CULTURE | 2020/05/28

「日本のコロナ対策が成功した理由」は何か。専門知と現場知の融合から見えてくる希望

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(5)

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こういう感じ↓になってる人、多すぎませんか?

今回の記事では、日本のコロナ対策が「何もやっていないように見えるのにうまく行った」原因をちゃんと理解するためには、日本の製造業などでは当たり前に使われている「ある考え方」を応用して考えることが必要なのだ…という話をします。

そして、その考え方について深く知ることは、私たち日本人にとって「自分たちの本来的なオリジナリティ」を理解し、トランプVS反トランプ的な欧米文明の行き止まりを克服する希望を提示していくプロセスになるのだ、という話をします。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングプロジェクトのかたわら、「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元小学校教員がはじめた塾がキャンセル待ちが続出する大盛況となるなど、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。アマゾンKDPより「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」、星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』、晶文社より『日本がアメリカに勝つ方法』発売中。

ついに緊急事態宣言が解除され、これから経済再開へ向かっていくわけですが、今後も難しい舵取りが必要な状況ではあります。

できるだけはやく経済再開し、そしてチラホラ出てくるであろう感染者に適切に対処しつつ、大きな “第二波”に見舞われてもう一度経済を止めたりせずに済むようにするためには、

冷静な状況把握と、それに応じたアクセル・ブレーキの踏み分け

が大事ですよね。急ぎすぎてもいけないし、遅すぎても経済が死んでしまう。

しかし、今の日本では、 “ありとあらゆることが政治闘争のネタ”に見えてしまうような人たちの罵声が溢れかえっていて、なかなかこういう冷静な議論が進みません。

1:欧米メディアの論調は変わったが…

たとえば、欧米とは比べ物にならない少ない死者数に抑え込み、緊急事態宣言解除にこぎつけた日本に対して、1カ月ほど前は辛辣だった海外メディアの論調も随分変わってきました。

いろんな論調がありましたが、このTOKYO REVIEWという英字メディアの「Time to Give Japan Credit for its COVID-19 Response」という記事では、

「アベの説明がうまくなかったとはいえ、データで死亡率の低さが明らかになってからも延々と陰謀論を唱え続けた一部メディアは、公平さとプロフェッショナリズムを欠いていたのではないか」

という趣旨の指摘をしていたのが一番印象的でした。

今こそ、「どういうところが良かったのか、もっと改善できるとすればどういうところか」を冷静に考えるべき時…なはずなんですが、「日本の当局」がやったことがちょっとでも「良かった」と評価すると死んでしまうんじゃないか…みたいな人が日本には結構いて、凄い混乱してるんですよね。

そういう人たちは、以下の図のように、とにかく「日本の当局がやったこと」は全部間違っていて的外れだったけど、 “たまたま”日本は成功したのだ…というストーリーにしたいがために、色々と無理のある仮説を提示したがるわけですが…。

2:日本の当局を認めたくない人がハマる免疫系の仮説

確かに、「BCG接種が関係してるんじゃないか」とか、「アジア諸国は中国由来の別のコロナウィルスに既に感染している人が多く、それが免疫になっているんじゃないか」とか、なかなか面白い仮説ですし、今いろんな科学者さんが検証している最中ではあります。

ただ、こういう「免疫系」の仮説には一つ大きな問題があって、それはそもそもこの新型コロナウィルスは、中国の武漢市で大悲劇になって始まったんだってことを忘れているんじゃないか?ってことです。

確かにひょっとするとBCGか、別のコロナウィルス由来の免疫で、欧米に比べてアジア諸国では致死率が低くなる効果はあるのかもしれない。でも、その「安全圏」にアジアだけでなくニュージーランドやオーストラリアみたいなところまで入るのに、中国の武漢市は入らない?…ってそんなわけないですよね。

ひょっとすると、ノーガード戦法に出た時に本来10万人死ぬところ数万人ぐらいになる効果はあるのかもしれませんが、じゃあアジアじゃ何もしなくて大丈夫!緊急事態宣言なんか無駄だった!…というわけにはいかないのは武漢市という巨大な反例を見ればわかることなはず。

日本のように医療制度が整っている国だけでなく、東南アジアの発展途上国でも欧米に比べて死者数が断然少ないというミステリーは、今世界的に大きな謎になっています。

しかし、たとえば「免疫系の仮説」は、武漢市という巨大な反例がある。

また、「アジアの文化」が原因とする色々な説も、ほぼ欧米寄りの文化を持つニュージーランドやオーストラリアも死亡率が欧米に比べて断然低い…という反例があります。

これを統一的に説明するために私が提案したい仮説は、「コロナ禍は借金のようなもの」という「借金仮説」です。

つまり、

早いうちから危機感を持ってある程度マトモな対策をしていれば多少いい加減な対策でも乗り切れるが、欧米のように「どうせ遅れたアジアの国だけで流行るような風土病だろう。自分たちには関係ない」とか言ってるうちにある閾値を超えてしまうと、もうどうしようもなくなる

…という

“借金”みたいな性質

なのではないでしょうか?

3:コロナ禍の難しさは、「借金との向き合い方」みたいなもの?

この「借金仮説」を図示すると以下のようになります。

借金って、たとえばクレジットカードで買ったものを、一件一件全部家計簿に転記して指差し確認しなくちゃ…ってなると疲れちゃいますよね。

それが出来る人は限られるというか、国全体で見ると非常に強権的に中央政府がリードする必要性が生まれてしまう。

一方で、月1回ぐらい明細が届いた時にちゃんと確認しておいて、「あ、ちょっと使いすぎたな。来月飲み会一回パスするぐらいかな」的に「なんとなくの方針」をたてて管理するぐらいなら、ほとんどの人が無理なくできるやり方になるじゃないですか。

でも、これがリボ払いの仕組みがよくわかってないままリボ払いにしていて、残高が積み上がっていって毎月払っても払っても元本が減らない…みたいな状況になってしまうと、同じ「借金という現象」が、途端に物凄く手に負えない現象になってしまいますよね。

で、この「手に負えない状態」になってしまってから「借金」というモノを見ると、こんなのどうやって制御すればいいんだ!ってなるんですけど、そもそもそうなる前に月1ぐらいで見ていれば、「こんな簡単なこと、なんでできないの?」というように見える。

日本の「ゆるゆる対策」がうまく行った理由(最近流行りの言葉で言うと“ファクターX”)…をちゃんと説明するには、こういう「ちょうど良さ」という視点が重要になってくるはずなんですよ。

逆にいえば、欧米でもロックダウンのような強烈な政策で「自己破産」的に借金を一度チャラにしてしまえば、そこから先は「今人類が思っているよりもゆるい」対策で乗り切れる可能性が高く、その時に日本のやり方が評価される流れも来るはずだ…という風にも考えられます。

ツイッターで、欧米企業の日本支社を経営している「とくさん」という方が以下のように書いていました。

実はここには、日本人なら普通に考えるけれども、なかなか欧米人の認識する文脈に乗りづらい「あるスレ違い」があるんですね。

この「落差」を理解するには、「パラダイム(モノの見方の型)」を転換する必要があるわけです。

4:日本人の強みと「科学という仕組み」の間を繋ぐ新しい考え方

前回の記事で、「日本の製造業の考え方をコロナ対策に応用する」方法について述べました。

「100回に1回不良品が出る」時に、欧米人はそれを「確率的」に捉えるけど、日本は「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」の国なので、「その99回の作業と1回の作業は全く別の現象が起きているのだ」と考えるんですね。

そして、「そもそもその不良が出ない工夫」を現地現物レベルで積むことで、「気遣い作業」をしなくてもその「100回に1回」が起きないような算段をするのだ…という話でした。

実は、その前回記事で紹介した日本の製造業の標語、

「品質は工程で作り込む」

の続きは、

「 “検査”で “品質”は作れない!」

なんですよね。

これは「検査」を軽視しているのではなくて、「検査が自己目的化する」ことを戒めているんです。

言い換えれば本当に「品質」に迫るには、闇雲に「検査の数」を増やすのではなくて、「そこで起きていること」に、そこに関わっているあらゆる人の体感や知見を動員して具体的に現地現物で迫っていくことが必要だという知恵なんですね。

「検査で品質は作れない」と言っても日本の製造現場が検査をしていないわけではもちろんないわけですが、「検査の回数ができるだけ減らせるように工程自体を作り込む」ことが重要なんです。

「100回のうちの1回の不良が起きた真因」を探っていくとき、現場の作業員のいろんな体感も含めた「本当の衆知」を動員していくことができるんですよ。

しかし、「そんなの検査しないとわかるわけない」という「狭義の科学的態度」で向かってしまうと、「実際にその作業に関わっている現場の人」は決して何も見ていない、体感していない、単なる「言われたことを言われたとおりただやる」だけの無力な存在に押し込められてしまうわけです。

結果として、物凄く勉強のできるアカデミックな天才以外は「脳みそ」が一切ない、単なる手足にすぎないと扱われ、果てしなく無力感を溜め込んでいってしまう…という欧米的世界観が直面している袋小路にぶつかってしまう。

でもここで考えてほしいんですが、「科学というプロセス」というのは、「人類がいついかなる時も共通して確実だと言える知識を積み重ねるためだけに特別にデザインされた仕組み」ですよね?

でも「“今この瞬間“の環境を前提として、“その”工場において工法Aと工法Bのどちらがコストを抑えられるか」というのは、「人類がいついかなる時も確実に言える」レベルの確からしさは必要ない…というかむしろ邪魔なわけです。

なぜ邪魔かというと、その工場の特性によっても違うし作業員の慣れ不慣れによっても違うし、既に減価償却の終わってる古い製造機械があったりしても違うし、今日最善だったものが、明日普及した新工法によって “最適”がガラリと変わってもおかしくないからなんですね。

大事なのは、「その判断に必要十分なだけの確からしさ」で物事を分析し、判断していくことなんですよ。

つまり、ありとあらゆる現場的判断に、「狭義の科学的」な厳密性を求めることは、「現場レベルの判断」を全部排除してしまうために、「本当にローカルな事情にフィットした」制御ができなくなってしまうわけですね。

「自己目的化した検査」を神聖視しない思想の背後には、欧米文明が果てしなく「トランプVS反トランプ」的な分断に陥ってしまう袋小路を超える希望として私たち日本人がこれから提示していくべき、

「本来あるべきだった学問知と現場知の最適なコラボレーションを可能にする知恵」

が潜んでいるんですよ。

日本のPCR検査数に関する神学論争がここ2カ月ぐらいずっと続いていましたが、そもそもコンビニに行くみたいな気軽さで検診して検査してもらいたがる国民とそれに対応する医療網が全国にある日本では、風邪で病院にかかるのも2週間待ちのイギリスとか、救急車を呼んだら20万円ぐらいかかるアメリカとか…とは状況が全然違うので、医師の診察を挟んで事前確率を上げて検査すれば補足率はそれほど変わらない…というのは日本の医療関係者がずっと言っていたことなんですが、なかなか理解されませんでしたよね。

もちろん、ポイントを絞った検査体制の拡充に意味がある分野も沢山あるわけですが、この連載の第2回の記事で整理したように、その「日本の現場側の事情」を全然勘案する気がなく単に「検査の数の国際比較」だけをして騒ぐ人が多すぎるので、「必要な検査の拡充」にすら動けなくなるメカニズムがあるんですよね。

5:「どの程度の厳密性が必要か」を常にフレキシブルに考えることが重要な鍵

第2回の記事で書いたように、日本の専門家会議の人たちは本当に優秀で、私のクライアントで製造業とかの「現場寄り」の分野の経営者の人たちが、口を揃えて「誰なのかわからないがメチャクチャ優秀な人が指揮を取っているっぽい」と言っていたほどでした。

その「どこが優秀だったのか」を誤解を恐れずにいうと、「狭義の科学的厳密さを自己目的化させない」ところだったと言ってもいい。

「本当に優秀な知性」を持った科学者っていうのは、いろんな複合的な要員が現実には絡まって起きているんだ…ってことが理解できる人なんだと思いますが、しかし「狭義の科学的態度」にこだわりすぎると、ありとあらゆることをシングルイシュー(単一の理由付け)でぶった切ってしまいたくなるんですよね。

そして、最初から最後まで完全な透明性を持った、実験室的環境の中で判断しないと「何もわかるはずがない」と考えてしまうんですよ。

もちろん、物理法則とか数学の定理とかいうレベルの研究をしている時ならそういう態度は必須ですが、現実と関わるところでそういう潔癖性を発揮することは、「学問界にいる人間だけが知性というものを持っており、 “現場”はただ言うことを聞いて従うべき存在で、彼らに知恵などはない」という役割分担を無意識に前提してしまっているんですね。

こういう風な態度だと、たとえばクラスター対策とか、「三密回避」とかいった「現地現物的な発想の対策」を、物凄く過小評価してしまいがちになる。

これは「知的能力」というより「寄って立つパラダイムの問題」なんですよね。

たとえば、3月19日に出た日本の専門家会議の資料「COVID-19への対策の概念」が、当時「日本政府から出た資料でこんなクリアーな洞察があるものを見たことがない」とか一部のビジネスクラスタでは言われていました。

しかし、一部の「原理主義的な理論系の科学者」の人からはウケが悪いことも多いようでした。

たとえばこの画像は、「感染力のばらつきが大きい」こと、つまり「すごく感染させてる人とほとんど感染させてない人がいる」という発見を表し、クラスター対策と行動変容の組み合わせ…という戦略を基礎づけるキースライドと言える内容でした。

SNSを見ていると、「工学系」の人は、「ふーん、いいんじゃない?でもこれってどれくらい再現性のある分析なのかな?」的な態度の人が多かったです。

しかし「理学系」の人の中で、しかもかなり理論的な分野の人で、原理主義的な考え方をする人は、「全く科学的ではない!専門家会議は科学を愚弄している!」みたいな人も多かったです。

ただ、「ビジネスでデータ分析をしている人」からすると、たとえn数(調査した人数)が少なかろうと、「ここまで明確な傾向性」がある現象が、多少薄まっていったとしても、「均等な分布」にまでなるはずがない…というのは体感的に知っているわけですよね。

そしてここまで「かたよった分布」を前提にした打ち手と、「まったく均等な分布」だと思ってする打ち手の効果が全然違ったものになることは、「ビジネス系のデータ分析者」は体感的にわかるわけです。

ビジネスにおける分析っていうのは、広告における反応率が「0.01%」から「0.1%」になっただけで利益率的には全然違うインパクトがある…みたいな世界なので、「明確な傾向性」がここまで見えていて、それをベースに「最小のコストで最大のインパクト」を出す戦略を構築した日本の専門家会議の「神業っぷり」がヒシヒシわかるんですよね。

欧米人は傾向として「世界は一様である」と思いがちで、日本人は「ありとあらゆる個別の特殊さ」にこだわりがち…という問題がありますが、今いろんな人が指摘しているように、このあたりの「現実に近い領域での分布の偏り」を前提とした分析の鮮やかさと対策のオリジナリティは、最近になってやっと欧米の新型コロナ研究が徐々に追いついてきた部分だと言えるでしょう。

結果として、前回記事で日本の製造業の思考法と絡めて説明したように、欧米のように「都市まるごと一緒くたにロックダウン」するのではなくて、「感染させやすい現象が起きる真実の瞬間」を選び取ってそこだけをピンポイントで潰していこうとする戦略が生み出されたわけです。

そういうところが、「見た感じ何もやってないように見える」ほどに鮮やかな日本の対策のコアにあったはずなんですよ。

6:「狭義の科学」と「現場の知恵」の間のラグを「信頼」で繋ぐことは、特に自由主義世界で大事なことなはず

「狭義の科学的明晰性」が隅々まで行き渡っているような対策っていうのは、実際に実行に移すとなると強力な中央集権的主体が必要になるんですよね。

さっきの「借金のたとえ」で言うなら、100円単位のコンビニの買い物まで全部家計簿に転記しなくちゃいけなくなると、日本で言うところの「地方都市」ぐらいのサイズのニュージーランドみたいな国とか、中華文明圏(+韓国)みたいに「政府」が個人を管理する強烈な権限がある国じゃないと絵に描いたモチになってしまう。

ちゃんと全員検査して、ちゃんと全員追跡して、ちゃんと全員隔離する…とかしなくちゃいけない。こないだ韓国で、政府から義務付けられた自己隔離を守らず外出した日本人が逮捕されていましたが、それぐらいの厳しさが必要になってしまう。

日本みたいにマイナンバーですら果てしなく抵抗されて骨抜きになった国じゃあちゃんと実行できません。ましてや欧米社会でも難しいのではないでしょうか。

しかし、「ざっくりした傾向性」を捉えて、多彩な方策で確率を削っていくことなら、自由主義社会にも可能なはず。

最近の日本のゲームだと、バカでかい「敵ボスキャラ」に対してよってたかってプレイヤーがタコ殴りにして「チマチマとダメージを与えて削っていく」シーンってよくあるじゃないですか。

結局、「R(再生算数)というモンスター」がいて、それに対して多彩な攻撃を各人ができる範囲で勝手にバラバラにしかけていって「確率」を削っていけばいいわけですよね?

・勇者●●は、帰宅後手洗いとうがいを実行した!Rに対して0.00…1%のダメージ!
・専門家会議は、 “クラスター対策”をはなった!全国の保健所がクラスターの連鎖をおさえこむ!!!Rに対して0.5%のダメージ!
・●●株式会社は、テレワークを導入した!Rに対して0.00…1%のダメージ!
・志村けん氏はメガンテを唱えた!日本人への強烈な啓発効果でRを抑え込む!!!

(ちょっと最後の一行が不謹慎すぎるかもですが、彼の訃報以降日本人の警戒意識が大きくあがった…ということは各種調査でも示されています。ご冥福をお祈りします)

入れている%の数字は適当ですが、上記みたいな感じで、「勇者の挑戦」とか「さらに闘う者たち」的なBGMとともに、

人それぞれ出来る範囲で勝手にバラバラにローコストでできることをやって、「チマチマチマチマ確率を削っていく」ことで、R<1状態に持っていきさえすればいいのだ

…という理解ならば、プライバシーに対する政府管理が嫌がられる自由主義社会でも、なんとか可能なモデル…ということになるのではないでしょうか。

要するに「アカデミックな視点」と「現場」の間に一切ラグ(すきま)がない政策は、強烈な中央集権が必要になるけれども、「アカデミックな視点」と「現場レベルの人間」との間に信頼関係があって、「各人が勝手にできる範囲でチマチマと確率を削っていく」方法であれば、自由主義社会にも活用可能なはずだ…ってことです。

そしてそこにこそ、「トランプVS反トランプ」的な欧米文明の袋小路を超える希望として、私たち日本人が提示していくべき希望の旗印もまた、あるわけです。

まとめ

今後、日本の対策が「なぜ」うまく行ったのか…は党派性を離れて冷静に検証が必要です。第2波が来た時に「もっとうまくやる」ためにもね。

しかし、世界観全体が「狭義の科学的視点」に偏って、いわゆる銀の弾丸(それさえやればいい的なシングルイシュー型のモノの見方からの解決策)的なものを探し求めても、それを実行できるのは強烈な中央集権が可能な国か、日本でいうと地方都市サイズの小国だけに限られるでしょう。

アベ政権の説明が悪い…ってのは確かにあるんですが、先程も述べたようにこれは「知的能力」というより「パラダイム」の問題なので、そもそもパラダイムが共有されていない相手にちゃんと説明するのは本当に難しいことなんですよ。

だからこそ私たち日本人は、自分たちのオリジナリティのコアにあるものが、トランプVS反トランプ的な欧米文明の行き止まりにおいて、あるいはとめどない米中冷戦のような時代背景において、今後重要な希望になってくるというストーリーを、ちゃんと共有して、「普遍的な論理」で語れるようになっていかねばなりません。

なぜなら、「普遍的な論理の延長でそれを語れる」ようにならないと、「ここは日本だ黙ってろ!」的な閉鎖的な高圧さで自分たちの美点を守り続けるしかなくなってしまうからです。

コロナ対策に関する初期の海外報道を見ていると、「とにかく日本を徹底的に否定したくて仕方ないタイプの英語が達者な日本人」があることないことを吹き込み、そしてそれが有名メディアでもちゃんと現地語(日本語)情報で検証したりされずにそのまま報道されたりしがちなために、相当歪んだ像になっていることも多いことが、今回白日のもとにさらされたところはあると思います。

PCR検査に関して私がまとめた第2回の記事は、フェイスブックのお医者さんとかにシェアされ続けて、最後には英語のコメントもチラホラ来るようになりました。

もちろん私だけじゃなくて、“党派争い”から距離をおいて物事が見られるタイプの多くの日本人が粘り強く発信したことで、徐々に海外メディアの論調も「中立的で冷静な」ものになっていったと思います。

中でも、精力的に英語で発信され、私の記事よりももっともっと大きな影響を持ったと思われる北海道大学の鈴木一人教授は最近ツイッターで、以下のように述べておられました。

さっきも書きましたが、欧米人はこの世界を「一様なもの」として考えすぎるところがあり、非欧米人でも特に日本人は「すべての個別性を特殊なものと考えすぎる」ところがあると思います。

そして「欧米人があまりにも世界を一様に考えすぎる」ために、「非欧米社会」において、また欧米社会内においても反トランプ主義のような形で、「対立」が表面化しているのだと考えてみましょう。

米中対立が激しくなっている現代においては、この「それぞれのローカルな事情ってのがちゃんとあるのだ」という理解を、ちゃんと「普遍的な論理」ですくい上げていく作業が、今後ますます大事になっていくでしょう。

「ローカルな事情を理解せずに、欧米的な先入観を非欧米社会に当てはめてジャッジする」論調が大きすぎるから、逆に排外主義的なことを強烈に主張して閉鎖的な場を維持しようとするモメンタムも起きるのであって、その両者は表裏一体なのだと私は考えています。

大事なのは、第2回の記事で書いた私のクライアントが「ポイントカードをアプリにした」話のように、

ちゃんと「ローカルの事情」を深く理解して、普遍的な論理ですくい上げる「あたらしい意識高い系」と私が呼んでいる態度です。

もし「閉鎖的で高圧的」な、「日本は特殊なんだ」という論調が止めようもなく盛り上がってきたとしたら、それは私たちが「普遍的な論理」だと思っている考え方がまだ大雑把すぎて、ちゃんと「ローカルな事情」をすくいあげられていないことが原因なのだ…と反省する契機にするようにしましょう。

次回連載では、「米中対立の時代に私たち日本人にできること」というテーマになる予定ですが、経済のアジアシフトによって欧米文明の相対化が起きる時代において、「それでも欧米的な普遍的理想」を人類が失わずにいるために、私たち日本人が自分たちのオリジナリティに目覚めて提示していくべき希望の旗印とは何か…について書きます。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう。連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。

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いろいろな雑談的話題も含めながら、「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を共有し、あなたの人生を別の視点から見直して今までにない希望を感じていただける記事を書いていこうと思っています。

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