神保慶政
映画監督
東京出身、福岡在住。二児の父。秘境専門旅行会社に勤めた後、昆虫少年の成長を描いた長編『僕はもうすぐ十一歳になる。』を監督。国内外で好評を博し、日本映画監督協会新人賞にノミネート。第一子の誕生を機に、福岡に拠点を移してアジア各国へネットワークを広げる。2021年にはベルリン国際映画祭主催の人材育成事業ベルリナーレ・タレンツに参加。企業と連携して子ども映画ワークショップを開催するなど、分野を横断して活動中。最新作はイラン・シンガポールとの合作、5カ国ロケの長編『On the Zero Line』(公開準備中)。
https://y-jimbo.com/
もはや懐かしの「新しい生活様式」
今回ご紹介する石戸諭『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(毎日新聞出版)はパンデミック下の東京に焦点をあてたルポルタージュ本ですが、その前に、私が国際共同製作企画の商談(資金調達)、共同製作のパートナー探しなどで参加しているベルリン国際映画祭(2月10日から20日まで開催中)の中でも実験的な作品が上映される「フォーラム」という部門で部門長を務めているChristina Nord氏が、世界中から応募されてくる作品を観た上でPodcastで話していた所感の一部をご紹介できればと思います。
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「2021年2月の映画祭に向けて応募されてきた作品(応募の締切はだいたい2020年10月頃で、制作期間はだいたいその半年前から数年前)は、パンデミックを気にしていない作品、つまりコロナ禍を前提としていない作品が多くあった。それは、コロナによるパニックはそんなに長く続かないだろうという姿勢によるものだったと思う。しかし、今回の応募作品からは、パンデミックの影響はまだまだ続くのだという認識と、そうした状況であっても想像力の為せる技があるのだというフィルムメーカーの集合意識を感じた」(筆者英訳・要約・抜粋)
『東京ルポルタージュ』もまさに、集合意識と連帯に関する一冊です。週刊誌『サンデー毎日』での連載が加筆され書籍化されたもので、毎日新聞社・BuzzFeed Japanを経てフリーのノンフィクションライターとして独立した著者による、コロナ禍の、そして57年ぶりのオリンピックが開催される東京を描いた31の物語が収録されています。
序盤の方は「コロナ禍になったばかりの頃はこんな葛藤や議論があったなぁ」と、もはや懐かしさすら感じました。声援・飲酒の禁止や席の間引きをした、いわゆる「新しい生活様式」に基づいた相撲観戦が2020年の七月場所で実施された時のエピソードはこう描かれています。
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ゼロか100かではなく、その間に広がるグレーゾーンの中で、感染者対策と社会活動を判断することが当面は必要になってくる。いつか大相撲はかつてのような形で開催できるだろう。だが、今は難しいとするならば、どういう形ならば開催できるのか。歓声を消してもなお、観客と一緒に「社会の中に相撲があり続ける」ことを選んだ大相撲は、リスクと向き合う一つの形を示したのかもしれない。(P57)
今となっては引用にあるような「〇〇はいつか元通りになるだろう」というような論調すらもはばかれることが多いように思えます。「1〜2年で元通りになると思うのはもうやめよう」というムードの方が強いからです。2020年前半から私たちはそれだけものすごいスピードで、「生贄」や「人骨」という物々しい成り立ちを含む「禍」という漢字のようなトンネルの中をひたすら通過してきたのでしょう。
コロナ禍における「装い」と『ジョジョの奇妙な冒険』
本書の取材対象はミュージシャン、写真家、大学生、パラリンピック選手、書店員、風俗嬢、新聞記者、芸能人、劇団員、落語家、バーテンダー、飲食店、ライブハウス、ゲストハウス、永田町、アメ横、「夜の街」など、さまざまな人や場です。大小さまざまな尺度の話がある中で何回か登場する「装い」というキーワードは、筆者にとって発見でした。
「装い」が登場するエピソードのひとつは、南青山のオーダーメイド・スーツ店「LOUD GARDEN」店主である岡田亮二氏の物語「テーラーの愉楽」の回です。同氏はアパレル企業に勤める中でオーダーメイド・ブランド「A WORKROOM」を2002年に立ち上げ、2010年には「A WORKROOM by Ryoji Okada」とブランドを発展させてイタリア最高峰の国際見本市「ピッティ・ウオモ」に出展を果たしたあと、2012年に独立して「LOUD GARDEN」を創業しました。
コロナ禍に入り「不要不急」という号令のもとでリモートワークが推進され、人が集まる以前に外に出ることまでもが大幅に制限される流れにおいて、着飾ったり身なりを整えたりする「装い」の場も減っていきました。ブランドへの信頼やこだわりある顧客によって売上は支えられたものの、一時はお店をたたむ考えも脳裏をよぎったといいます。
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もっとも先行きは楽観できない。「装う」場が減った以上、テーラーにとって最も重要な秋冬ものを新調しようという需要は減少するだろうし、一度リラックスウェアで仕事をしても問題ないとなった社会で、スーツの居場所はさらに少なくなることは目に見えているからだ。
オーダーメイドの世界は基本的に自己満足から始まる。こだわりはわからない人にはまったくわからないし、興味を持たれることもない。だが、縁は実際に出会うことから始まる。少数であっても、一目見て違いがわかる人は服に宿る価値を見抜き、さらに違いがわかる人へと縁をつなぐ。それらのすべてが大事な付き合いに成長していく。(P120)
着用する「装い」だけではなく、内面の「装い」に関するエピソードもありました。府中市にあるイタリア料理店を描いた「ゴー・ビヨンド<超えてゆく>」の回で、主人公は30代前半の店主・佐藤誠矢さんです。
マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの大ファンだった佐藤さんは、2014年のある日、修行をしていたレストランに、イタリア料理好きとしても知られる同作の著者・荒木飛呂彦氏がまさに来店中であることを知ります。引っ込み思案なものの、佐藤さんは勇気を振り絞ってサインをもらいに行きました。快諾してくれた荒木氏は、何気なく将来の夢を佐藤さんに聞きました。
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怒られ続けた先輩たちに将来を聞かれても「いやぁ、俺は飲食業界で細々と生きていきます」と照れ隠しで答えていた。お前には無理だ、と言われるのが怖かったからだ。荒木の目はまっすぐ彼を見つめている。憧れの人を前に嘘はつけないと思った。初めて自分の言葉で夢を語った。
「あの……。自分の店を持つことです」
笑うことも、馬鹿にすることもせずに荒木は言った。
「この道では辛いこともあると思いますが、夢を叶えるまで、諦めなくていいですよ。頑張ってください」
そのたった一言が、「鈍臭い」彼の支えになった。(P179-180)
やがて佐藤さんはコロナ禍真っ只中の2020年6月に、「イタリア料理を食べに行こう」という『ジョジョの奇妙な冒険』のエピソードの一つのタイトルを冠したレストランを開店するに至り、佐藤さんの人柄や『ジョジョ』のエピソードが話題となりお店は賑わっているということです。『ジョジョ』シリーズの特殊能力「スタンド」のように、「装い」は外に示すこともできるし内に宿らせることもできるのだということは、多くに読者にとって「禍」というトンネルを切り抜ける推進力の一助となるはずです。
自粛警察とオリンピック 個人の行動は「社会のせい」?
切り口によって物事の見え方は違ってきますが、コロナ禍における切り口の所在を示したエピソードも目立ちました。「自粛警察」の回では、自粛に応じず営業をするパチンコ店に訪れる客に暴言を浴びせる動画や、タバコポイ捨てを注意して回るシリーズを展開するYouTuberの「令和タケちゃん」に取材しています。
著者は20代後半の彼に「オン」と「オフ」(動画の中と外)で大きなギャップがあることに着目しつつ、彼の生い立ちや自衛官志望という背景も含めて分析していきます。(下記引用の「彼」は「令和タケちゃん」を、「彼ら」は自粛警察を指します)。
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彼の問題は、彼の個人的なものではない。彼らは、極めて「人間的」である。私は当初、「令和タケちゃん」のオンライン上の激しい暴言と、オフラインでの生真面目さのギャップに注目したが、それはギャップではなかったのだ。彼の高い衛生意識と医療現場や自衛隊への言葉を思い出してみるといい。彼のように「けしからん」に突き動かされる人たちは、政府や専門家の求めてきた公衆衛生的に「正しいこと」を極めて真面目に実践してきた。それゆえに、周囲の緩みが許せなくなっていた。(P220)
テレビや新聞など大手マスメディアの報道には、「社会のせい」にする論調がいくらかあります。たとえば、誰かの自殺があった場合に「こうなる前にまわりの人間はどうにかできなかったのか」「社会がこの人を殺したのだ」というような意見が優勢となるということです。
そうした観点に100%反対というわけではありませんが、「社会のせい」という論調はまっとうなことを言っているように思えて、実は何も言っていないのに近いのではないかとも思います。本書に描かれた31の世界も社会のほんの一部にすぎませんし、「社会」と言っている中にあまりにも多くの物事が包括されているからです。
「社会の影響がある」ということは 、「社会のせいであること」とは大きく異なります。個人の行動に社会からの影響はもちろんあるでしょう。しかし、脅されたり誘導されたりでもしていないかぎり、個人のなした行動には他人から見ればどんなに不可解なものでも、大小の違いはあれどその人なりのロジックや思いが反映されています。「二度目以降の緊急事態宣言の薄められた恐怖よりも、自粛警察の活発な活動による恐怖のほうが感染抑止の効果が皮肉にも出た」と「令和タケちゃん」の活動を評している著者も、同様の視座に立って出来事を分析しているように思いました。
また、本書のタイトルにも入っているオリンピックを題材にしたエピソードのひとつに、感染症対策コンサルタントの堀成美氏の仕事も含めた舞台裏を取材した「祭りの陰で」があります。
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感染症はコロナだけではない。マラリアなど輸入感染症への備えもいる。熱中症のような想定可能なアクシデントは、会場ごとに想定される患者数を弾き出し、重度の場合は近隣の病院と連携して対応するように手はずを整えておく。新型コロナについても想定可能なシミュレーションを関係者で共有したり、施設内のゾーニングなど専門的な知見が必要な対策を施したりしたが、いずれも基本の域を出るものではないという。全ては「普段どおり」だった。(P272)
二転三転の混乱が数多く生じた東京オリンピックの狂騒と、「感染は防ぎようがない」という現実を受け止め最善の策を淡々と講じるプロフェッショナルの姿のブレンドは、前向きなムードとなって文章に浸透しています。「疫病とオリンピックの街で」という本書のサブタイトルはさながらディストピア小説のようですが、「批評眼」というフィルターでしっかり漉(こ)された、パンデミック下でのより良い日常を望む思いと東京愛に満ちた一冊です。