CULTURE | 2018/09/13

ブックオフとTSUTAYA的なデフレ文化の終わりに 【連載】記録・「平成」の死(1)


片上平二郎
社会学者
1975年東京生まれ。立教大学社会学部社会学科准教授。専門は理論社会学、現代文化論。著書に...

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片上平二郎

社会学者

1975年東京生まれ。立教大学社会学部社会学科准教授。専門は理論社会学、現代文化論。著書に『ポピュラーカルチャー論」講義』、『アドルノという「社会学者」』(ともに晃洋書房)。その他、共著に『作田啓一vs.見田宗介』(弘文堂)、『戦後思想の再審判』(法律文化社)など。

「平成の死」を記録する

まもなく「平成」が終わろうとしている。この「平成の終わり」の特徴は、それが予告されたものであることだ。たとえば、われわれはもはや「平成」の夏というものを体験しえないことを知っている。

だから、世の中では徐々にこの時代を総括しようとする空気が大きなものになりはじめている。“長く濃密なもの”であった「昭和」と比較して、“淡泊でとらえづらいもの”、“愛着を持ちにくいもの”であるとしばしば語られてきた「平成」も、その終焉を目に前にして、ようやく失われていくなにがしかを持った時代であると扱われるようになってきた。おそらく、これから数カ月の間に幾多もの「平成論」が出版されていくことだろう。

そんな晩期に、誰かが死んだり、なにかが終わったり、またなにかが衰退したりすれば、そこに「平成の終わり」という観念が紐付けられて語られることになる。SMAPの解散や安室奈美恵、小室哲哉らの引退、オウム事件における死刑執行、さくらももこの死去、適当に思い付くものを並べただけでも、ここ最近、われわれがあまりに多くの「平成の終わり」という言葉を聞かされていることに気付く。

当然、その対応関係はたんなる偶然に過ぎない。天皇が変わり、元号が終わるからといって、そのことに合わせて、誰かが死んだり、なにかが終わったりするわけはない。ある個別の出来事はそこで起きたというだけで、勝手に「平成」の象徴という意味づけを背負わされていく。こうやって時代の象徴がどんどんと生み出されていくのだ。

ただそれでも文化や意識の変化を考える際に、なんらかの時代的区切りを用いざるをえないこともたしかだ。たとえば、80年代や90年代といった時代区分を使ってわたしたちは文化や社会意識について考える。「平成」という言葉もまた、そのような区切りの1つとしてある。われわれは自分が生きている時代をどうしても意味づけたくなってしまう存在であるのだ

とりあえずこの連載では、「平成の終わり」、つまり「平成の死」というものについて考えていく。「平成」は近いうちに死ぬ。天皇が死なない元号の死がやってくる。わたしは個人的に天皇制を良いものだとは思っていないし、元号にしてもなくなってほしいと思っている。その意味では「平成の死」などという感覚それ自体が早いところ消えてもらいたいものでもある。

ただ、だからこそ、いま目の前で「平成の死」として象徴的に語られているものを並べながらそれについて考えていきたい。終焉を前にしてわれわれは、なにか自分たちが生きてきた時代について、意味を与えてしまいたくなってしまう。そのようにして生み出される無数の「平成の死」たちを記録し考える作業の中で、次の時代(それは次の元号とは限らない)までに消えた方がよいもの、積極的に殺しておくべきもの、残していくべきもの、つくりだすべきものについて確認することができるように思えるからだ。

デフレの時代としての「平成」 ――ブックオフとTSUTAYA――

筆者が先日ブックオフにて108円で入手した「戦利品」。数年前までは、ほぼ毎日のようにこのような100円棚漁りをしていた。この本も当然のごとく、いつか読むかもしれない本候補の山の中に紛れ込んでいくことだろう……。

今回考えてみたいのは、ブックオフとTSUTAYAという存在についてだ。「平成」の都市空間を考えるにあたり、安価にカルチャーに触れることを可能にしたこれらのツルツル・ピカピカとした空間は大きな意味を持っている。

「平成」とは、旧来の古本屋やビデオレンタル店、レコードレンタル店などがこれらの新しい形態の店によって淘汰され、取って代わられた時代でもあった。古本やレンタル・ソフトといった本来薄汚れていたはずのものたちも、古ぼけた小さな店舗から、広くて明るいこれらの均質な空間の中に並べ直されていく。「平成」において文化の空間はコンビニエントなカルチャーの空間に再編成されていった。

ブックオフの創業は1990年(=平成2年)。その後、90年代(≒平成一桁年代)を通じてチェーン展開が広がっていき、1998年(平成10年)に300店舗、2000年(=平成12年)に500店舗を越えるようになる。他方でTSUTAYAを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社の誕生は1985年(=昭和60年)であるが、現在のTSUTAYAをイメージさせる都市大型店舗、TSUTAYA恵比寿ガーデンプレイス店の開店は1994年(=平成6年)、そして、やはり90年代(≒平成一桁年代)を通じてチェーン展開を拡大していき、2000年(=平成12年)に株式上場を行っている。このような経緯を見ても、この2つのカルチャー産業がまさに「平成」という時代の中で拡大してきたものであることがわかる。

あらゆる文化がデフレ化した30年

そして、「平成」とは不況の只中に日本社会がたたき込まれた時代でもある。いわゆるバブルの崩壊は1991年(=平成3年)に起きる。その後、経済に対する絶望的な認識は社会全体にゆっくりと広がっていき、90年代後半(=平成10年前後)に本格的に結晶化することになる。1998年(=平成10年)には、実質GDP成長率がマイナスになり、自殺者は3万人を超え、大学生の就職難が語られるようになっている。そして、さらに時代は進み、格差問題という言葉が語られるようになり、それは2000年代(≒平成10年代)を通じて大きな社会的トピックとなった。「平成」という時代の流れについては、不況意識の深化というかたちでも語ることができる。

このような不況という感覚の増大は、人々の安さに対する意識を活性化させていく。デフレ的な価値観の時代の到来である。本稿で扱うブックオフとTSUTAYAの隆盛もあきらかにこの「平成」の不況意識と連動するものであるだろうし、その他にも100円ショップやファストファッション、マンガ喫茶なども90年代後半~2000年代前半(=平成10年代前半)に社会の中に定着していくものだ。2ちゃんねるなどにおいて2001年(=平成13年)に「吉野家コピペ」と呼ばれるテキストが流行したが、これもやはり、安さを売りにした吉野家の牛丼がネット世界の住人たちの自己意識にフィットしたから使われたものであるだろう。

「吉野家コピペ」の原文と2000年代初頭に大量に制作された派生テキストは現在でも読むことができる。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-King/2754/2ch/buki-7.htm

ありうべき価格よりも安く物が買える、デフレ的な文化が人々のライフスタイルの中で力を持つようになったのが「平成」という時代であった。ブックオフとTSUTAYAによって塗りつぶされていく都市空間というのは、このようなデフレ文化の時代としての「平成」を象徴するものである。100円+税で買えるマンガ本、180円で観れる映画、そんな文化的なデフレ感覚が「平成」を通じて拡散していった。

わたし自身もまた、そんなデフレの時代である「平成」を体験したいわゆるロスジェネ世代であり、就職難という現実に苦しめられもしたし、逆にデフレ期的な買い物を楽しみもしていた。文化を消費するという意味では、ブックオフとTSUTAYAの恩恵を大きく受けている人間である。毎日のようにブックオフの100円コーナーを漁り、またTSUTAYAでビデオやDVDを借りていたわけで、わたしにとっての「平成」とはこの2つの存在の周辺を生きることであったと思ったりもする。

それでもデフレは死なない

7月22日に閉店したブックオフ渋谷センター街店の跡地

だが、そんなブックオフとTSUTAYA的な文化には終わりが見えはじめている。2018年(=平成の終焉マイナス1年)現在、この2つのチェーン店について凋落が語られている。この凋落はたとえば、WASTE OF POPS 80s-90sという個人ブログの「レンタルCD・DVD店/複合書店/新古書店 開店閉店メモ」コーナーを見れば一目瞭然であるだろう。「平成」期を通じて栄えたこの2つのチェーン店はまさに「平成の終わり」の直前にして、それに添い遂げるかのようにその存在感を失ってきている。「平成の終わり」を、「ブックオフとTSUTAYAの時代の終わり」と重ねて考えることは可能であるだろう。

WASTE OF POPS 80s-90s」のO.D.A.氏が運営する「レンタルCD・DVD店/複合書店/新古書店 開店閉店メモ」
http://d.hatena.ne.jp/wasteofpops+cddvd/

ただここで強調しておきたいのは「ブックオフとTSUTAYAの時代の終わり」とは、「デフレ文化の終わり」を意味しているわけではないということだ。言うまでもなく、新古書店の衰退は、紙の書籍から電子書籍への移行、メルカリなどの個人フリマアプリの隆盛や違法無料マンガサイトの存在などのネット文化と関係するものであるし、ソフト・レンタル産業の凋落も同様にYouTubeやニコニコ動画といった無料動画サイト、あるいはSpotifyやNetflixなど安価で大量のアーカイブに触れられるサブスクリプションサービスの興隆と結びつくものだ。インターネットによって、「平成」的なデフレ文化よりももっと安く、さらには違法な形態を含めて無料で文化に触れることが可能になった。

このような話を大学の授業でした時の学生からのコメントに興味深いものがあった。曰く、子どもの頃、マンガを買おうとしたら親から無駄遣いをするなと言われ、ブックオフに連れていかれた。さらに最近になると、お金がかからないからと違法マンガサイトの存在を教えられたとのことである。こうしたコメントは一人二人からのものではない。

自分の子ども時代を思い起こせば、親から言われる「無駄遣いするな」とはそもそもマンガやゲームなどを買わないことを意味していた。だが、現在においては無駄遣いしないことが、違法サイトの使用になっているという事実がここにはある。親の教えとして無料で違法な文化享受が推奨されているのだ。ここまで、カルチャーの無料化が進行していることには新鮮なおどろきがあった。

いまわれわれが目の当たりにしているのは、デフレ文化どころではない、ネット発の無料文化とでも言うべきものの活性化だ。繰り返すが「ブックオフとTSUTAYAの時代の終わり」とは、「デフレ文化の終わり」ではない。むしろデフレ的な感覚はネットの中で加速化し、100円や200円といったお金ですら文化に触れる際に必要なくなってしまった時代が現在である

つまり、ブックオフやTSUTAYAが文化的な力を失った時代の中でも、デフレ的な感覚はまったく終わってはいない。デフレ感覚自体がさらにデフレ的に飽和し無料にまで行き着くかたちで、わたしたちの生活を取り囲んでいるのだ。「平成」が終わっても、このデフレ的な感覚はさらに力を増しながら、生き残っていくことだろう。

「平成」的なデフレの快楽

このブックオフ・TSUTAYA的なデフレ文化からネット的無料文化へという移行は自然な流れに思えるかもしれない。どんどん安くなり、果てはタダになる、そのような流れの中に一見、疑問はない。だが、もう少し立ち止まって、この2つの文化消費の違いについて考えてみよう。無料で文化に触れるのとは異なるブックオフ・TSUTAYAという「平成」的な消費形態の特異性を見出してみたいのだ。それは“物を安く消費する”ということの中にある独特の快楽について考えることでもある。

無料とは違う、“物を安く消費する”快楽という感覚はわかりにくく思えるかもしれない。だが、ブックオフの100円コーナーでつい調子に乗っていりもしない本をまとめて買ってしまった時や、TSUTAYAのレンタルセール日に結局観もしないDVDを借りてしまった時などの日常的な風景を想像してみれば、その意味は伝わるのではないだろうか。なぜ、こんなことをしてしまうかと言えば、それは安さというもの自体の中に人を興奮させるような何物かが存在するからだ。安さを感じた時に、わたしたちはそのことだけで得したような気分を感じる。そこには独特の快楽がある

その興奮によって、ついわれわれは物を買い溜め込んでしまったりもする。いつか読むだろう、どうせたかが数百円に過ぎない。そんな言い訳を用意して大量にマンガや小説やCDを買い、それを積み上げていく。そのように買われた物品によって覆い尽くされていくのが、「平成」的な文化系人間の自室であったはずだ。

TSUTAYAやブックオフといったデフレ的な空間は、そのような安さの快楽を、日常化した場所であったのだ。100円ショップで食器が買えること、牛丼が200円台で食べられること、千円弱でマンガとネットがある場所に泊まれること、そのような安さの天国が「平成」という時代であったのだ。安い物は買わなければ損だ、だからそのような安い物を大量に消費する、そんなライフスタイルが常態化する中で、「平成」社会のデフレ化は進行していった。

当然、このことには不況という要因がからんでいる。貧しくなれば、当然、安い物が求められる。ただ、いまから振り返れば、このような貧しさの意識の中にも「平成」的な独特な感受性があったように思う。当然、深刻な貧しさは存在していたし、人々の生活もどんどん下落していった時代である。

何円かではなく「お金を使うこと」自体が忌避されるモードへ

だがそのような事実があったとしても、いまから振り返ると2000年代(≒平成10年代)の格差や貧しさを語る言葉の中にはどこか流行現象としての軽薄さを感じるところがある。2005年(=平成17年)に出版された三浦展の『下流社会』は80万部を超えるベストセラーになっているし、「格差社会」という言葉は2006年(=平成18年)には流行語大賞の上位に食い込んでいる。ロスト・ジェネレーションを略した「ロスジェネ」という言葉も広まった。もしくは2007年(=平成19年)に話題になった赤木智弘の文章『「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争』にせよ、いまから見ればそこまでショッキングなものには思えないが、当時は一大論争を巻き起こすものであったのだ。

赤木智弘『「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争』は現在も同氏の旧公式サイトで公開されている。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/index_old.html

危機意識は人をどこか欲情させるものである。社会の教科書などに載っている、1973年のオイルショック下のトイレットペーパー騒動に関して、後に社会学者の中野収は「人々がパニックの中にあることを楽しんでいた感もある」という解釈を提示している(ノストラダムスの大予言と同時代である)が(『戦後の世相を読む』(岩波セミナーブックス)123ページ)、同様に、当時の貧困や格差を語る言葉の一部には現実とは異なるつくりものめいた感触を持つところがありもする。危機意識の流通はどこかに、流行現象の消費と紙一重の部分を持つ。すべての語りがそうであるわけではないが、いまから振り返れば「新奇な現象」としての不況に人々はどこかで興奮していたのではないだろうか。

貧しさや格差を語り、それを根拠にしながら“物を安く消費する”快楽を楽しむ、そんな気分が「下流化」する「平成」の中には存在していたようにも思う。不況という過剰な自意識と、デフレの快楽、それがブックオフ・TSUTAYA的な「平成」文化の中核にある。

ただ、このような文化の消費モードは「平成の終わり」が近づくにつれ、摩耗していくことになる。その理由について2つ推測することができる。1つの理由はインターネットを通じたさらなるデフレ感覚の拡大による、安く買うことの陳腐化の流れだ。もはや、安く買うという経験に特権的な感覚は存在しにくくなってしまったし、ネットで無料かつ大多数の文化が消費できる段階になれば、イマ・ココにおいて急ぎそのお得な物を手に入れる焦りも必要なくなる。安い時に手に入れずとも、いつでもそれは検索によって獲得可能な物になるのだ。無料化は人を冷静にさせ、“安いことの快楽”を打ち消していく

もう1つの理由は、不況や貧しさの常態化だ。“新しい”現象としての貧困に関する危機感は人々に興奮をもたらしていた。だが、時間が経つにつれ、そのような興奮は徐々に冷めていくし、そのキツさのリアリティも現実的なものとなってくる。もはや、文化の安い消費などにさほど目が向けられることもない。貧しさはもはや常態である。

そのようにして、「平成」的なデフレ消費のモードは終焉へと向かっていった。ただ先にも述べたように、デフレ意識それ自体はまったく消えていない。というよりも、買うことそれ自体、お金を使うことそれ自体が忌避されるような、さらに奇怪なモードの文化に関するデフレ気分が拡大しているとも言える。「安く買うことのなにが悪い」の延長線上で、「無料で手に入れてなにが悪い」という気分が社会の中に広がっている。

と同時にそれと重ねて強調しておきたいことが1つある。それは「平成」半ばにあれだけ“熱く”語られていた「格差」の問題や「ロスジェネ」の問題がもはや忘却されていることについてだ。その忘却は当然「ロスジェネ」世代の問題は解決されて生じたものではなく、単に流行が終わったから忘れられただけのものだ。彼らの労働はいまだにデフレ的に買い叩かれている。「ロスジェネ論」は消えてもその現実は残り続けているのだ。

ブックオフ・TSUTAYA的な「平成」的なデフレ文化は消えつつあるが、その裏側で背景としてあった「平成」的な不況感覚が忘れられつつあることも確認されておくべきことだ。今回、ブックオフ・TSUTAYA的な「平成」を論じようと思ったのも、そんなかつて「平成」にあった不況感覚の存在をもう一度、掘り起こしておきたかったからでもある。

「平成」は死んでも、デフレは死なない。さらに奇怪なものとなって生き残り続けようとしている。殺すべきは、この奇怪なデフレ意識なのではないだろうか? この問題を考えるために、次回もブックオフ・TSUTAYAという「平成」的デフレについていま少し考えてみたい。デジタルデータ以前の時代であった「平成」においては、“物”がまだ買われていたという事実を掘り下げてみよう。そこからわれわれの中に生じた時間や空間に関する変化が見えるはずだ。

(つづく)