大人の論理」として社会の中で共有できる連携が日本社会の中にもあったという事だと言えます。
しかし、そういう「大人の論理」と連携するということは、「単なる子供の発想の延長」のアナーキーな暴走に対してある程度ストップをかけて「双方向的に協力しあう」能力が必要になります。
過去十数年の間に、「アメリカにはそれがあったけど、日本にはそれがなかった」ということについて、考える必要がある。
現代日本人は「同胞の日本人が何かを“仕切る”」のに従うのがかなり嫌いな性質があると私は思っています。
今やGoogle税・Apple税とか言われてスマホでアプリをダウンロードするたびに上納金を支払っていることには無頓着ですが、2010年代初頭に日本でモバイルゲームのプラットフォーマーとして覇権を握っていたモバゲー(DeNA)やGREEは「任天堂の倒し方、知らないでしょ?オレらはもう知ってますよ」と言っていたと信じられていたぐらい(実際にあったかはわかりませんが)の嫌われようでした。
その前のガラケー全盛時代、私は大学生から社会人になりたてぐらいの頃でしたが、なんだか「Nのケータイ」「Fのケータイ」とか自慢げにブランディングしてる感じが「電通のゴリ押しっぽくて嫌」という気持ちが正直あり、後から考えてみれば当時の世界としては最先端だった機能たちとも距離を置いていたことを思い出します。
「お前の当時のお気持ちとか知るかよ」という話ではありますがこれはなかなか侮れない問題で、最近のTwitterを見ていると、マイナンバー制度やデジタル庁関連の色々な施策、昆虫食に至るまで、諸外国では普通にやられていて称賛されることも少なくないアイデアたちが、日本でやるとなると「電通のゴリ押し」「また自民党がお友達だけを優遇する利益誘導を始めた」「悪者が公金を食い荒らしている」ということになり、デマ・陰謀論も飛び交いながら徹底的に悪辣な愚策であるかのような印象が振りまかれてしまうことがしょっちゅうありますよね。
そこに「相互信頼」を取り戻すことができなければ、新しい技術を社会で共有することなどできません。
これからも、新しい「技術」は世の中に次々出てきます。ただしその「技術」はそれだけでは社会に変化をもたらすことはできません。
今爆発的に発展しているAIの応用分野についても、気候変動対策の新技術にしても、医療関連の新しい技術にしても、多くの人々に実際に喜んで使ってもらう事ができなければ、人類にとって宝の持ち腐れになります。
そのためには社会の中に「立場を超えた相互信頼」が必要なので、2000年代前半の日本のケータイが世界を先駆けて実現していたイノベーションに対して、当時の私が「なんか電通っぽい感じが嫌」という拒否反応を持っていたような、この「一部の個人主義的日本人の日本社会不信」は、バカバカしいことことを言っているようで今後なんとか乗り越えなくてはいけない最大の課題を暗示していると思います。
なぜ「GREEやモバゲー」は嫌われていたのに、「GoogleやApple」ならいいのか?と言えば、少なくとも当時スマホが世界中に普及していった2010年代初頭時期のいわゆるGAFAM的存在は、「人類社会のみんなのための新しい希望」を持った存在であるかのような「印象」を持っていたからではないでしょうか?
これは日本がダメだったというより、グローバリズムの急激な進展の中で、そういう風に「みんな」を惹きつけられるのは世界の中でアメリカだけだった…ということだと言えます。
しかし、それも2010年代前半ぐらいまでで、それ以後のGAFAMはむしろ強欲に世界を無理やり支配しようとする、悪辣な存在であるかのように思う人も増えました。「アメリカという存在の特権性」ですら強烈なグローバリズムの泥沼の中に沈み込んでいってしまう流れがこの10年ほど続いている。
以後の「反中央権力統制」的な方向のイノベーションは、ウィキリークス(あらゆる世界中の機密情報のリークを匿名の保護を前提として受け止めるプラットフォーム)やビットコインを代表とする暗号通貨などとして結実しました。
しかし、ウィキリークスや暗号通貨は、お世辞にも世界中の「みんな」レベルの支持を得ているとは言えませんね。原理主義的に「反中央集権」であること自体を目的としすぎると、それは「普通の人の生活」にとっての便利さや幸福のあり方からはどんどん外れていってしまうということなのだと思います。
「反権力」を貫きさえすれば普通の人の生活がメチャクチャになってもいい…という志向性が結果として単なるインテリのワガママと思われて、広範囲の普通の人々の支持を得られないというのも20世紀から続く人類社会のパターンだと言えるでしょう。
ではその「次」のビジョンはどこに生まれるのでしょうか?
私は、人類社会にとっての「新しい“みんな”との繋がり方」を旗印として作っていくのがこれからの日本の役割だと考えています。
5:「電通っぽい感じが嫌」を乗り越える新しい「みんなのための旗印」が必要
どこの国でも、経済発展の途上段階においては「オラが村の代表」的に気持ちよく同胞を押し上げることができます。
スタジオジブリのアニメが世界的なブランドになったのも、それこそ“電通のゴリ押し的”バックアップなしにはありえなかったでしょう。今の韓流が何のてらいもなく世界に出ていけるのも、経済発展から日が浅く、まだそういう人間関係の密度が崩れていないいわば“ハネムーン期間”だからだと思います。
しかし一度世界一の経済になりかけてその栄華が手の間をすり抜けてしまった日本においては、国民内部における相互不信が高まりすぎて、とにかく「オラが村の代表」的な内輪の論理の延長だけで「国内のみんな」で共有する軸を作り出すことが年々難しくなっていっています。
だからこそこれからの私たちは「内輪の論理で締め付ける」以外の方法で、「みんな」で共有できる論理を見つけ出す必要があります。
そういう「みんなの共有軸」が見いだせなければ、今後も新しい技術が出てくるたびに幸薄い両極端な派閥同士の罵り合いにかき消されてそれを活かすことができないままで終わるでしょう。
しかし、本来日本人はそういう共有軸を持つことが結構得意な集団でもあり、今でもアニメ業界などの特殊なジャンルにおいては超高速な相互の意思疎通の連鎖を苗床にしてユニークな作品を生み出し続けています。
また、今をときめく最先端AIであるChatGPTを作ったOpenAI社の研究者であるシェイン・グウ氏(日本育ちの中国系カナダ人で日本語も堪能)が、NewsPicksでのインタビューで、
AIの発展が天才的理系の技術者が必要だった段階から「普通の人がいかに使うか」をあらゆる日常的場面において模索する段階に達したことで、むしろ今後日本の超得意分野になってくるのではないか?
…という趣旨のメッセージを出していました。私も随分前から同じことを言っており、大変同意です。
要するに、「世界最先端のガラケー」を作っていた頃のような「子供の発想と大人の論理をちゃんとつなげる共有軸」をいかに再生できるか?が大事で、それさえできれば「共有するべき技術」は次々と時代の流れの中で候補としてあがってくるし、それを右から左に次々と共有して社会の中で活かしていくのはむしろ日本の得意分野ですらあるということです。
過去十数年の日本社会のイノベーションが停滞していたのは、その「共有軸」が崩壊して社会の逆側の立場にいる人と協力するどころか罵り合いしかできない状況が放置されていたからだと考えてみましょう。
ではその「内輪の論理の延長」ではない「みんなとのつながり方」とはどういうことでしょうか?
日本には、「アメリカ型の統治手法」の欠陥部分を補完するような、「本当のみんな」とのつながり方をこれから生み出すことが可能です。
アメリカの理想、欧米の理想を否定はしないが、それを欧米社会という特権階級の内輪の話に終わらせることなく、人類社会80億人全体に押し広げていくにあたっての「媒介者」としての役割を、歴史的経緯から言って日本以上に果たせる存在はいません。
ここ数年で、人類社会は「アメリカ」あるいは「欧米的理想」が通用する範囲が急激に縮小していってしまっています。米中冷戦があり、ウクライナでの戦争があり、イスラムの原理主義勢力が独自の動きをし、インドや東南アジアやアフリカの一部といった「欧米(と日本)以外」のGDPシェアが急激に増加していっている。
その変化の一方で、「欧米的な理想」を信奉する勢力が日増しに高圧的な態度を取るようになり、「これをやっていないとお前たちは遅れた存在だ」という脅迫的なモードが、人類社会80億人全体から見ればものすごく特権的な上澄み階級の中だけで先鋭化する反面、そういうムーブメントに対する強烈な反感は、欧米社会の中でも強烈に育ってきて、選挙があるたびに混乱を生み出している。
今後の日本社会は、そういう人類社会の分断を超えるための新しい「本当の意味での“みんな”を引き受ける旗」を掲げることができるし、それをやっていくことによってのみ、果てしない罵り合いを超えて「子供の発想」と「大人の論理」を両立させる協力関係を日本国内でも再度実現していけると私は考えています。
そこには、先程述べた躍進時期のGAFAMよりも、ウィキリークスやビットコイン型のイノベーションよりも、もっと本当の「人類社会全体の80億人レベルのみんな」との共有ビジョンを打ち立てていける余地がある。
これは私の本『日本人のための議論と対話の教科書』からの図ですが、日本社会はあらゆる欧米型の「原理主義」をその泥沼のような性質で飲み込み切ることが大事です。
そして以下の図のように、
世界中でぶつかりあっている「欧米型のあらゆる理屈の原理主義」と「各地のローカル社会の細かい事情」との間のどちらも一切否定せず、「メタ正義」的に取り扱って針先に穴をあけていく培地になっていくことが重要です。
以下の記事で書いたように、気候変動対策の技術選定が、欧米だけに任せると「一部の恵まれた存在以外参加できない技術セット」になってしまう問題に「“みんな”に開かれた技術セット」への転換を働きかけていく役割を担うことができるでしょう。
『電気自動車の急速な普及で日本の自動車メーカーは数年後に消滅する』という話をどう考えるべきか?
また、以下の記事で書いたように、欧米でも普通にやっている程度の問題を日本においての事例では「メチャクチャ悪辣で人権を理解しない後進国的振る舞いであると断罪しまくる」というのは、それこそ「差別」であり、欧米諸国の外側で強権的な政体の横暴が猛威を奮ってしまう元凶になっています。
なぜ日本人の「議論」はこれほど不毛なのか?ひろゆき&成田悠輔的言論に対抗するにはレッテル貼りじゃダメ。
そういう「無意識な欧米文明中心主義」によって、それ以外のローカル社会の細かい問題に向き合うことなく、何からなにまで断罪しまくるだけで何か有意味なことを言った気になる知的怠惰を「本当の双方向的でリアルな議論」で置き換えていくためのメタ正義ムーブメントも、これからの日本で起こしていくべき大事な課題となります。
例えばフェミニズム的課題において、「冷静に考えれば諸外国でも普通なこと」とか「色々な事情が背後にあってすべて男側が悪いとは言えないような丸まった平均値的データ」だけを持ってきて日本社会の閉鎖性・差別性だと糾弾するムーブメントは、ある種の差別主義としてむしろ今後説得力を失っていく流れが来るでしょう。
そうした意見を主張する人たちを新たに「抑圧」しようとしなくても、単にそういう「一方的な断罪」が持っている、現実社会の細部の事情を理解しようとしない「内在的な罪」が、当然の結果として強烈な感情的反発を呼び寄せて同レベルの「ベタな正義」同士の徹底的な幸薄い罵り合いに発展することで、結果として自然と影響力を失っていくことになる。
そういうムーブメントの説得力が失われていく流れと入れ替わりに、「実際に日本社会で生きている女性のニーズ」「働きたいと思っている女性のニーズ」に対して、“具体的でその当事者女性にとって使いやすく、また日本企業側の事情も勘案されており無理なく実現できる細部の制度”を一つ一つ整備していく動きをエンパワーしていくことが初めて可能になります。
果てしない宗教論争的なSNSバトルがだんだん「みんな」からの支持を失い影響力を失っていくことで、結果として一方で少なくとも「日本社会に参加する意志を持っている女性」にとって、確実に「自分は必要とされているし尊重されてもいる」と感じてもらえる具体的な制度を積んでいくことが可能になる。
今のSNSで吹き荒れている狂気のようにアメリカ型に「糾弾が自己目的化」すると、「黒人にニガーと言えるのは黒人だけ」みたいなある意味のマナー的な問題だけはさも社会運営上の最重要課題のように大問題になる一方で、公立小学校の校区ごとの予算が違いすぎて貧困層(多くは黒人)はマトモな教育が受けられず、結果として階層上昇が他の国に比べて著しく困難になってしまっているという、本当の課題がはほったらかしになるという本末転倒な状況になります。
「そのアメリカ型の意識高い系ムーブメント」が世界中で機能不全を起こし、非欧米側のローカル社会の事情を適切に扱えていない結果として、「欧米的理想」そのものが拒否されてしまう地域が人類社会の中で増え続けている今の問題に、新しいブレイクスルーをもたらすのがこれからの日本の役割だということです。
急速に普及するAI(人工知能)の背後で動いている数学が、「現実の細部の凹凸」にぶつかった時に「現実が間違っていると攻撃する」のでなく徹底的に「理論の側を修正し続ける」構造になっていることが、20世紀的なイデオロギーによる断罪がいかに時代遅れになったかをこれから毎日私たち人類に知らしめてくることになるでしょう。
「アメリカ型の糾弾中毒の暴走」が、人類社会において「欧米的理想が通用する領域」をむしろどんどん狭めてしまっていく今の世界においては、その「理想」と「現実」の間をメタ正義的に具体的な細部の工夫によってつなぐムーブメントこそが、本当の「みんな」レベルの理想として必要とされているのです。
「糾弾中毒」型の昨今の欧米の意識高い系の流行に懐疑的であることによって、今の日本社会は「閉鎖的」「変化に抑圧的」だと考えられがちです。
しかし、今後「人類社会80億人全員」レベルの「みんな」を引き受ける旗を掲げていく時には、そういう「欧米社会の特権階級の流行」が持つ「無駄に高圧的でローカル社会の細部に無頓着な態度」に対する「反発」を断罪せずに取り込んでいくことが最重要となってくる。
その「意識高い系への反発」も取り込んで、人工的な断罪でなく「具体的な細部の問題解決」へと徹底的に振り向けていくことができれば、そういう「メタ正義的解決の旗」は、「人類社会80億人全体」にとって本当に必要とされる旗印となっていくでしょう。
その先には、義なるものも不義なるものも、富めるものも貧しきものも、共通して人工的な断罪に晒されることなく参加可能な、世界で愛される「ニンテンドーのゲーム」的な共通土台を提供する道が拓けているでしょう。
そういう「メタ正義的な双方向性」が「一方的な断罪中毒の狂気」を乗り越える事によってのみ、昨今の日本の「右傾化」だとか、米中冷戦だとか、プーチン的強権やイスラム原理主義の「良くない部分」を人類社会は“初めて”克服することが可能になる。
今の人類社会はそういうものを作っていかずにお互いを断罪しまくっているだけでは、第三次世界大戦も不可避な情勢にすらなっているからこそ、過去20年とは違う「日本ならではの可能性」が我々の目の前には開けています。
「いつでも善な反権力VS無意味に悪辣非道な国家権力」という20世紀型の安易なストーリーを超えた、「メタ正義的解決」への道を堂々と歩んでいきましょう。
その方法について書いた私の新刊『日本人のための議論と対話の教科書 ベタ正義感よりメタ汗意義感で立ち向かえ』もぜひお読みいただければと思います。
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