CULTURE | 2020/11/05

「対案なき野党」では自民党に一生勝てない。「リベラルな改憲」を目指す弁護士・倉持麟太郎が語る、健全なオルタナティブ政治のあり方

弁護士の倉持麟太郎氏の初単著『リベラルの敵はリベラルにあり』は、その内容をかいつまんで説明しようとするのが意外と難しい。...

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弁護士の倉持麟太郎氏の初単著『リベラルの敵はリベラルにあり』は、その内容をかいつまんで説明しようとするのが意外と難しい。タイトル通りの「日本の“自称”リベラル層≒野党(支持者)批判」だけで構成されているかと思いきや、自民党批判やその先の議論も同程度含まれている。

こうした本を紹介する際、ウェブメディアがPVを稼ぐためのタイトルとして鉄板なのは「野党がだらしない」「上から目線のリベラルが酷い」うんぬんと付け、SNSで何万回も見かける野党支持者VSアンチ左翼&自民党支持者の罵倒合戦を促せれば一丁上がり。メディアビジネス的にはシメシメとほくそ笑んでそれで終了なのだが、ビジネス上の要請からSNSやYahoo!ニュースのコメント欄での罵倒合戦に「釣られる」読者が意図的に増やされているという悪循環もまた、本書では痛烈に指弾されているし、そんなことをしても誰も幸せにはならない。今回のインタビューでも、それを意図するような話題展開はなるべく避けたつもりだ。

その上で、「法律やモラルに反したことをしているのは大半が自民党政権側なのに、なぜ野党・リベラル側の振る舞いばかり批判されるのか」という憤慨も心情的にはわかる。ただ、既存の「やり方」が第二次安倍政権以降の8年で通用する=政権交代することはなかったという事実はやはり無視できない。そして変化を求められているのは、大本の「理念」ではなく、枝葉の「やり方」ではないのだろうか。

今回のインタビューでは、法律制定と憲法改正という、本来的には「国を良くするための働きかけ」がなぜ機能不全になってしまっているのかという日本政治の構造問題を指摘してもらいつつ、倉持氏が法律家の立場から携わった安保法制と皇室典範改正のエピソード、そして政治無関心層を惹きつけるための方策について語ってもらった。

聞き手:神保勇揮・米田智彦 文・構成・写真:神保勇揮

倉持麟太郎(くらもち・りんたろう)

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1983年東京生まれ。 慶應義塾大学法学部卒業、中央大学法科大学院修了 。2012年弁護士登録(第二東京弁護士会)。日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事、弁護士法人Next代表弁護士。一般企業法務の傍ら、東京MXテレビ「モーニングCROSS」レギュラーコメンテーター、World Forum for Democracyにspeakerとして参加、アメリカ国務省International Visitor Leadership Programに招聘、慶應義塾大学法科大学院非常勤講師(憲法)など、多方面で活動。共著書に『2015年安保 国会の内と外で』(岩波書店)、『時代の正体2』(現代思潮新社) 『ゴー宣憲法道場』(毎日新聞出版)など。

「護憲至上主義」を掲げる一方、立憲主義を軽視する日本のリベラル

―― 本書はどのような経緯で執筆することになったのでしょうか?

倉持:この本で一番言いたいことは、立法者である国会議員が「国会議員にしかできない法や憲法を策定、改善するプロセスを通じて法の支配や民主主義のアップデートになぜ尽力しないのか」ということです。現状、多くの国会議員は象徴的には地元のお祭りに行く仕事がメインで、与党議員は法案の起立要員、野党議員は溜飲下げ要員にしかなっていない。つまり、選挙と政局がらみでしか動いていないということに強い不満を抱いています。結果として、市民運動やマスコミなど、政治の周辺にいるプレイヤーも「民主主義=選挙“だけ”」という構造に引きずられて、日本の民主主義のオプションは豊かになっていません。

日本では、立憲主義、つまり「法・憲法によって権力を統制して国民の自由を確保するんだ」という理念に対して、憲法9条と自衛隊の関係を筆頭に、「それはそれ、これはこれ」となあなあにしてしまっている面が明確にあります。そもそも“自分らしく生きる”という自由の価値が至上であることを前提に「常に檻から出ようとする権力を憲法によってコントロールするのだ」というコンセンサスが形成できていないということです。

2015年の安保法制にしても、あれはアメリカとの一体化=従属を強め、日本の主権を弱める法律ですし、従前の9条の政府解釈にも反します。それに歯止めをかけるはずの憲法に、実効性を担保するシステムがビルトインされておらず、機能していないという現実がある。そもそも憲法の文言よりも解釈などの「運用」でやり過ごすことを「大人の知恵」として優先してきたからこそ憲法が規範として機能していなし、憲法裁判所のように、誰かの具体的な権利が侵害されていなくても法律や政府の行為が違憲かどうかを抽象的に判断できるシステムが日本にはありません。

「そうしたシステム整備の話をしていかなければ、次に同じことがあっても自民党に勝てないですよね?」という提案をしていかなきゃと思っていたら、周りの野党・左派の人たちはすっくと後ろを向いて「今回は良い負け方をしたね」「よし、次の戦いだ!」って散っていってしまう。タブーなくシステムの欠陥などにシビアに向き合わなければ一生勝てません。

「システム整備の提案」という意味では世界ではむしろリベラル派が積極的に改憲提案をしています。なぜなら「憲法は国家権力を統制する規範なんだから、どんどんアップデートしていかなきゃ!」という話になるからです。ところが日本では野党第一党の立憲民主党が「憲法改正案は未来永劫出さない」というようなことを言っていて、議論すら一切しようとしない。冷戦構造が終わって社会党が大幅に弱体化し、「護憲」が流行らなくなったから「立憲」と看板を変えただけで、中身は従来の「護憲」と変わらないまま今に至ってしまっています。

自分は何よりも自由を重んじるリベラルだというはっきりとした自覚がありますし、法律家なので自由の確保は不文律や慣習ではなく、なるべく法・制度で明確な線を引こうと考えです。そうした中で「自民党の改憲案のような粗悪物だけしか案がないくらいなら、むしろリベラルな価値観からの改憲案をぶつけるべき」というような主張すると、真っ先に批判をぶつけてくるのが自称リベラル派なんです。憲法に限らずそうしたことが積もり積もって本のタイトルを『リベラルの敵はリベラルにあり』としました。

―― 倉持さんにとっての「日本のリベラル」とはどのような存在なのでしょうか?

倉持:そこは非常に難しい話で、この本を書いていて、ひとつ悩んだのは「日本型リベラルというのは存在しないんじゃないか」と書きつつ、日本型リベラルとはそもそも何なのかということを定義し断言するかしないかということです。まずは、定義したり、「~主義」という統一的な理論で説明しようとするよりも、自由のための様々な実践を積み上げて、「日本のリベラルが真に政権に対する健全なオルタナティブになるためには、この方向に向かうべきなのではないか」ということを記したつもりではあります。

リベラリズムと言ってもフランス、ドイツなどヨーロッパ的な「自由」を重視する文脈と、アメリカの政府介入的な「社会福祉」を重視する文脈の両方があり、今の日本では後者のアメリカ的文脈で使われることが多いです。ただアメリカは人道的観点と言いながら軍事介入もするし、リバタリアン的な思想であれば「市場に任せて国の規制は減らせ」ですし、共同体主義(コミュニタリアン)寄りであれば道徳的な要素を重視しろと言うし、リベラルと一口に言ってもどの要素を重視するかは人によって違う。だから「リベラルは~」と言っても、そもそもどの要素の話をしているのかという部分から話が噛み合っていないことも多いですよね。

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