ITEM | 2018/08/06

資本主義の迷路に自ら迷い込もう――膠着状態を打破するマインドセット【ブックレビュー】


神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏...

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神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい――本当に?

1989年、冷戦の終結が宣言され、同じ年に日本では元号が昭和から平成に変わった。その後、中国ですら資本主義経済を取り込むこととなった。平成がまもなく終わり、新たな時代のはじまりを私たちは迎えようとしているが、資本主義の道はこれから先もずっと続いていくのだろうか。マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム―「この道しかない」のか?』(堀之内出版)は、人間自身が生み出した資本主義によって、人間の想像力が剥奪されていってしまうことを危惧した一冊だ。

著者は1968年生まれのイギリスの批評家で、教鞭をとり、いくつかの著書を残しつつブログを執筆し、「イギリスで出回る多くの雑誌より優れたワンマン・マガジン」として人気を博していたが、2017年に自ら命を断った。

著者独自の造語が、容易ではない内容を読みやすくしているが、まずは題名にもある「資本主義リアリズム」という概念について紹介していこう。

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「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。このスローガンは、私の考える「資本主義リアリズム」の意味を的確に捉えるものだ。つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。(P10)

本書の副題である「この道しかないのか」というフレーズは、1980年代に新自由主義を推し進めたマーガレット・サッチャーが掲げたスローガン“There is no alternative”にちなんでいる。ちなみに、安倍首相も2010年代に入ってから「景気回復、この道しかない」というスローガンを掲げている。

「資本主義リアリズム」とは、簡単に言えば「資本主義が現状ベストな政治体制なのだから、簡単に変えられもしないことを『ここが問題だ!』とわめきちらすなんて“何でも反対”の左翼のやることさ。それよりも自己責任で今のルールに適応した方が、よっぽど賢いやり方じゃないか?」というシニシズムに満ちた考え方のことである。日本でもこんな発言を日々見かけないだろうか。だが、問題点を問題であると指摘し、変えようとしないからこそ、誰も得をしない不条理なルールがはびこる窮屈な世界になってしまったのではないか?と著者は訴えかける。

著者はこの資本主義リアリズムの犠牲となった存在として、「オルタナティブ・ロック」、あるいは「グランジ(薄汚れた)・ロック」の代名詞として1990年代に一世を風靡したニルヴァーナ、そしてそのフロントマンであるカート・コバーンを挙げている。

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そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。(P28)

「そこ」とあるのは、MTVをはじめとしたメディアがつくりだす、新しいように見えて、再生産ばかりで行き詰まってしかいない膠着状態を抱えた世界のことだ。成功する者の個性など全く顧みられず、ひたすら「新たなスター誕生!」として消費し尽くすことを繰り返すのみ。カート・コバーンは、繰り返される模倣、あふれかえるクリシェ、想像の博物館の中にある様式を通してしか物事を語ることができないと、全てを熟知した上で自殺の道を選んだのだと著者は語る。

面子保ちの自己PRはスターリニズムと同じ?

資本主義リアリズムが作り出すそのような行き詰まりは、個人の行動にも影響しているという。著者は自分が教える学生が授業中に、音楽を聞いていないにも関わらずヘッドフォンをつけていることに納得がいかなく、何度も詰問したエピソードを紹介している。

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ではなぜ音楽を聴かないのにヘッドフォンをかけたり、またヘッドフォンをしないのに音楽をかけっぱなしにするのだろう。それは、ヘッドフォンが耳にあるという存在感、または音楽が(聞こえないにせよ)流れているという了解によって、[娯楽の]母胎がまだ手の届く範囲にある、という安心感を得ることができるからだ。(P67)

デヴィッド・クローネンバーグ監督の映画『ヴィデオドローム』から引用されている「新しい肉」[New Flesh]という言葉は、著者の認識をよく表している。YouTube、Facebook、Twitter、Instagram…メディアの海に浸っているのが当たり前となっていて、そこから出されると呼吸困難のようになってしまう身体の人が、特に若い世代には多いと著者は語る。

大量生産されたものを大量消費するフォーディズムから、個性的消費を促すポスト・フォーディズムに時代が推移したことは、「新しい肉」の形成に大きく影響している。ポスト・フォーディズムにおいて、人々の労働はベルトコンベアから離れ、コミュニケーションをとることに変わった。そして、コミュニケーション不全は社会に歪みを生み出していく。

歴史は繰り返されるというが、独裁・個人崇拝、そしてそれが虐殺につながったスターリニズムは消えたのではなく、社会の歪みによって、姿を変えて復活しているという。「市場型スターリニズム」という造語で、著者はイギリスの地方自治体に見られる、事業の優先順位の逆転を鋭く指摘する。

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後期資本主義がスターリニズムから引き継いでいるものはまさに、実際の成功よりも、成功の象徴に価値を認めることにほかならない。(P110)

筆者が仕事としている映像の世界でも、「皆が作っているから」「うまくいっている雰囲気を出したい」という安易ないきさつで、本質的な議論を避けて作られているようなPR動画が蔓延している。つまり、つくった映像作品をいかして社会との関わりをより深め、よりよい社会を実現することを目的としているのではなく、「自ら『成功している』とわかりやすくアピールする象徴」として内向きなPR動画が必要とされてしまっているのだ。先方の作りたいイメージを具現化し、その価値を研ぎ澄ませていくことが私の仕事なのだが、「スターリニズム」という言葉がこうした文脈で使われることに妙に納得してしまうのは、私の業界だけではないはずだ。

迷わなければ、迷路からは出られない

繰り返しになるが、本書はやや難しい内容を、独特なたとえで身近にしていることに意義がある。著者が「後期資本主義の政治的現象学を凝縮したもの」と紹介しているのは、コールセンターだ。

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PR音楽の甲高い音によってところどころ遮られる倦怠感ともどかしさ、訓練も知識も不足している何人ものオペレーターに同じつまらない情報を何度も伝えることの繰り返し、しかるべき対象が存在しないゆえに無力なまま募るばかりの怒り。電話をかけてみれば直ぐ気づくように、答えを知っている者は誰もいないし、もし知っていたとしても何かをやってくれる者は誰もいないのだ。(P160-161)

コンビニ行くだけでも、袋にいれるか、温めるか、ポイントカードはあるか、あと100円買うとくじが引けるけど買わないかなど、様々な選択を求められる。コールセンターに電話をかけるというのは、問題を解決するためではなく、「わからない問題」に対処してくれる道先案内人を期待するのでもなく、共に迷路を進む仲間を電話先に求めて、一緒に答えを探していくぐらいの心持ちの方が気楽なのかもしれない。

残念ながら著者は亡くなってしまったため、本書の先の地平にある著者の考えを知ることは永遠に不可能になってしまった。しかし、それでも本書が翻訳され、こうして出版されていることは、抗いがたい膠着状態を打破する手がかりが含まれているからだろう。難しそうな題名に臆さず、ウィットに富んで読みやすい本書をぜひ手にとってみてほしい。