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マイクロソフト日本法人・初代社長が70年代アメリカに単身飛び込み感じた、コンピュータ業界の「熱狂」【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(1)
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  • 2021.04.12
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マイクロソフト日本法人・初代社長が70年代アメリカに単身飛び込み感じた、コンピュータ業界の「熱狂」【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(1)

コンピュータへの造詣を日増しに深めた10代の頃

一方でこの頃、僕はコンピュータへの関心を高め、秋葉原のマイコンショップでアルバイトに精を出していた。

実は、心理学とコンピュータには共通点がある。たとえば子どもが親と交流しながら人格を形成していくように、コンピュータもまた、ソフトウェアを介して知識を得て作業を実行し、情報を交換し、互いに影響し合うことができる。

とはいえ当時はまだ、コンピュータの価値は生産能力の向上がメインであり、どちらかといえば白衣を着た研究者が使うものというイメージが強かった。それでも僕は、コンピュータは最終的にメディアになると信じて疑っていなかった。それも、新聞やテレビのような一方通行のメディアではなく、誰もが情報の受信者にも発信者にもなり得るインタラクティブなものとして、人と人を繋ぐ道具になり得ると考えていたのだ。

秋葉原のアルバイト先で僕は、アメリカのコンピュータ関連製品を調べる役割を与えられていたこともあり、コンピュータ先進国である向こうの情報には敏感だった。

たとえば、当時向こうで流行っていたのが、「Speak&Spell」という英語スペル入力機だ。赤いボックス型の機械が発する英単語の音声のスペルを入力し、正しいスペル入力を訓練するという、当時としてはマイコンを組み込んだ電子おもちゃであったと言える。

これをバイト先のショップでは3万5000円ほどで輸入販売していたと記憶しているが、アメリカでは僅か39ドルで売られていることを僕は知る。当時は1ドル180円から240円の為替レートであったが、現地で直接買い付ければいい商売になるだろうと考えるのは、至って自然な発想だったのではないだろうか。他には、スペースインベーダーのIC部品の枯渇に備えて、ロスアンジェルスの街中の電気部品店に原チャリで奔走するなども経験した。

10万円が180万円に!僕がアメリカ行きを決意したワケ

パソコンにしても、メモリがほんの8KBのワンボード・マイコンが10万円前後、Box型のマイコン開発システムにテレタイプかCRT端末を接続して、BASICが稼働可能な日本語非対応のマシンが180万円ほどで売られていたその時代。もちろん、20代の若者にはとても手が出せる代物ではない。

ところが、アメリカの雑誌を見ていると、自分でキットを買ってくれば、やはり日本円にして10万円程度で組み上げられることがわかった。大学を中退し、自身の先行きを憂いていた僕が、これに着目しないわけがない。10万円のモノを自分でハンダ付けして完成品として日本に持ち込めば、180万円で売れるのだ。

僕にとってコンピュータはあくまで趣味の世界でしかなかったが、ここに一筋の光明を見出した。もし、これから猛勉強して弁護士や医者になったとても、僕は常に3年遅れでその道のプロたちと戦わなければならない身である。

しかし、マイコン業界にはまだプロがいない。3浪もした自分が一気に巻き返すには、こうした未開発の分野はうってつけであり、そこで何かを極めれば、自分が新しい業界の第一人者になれるかもしれないと、漠然とながらも直感した瞬間だった。

そうなると、兎にも角にもアメリカへ行くのが手っ取り早い。いろいろ調べてみると、チャイナエアーを使えばアメリカの西海岸まで10万円前後で行けることもわかった。僕はすぐに、現地へ飛ぶことを決めたのだった。これが1977年から78年にかけての頃の話である。

大きな壁をあっけなく乗り越えるネットワークの可能性に開眼

そうしてアメリカに滞在するうちに、どうせなら現地の大学に編入できないかと僕は考え始めた。

そこでまずは、資料をかき集めて実際にはどのようなテストが課されるのか、TOEFLで何点ほどの英語力が求められるのかを調べながら、語学学校に通うことを決める。籍を置くことになったのはカリフォルニア州立大付属のELSで、僕は米国在住の3人と一軒家を借り、ルームシェア暮らしをすることになった(プール付きの4ベッドルーム、家賃600ドルで、一人当たり月150ドルの家賃負担)。

なお、これはまったくの偶然なのだが、この時の同居人たちは皆、コンピュータ関係の仕事に従事するコボル時代の人間だった。学生の身分は僕だけだったが、その中の誰よりもコンピュータに関する知識を持っていた僕は、彼らと夜な夜な、コンピュータ業界の今後について語り合うことになる。この時の体験もまた、コンピュータが人を繋ぐものであるという考え方を、さらに後押ししたと言えるかもしれない。

ちなみに南カリフォルニアの大学間ではこの時すでに、CDC Cybernetというネットワークが普及していた。僕はロサンゼルス近郊のCSULAという大学の図書館によく入り浸っていただのが、ある日その図書館担当の先生が、「勉強したいのなら、(すべての管理者権限が使える)スーパーユーザーのアカウントをあげようか」と言ってくれたのは幸運だった。

僕はありがたくIDをいただき、テキサスインスツルメンツ製の音響カプラー付き端末からダイヤルアップでネットワークにログインし、サイバー空間を自由に闊歩し始めた。なにしろセキュリティやプロテクション・ウォールも無い状態、UCバークレイからスタンフォード大学まで、どこの大学の研究室にでも入れるのだから、楽しくないわけがない。

あれほど成績に苦労した僕が、ネットワークを利用すれば、あらゆる一流大学に出入りできることは革命的だった。3浪してもうんともすんとも言わなかった壁を、あっけなく飛び越えてしまったような思いがして、ますます夢中にさせられた。

まだハッカーという言葉すらなかった時代のことである。


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