CULTURE | 2018/08/28

「酷暑下の部活問題」について現役サッカー部顧問が考えたこと―「正論」をいかに現場に接続できるか|矢野利裕

HIME&HINA / PIXTA(ピクスタ)
とてつもなく暑い日々が続いています。駅まで歩くだけでも汗だくで...

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HIME&HINA / PIXTA(ピクスタ)

とてつもなく暑い日々が続いています。駅まで歩くだけでも汗だくで、外出するときはこまめな水分補給が必須です。学生時代、ずっと運動部だった自分からすると、夏休みと言えば部活が本格化する時期なのですが、今年のような酷暑日の連続だと、部活中の熱中症には本当に気をつけなくてはいけません。テレビで甲子園なんかを見ても、少しハラハラしてしまいます。

――というのは、あまりにもあたりまえの一般論なのですが、実は自分、都内私立の高校で教員をやっており、ここ数年は、サッカー部の顧問兼監督という立場です。だから、「熱中症者を出さないように!」というのは、個人的には、一般論以上に目のまえの生々しい問題として、いま現在、毎日のように問われているところです。以下、教員の立場から部活について書きたいと思います。

正直、業務についてメタ的に書くことになるので、実際の生徒に読まれることに抵抗はあります。ましてやネット記事。いくらでも拡散する可能性があります。だから、もし実際の生徒が読むことがあっても、変なかたちでの拡散はしないでほしいです。とは言え、すでにそれなりの批判的思考を育んでいるはず(と願っています)のきみたちなので、教員という立場に対して、部活動のありかたに対して、つまりは、いままさに自分たちが乗っかっている制度それ自体に対して、さまざまな観点から考えるきっかけになれば幸いです。

矢野利裕

批評家/ライター/DJ

1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。

現場のサッカー部顧問は、今年の夏をどう乗り切ったか

さて、自分のサッカー部ですが、今年、あまりの暑さのため、約70名の部員をふたつのグループに分け二部制の練習とし、一回の練習時間を3分の2から半分程度削減(90~120分程度)し、さらに疲労が残らないよう休養日も増やしました(2~4日につき1日程度)。しかし、ここには見えやすい罠があります。それは、生徒をふたつに分けているぶん、顧問の帯同時間はむしろ2倍、休みもかえって減ってしまうということです

もともと人手不足の感があるところへ来て、高校生のようには運動しないとは言え、炎天下のなか数時間いる、それが毎日続く、というのは、正直なかなかしんどいものがあります。時間は少しうしろにずらしているのですが、体感的な暑さに変わりはあまり感じられません。もっと上手なやりかたがあるのかもしれませんが、現状、こんな程度です。

ネットなどの良識的な意見を見ていると、もっとドラスティックな変革を求めているような印象があります。「30℃を超えたら運動を控えるべき」「そもそも部活動を廃止すべき」などなど。正論だと思います。ほぼ全面的に賛成です。この酷暑の中、健康を害してまで運動を強いるべきではないし(ましてや命を賭してまで)、そもそも部活動をめぐる問題自体も多いでしょう。教職課程を取っていた大学生の時分は、できるだけ多様で複数的な人間関係をもつべきだ、という立場から、クラスの人間関係と部活動の人間関係が接続されてしまう部活動制度に批判的でした。現在ではもっぱら、教員の過重労働という点から、やや感情的かもしれませんが、批判的になっています。

良識的な「正論」は、外部からどんどんなされるべきでしょう。外部からの「正論」は、世論を形成します。その世論はとても力強い。例えば、教育学者の内田良氏がされている一連の学校批判、部活動批判は、すっかり世論として定着した印象を受けます。自分が勤めている学校内においても、実際に一部の教員からは内田氏の名前が出て、議論は具体化されました。また、部活動について語るうえでも、たとえ個々のケースで立場の違いがありうるとしても、そこに、教員の過重労働の問題やガラパゴス化の問題などが存在している、という議論の土台は共有される。

「大事なのは生徒からの白眼視に耐えることだ」

必然、実際に部活動を運営するとき、部分的な反発が周囲(生徒・保護者・同僚など)からあったとしても、根底に「あいつがこういうやりかたをする背後にはこういう問題があるのだ。だとすれば、賛成はしないが意図はわかる」程度の薄い理解が得られます(自分自身はわりと好きにやらせてもらっているので、その点は幸いですが)。そういう「薄い理解」が存在することが本当に重要なのだと、自分の現場での実感としては強く思います。だから、そういう根本的な「正論」はどんどん叫ばれてほしいです。内田氏を中心とした一連の問題提起は、本当に貴重なものだと思っています。

そのうえで。とは言え、おもにネット上で見かける「部活動など即刻廃止したほうがいいでしょ」「30℃を超えたら中止」と言った「正論」は、どこか、今まさに部活動と向き合っている生徒や教員の生々しさを捉えきれていないと感じます。いや、「正論」なんです。正しいので、なんの文句もないんです(ちょっと感情的にムカつくときはありますが)。ただ、個人的には、その「正論」を実際に適用するさいの現実的な軋轢こそが、多くの人が具体的に直面している厄介さではないか、と感じています

現場主義が行き過ぎて社会との接点を見失った「そんな意見など机上の空論だ。暑い中でがんばることが大事なのだ。部活動も理不尽を乗り越えてこそだ」という意見は最悪です。まるで「正しさ」も誠実さも感じない。ただ一方で、「部活など廃止でしょう」という裁断的な「正論」が、少なくとも現段階ではまだ、目のまえの現場の生々しさと乖離している印象があるのもたしかです。ネット上の「正論」とは別のところで、目のまえには「もう少し部活をさせて欲しい」と感じている生徒がいる、という圧倒的な現実があります。そういう中では、裁断的な「正論」などすぐに、「顧問のお前が休みたいだけだろう」という偽善的な物言いに反転しそうです。

学校教育をめぐる言説はまだまだ、理念的な「正論」と過剰な現場主義の対立が強い印象です。でも、現役教員の自分の感覚からすると、その中間にこそ生々しさが横たわっている。賛否わかれる問題において、大事なことはおうおうにして中間領域にあります。「正論」派の教員である知人が、「大事なことは生徒からの白眼視に耐えることだ」と言っていましたが、「生々しさ」とは例えば、この「白眼視」のことです

その「正論」は、きちんと現場の厄介さに向き合っているか

「正論」を体現することは、一方で「白眼視」を引き受けることであり、あるいは、その「白眼視」を覆すような信頼関係――「この人が言うのだから、とりあえずは聞いてみよう」という信頼関係――を作ることです。この点にこそ、自分が教員をやっているうえでの生々しい厄介さがあります。この厄介さを捨象して進んでいく議論には、正直一定以上のリアリティは感じないし、そういう生々しさとともに発せられる「正論」もまだまだ少ないように思います

先述の内田氏が記した『ブラック部活動』(東洋館)には、部活動の顧問を拒否する教員のかたが登場しています。この闘いかたはすごい。生々しい。職員会議の場で顧問をしないという意志を表明したときは、「喉はカラカラに渇き、身体中が震えていた」ということです。同僚の「白眼視」と向き合いながら、その身で「顧問を拒否する権利がある」という前例を作り続け、少しずつ周囲の意識を変えています。

自分の性格・考え方からすると、顧問を拒否するという選択はできません(そこまでの覚悟をもっていない、ということかもしれません)。部活動の顧問制度に批判的だからこそ、顧問という立場にどっぷりと浸かって、内側からハッキングするように「正論」を浸透させようと考えています。いちばん奥深くまで潜って、刺さっている棘をゆっくりと引き抜くような、そんなイメージで働いています。しかし、これだと一方で、良くない働きかたを再生産しているようでもあり、悩ましいところもあります。

朝練の強制、罰走、休日なし……。着任した頃は今どき珍しいくらいに前時代的だったサッカー部は、この数年でだいぶスリムになってきたと信じています。3年かけて、練習日も週6から週5に移行しつつあります。睡眠時間の確保が難しくなる朝練の強制と、明らかに問題含みの罰走制度は即刻禁止にしました。とは言え、これら悪習の廃止に対してすらも、生徒からの反対や「白眼視」があったので驚きました。もちろん、どんな仕事もそうであるように、うまくいかないことや試行錯誤の連続です。ただ、今年の春のインターハイでそれなりの結果を出してくれたことが(これこそ、まったく自分の力ではありませんが)、本当にありがたいです。やみくもに量をこなさなくても結果が出る、という体験になったので。

一方で批評家/ライターとして活動をしつつ、もう一方で教員をする自分のような立場の人間としては、抽象的な理念とともにある「正論」と現場の厄介さを接続するような役割を果たしたいと思っています。現場はともすると社会的な良識を見失いがちだし、「正論」はともすると現場の厄介さを捨象しがちです。現場主義を謳うのはあまり好きではないですが、とは言え、現場にいることの強みというのはあると思うので。とりあえず、良識的な「正論」が重要だと認めつつも、多くの人は、それを現場に適用するさいの厄介さに直面しているのではないか、という当たりまえと言えば当たりまえのことを忘れてはいけない。制度の変革は、トップダウンとボトムアップという上下両面から起こるべきだと思います。

最後に宣伝です。いま発売中の『ユリイカ(2018年8月号)』のケンドリック・ラマー特集に「どこから来たかじゃねえんだよ、どこにいるかなんだよ――ケンドリック・ラマーに引かれる複数の線」という文章を寄せました。前回記事に書いた音楽と政治の延長にある問題意識です。よろしければ!

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